門静駅
(根室本線・もんしず) 2010年9月
根室本線の東側も、夕刻とあって本数が増えている。尾幌にやってきた列車はやはり高校生を降ろし、私は乗り返したわけだ。次はもんしずというところだが、鼻母音と子音を感じる異国の響きだ。やはり「もんしず、もんしずです」と女声は母音的に読む。着いたところは簡明な駅だった。しかしこれより先では暗くなってしまう。
一緒に降りたのは三人ほどで、駅には一人待っていた。ある男子高生はこちらをちらちら見ながら、何かを迷っている。煙草でも吸うのか、と思いきや、線路を渡って近道したのだった。「なんだそんなこと!」 だってこんな駅もう汽車来ないよ。渡るなり寝転がるなり、いや、それはまずいが、何か私はそんなことに安心した。
傍の国道に出て、はじめこんなところに大きなラーメン屋とauショップがある!と思った。よーく見ると "ガスステーション" とあり、給油所なのはわかったが、それでもまだラーメンが食べられる給油所だと私は勝手に思っている。というのもかなり中華風で派手な文字と色、ロゴを使っていたからだ。けれど近づいてどこを探しても、ラーメンのラの字もない、食事処をにおわす表現すらもない。そう……ここはただのガソリンスタンドなのだった。字体と色とロゴで、こんな錯覚を起こさせるとは、と驚いたが、私はほんとにもう腹がへっていたのかもしれない。なんというか、駅旅ではそういう実感がいつもないんだよね。気が付いたら日が暮れている。一日が過ぎていく中で食べられなくても、 "こんなところに” 店がある、というだけでうれしく、なにかお腹いっぱいの気分になってしまうのだ。だけどここは最後だし、本当にここがラーメン屋だったら迷わず入店していただろう。
とかく、もしや、と思い "auショップ” を覗くと、およそそんなものではない、何かまったくに別の店だった。さて、これは私の説であるが、こういった国内津々浦々にある少々不便の地には、大手飲食チェーン店といったようなものと "よく似たもの" が出現しうる。その極端な例はもじりで、はじめから大手コンビニなどに似せて作る確信犯のパターンだ。しかし私のここでの説と、実際ここでの例は、「無意識」の範囲にあるものである。ほかに例えば本当に悪いことなど考えなさそうな地方の道路沿いのぽつんとした喫茶店が二重円形に肖像画を描いたものをロゴにしてしまう、というのもこの例に入るであろう。これはまだ本当に期待した通り喫茶店だからいいのだけど、この門静でのパターンは何か私はほんとうに苦しかった。ラーメン…声を落としつつ、釧路まで晩ごはんおあずけとなった。
急に私の門静は輝きを失った。期待の夕暮れが、ただの夕暮れになった。この地で何も為さぬまま、一日一日が過ぎていく、その日の夕暮れのようだった。
車の通りは結構多い。
爺様が犬を連れている。ここにも普通の暮らしがあるのだ、と思う。私の押したボタンで、我々は向かい合うように道を渡った。こうして日の最後についでの感覚に降りてやるにはちょうどいいところだった。だって後は釧路に帰遁するだけなのだから。
私は旅人だ。田舎の人でも都市の人でもない。何かあったら都市に引き返して引きこもってしまう。
駅は新しいコテージ風なのに防寒もあったものではない造りだった。しかし相変わらず敷地だけは圧倒的に広い。ここで最後か、とただ一人だだっ広い敷地に屈んで、ぼーっととりあえず駅の門を眺める。しかし何も想念は出てこなかった。鼻母音のせいで、ただ地の名がMon-Shizというだけだという感じだ。伝統的な駅舎や店どころではなく、今もここに汽車が停まるということだけでも、結構なことなのかもしれないな、と屈みながら自分が中心となった未舗装の広大な敷地を見渡す。もう立ち上がる力もない。付近に宅地はあるが、誰も来ないし、怪しむ人もいなかった。 "とまる" という、ただそのことだけで駅だと考えられるわけだ。つまり停車場だが、当局との絡みの上だけで存在しているような、そんな抽象的な”駅”すら思い浮かぶ。敷地というのはつまりは国家さ。そして私という存在も、そういったものに絡めとられている。道路というのもまたそれに等しいだろう。
この広い駅前の土地。道内の人にとっては当たり前であるが、あの内地の様々な利権を思うと、なるほどこの地を拓く選択をした人の気概もわかる。いきなり今北海道に来ることは困難でも、自分の周りでできそうなそれに等しいことが、まだある気がした。