向洋駅
2011年5月
旅行計画を立てているとき、この駅のことを「コウヨウ」と呼んでいた。「コウヨウは割と大きな駅だし、広島市街にも近いので滞在時間が難しいな…」。けれど直前に"ムカイ・ナダ"と読むことを知って戦慄する。なんて詩的な地名なんだと…昼下がりのギラギラする瀬戸内海に、戦時は艦隊が、クレタ的平和時代には魚をすなどる孤舟巨大なるものとして灘を漂ったことが想われて、この青のトタン屋根の大味な木造舎とも相まって、僕は独り胸を熱くしていた。
向洋は人の多い駅だが、半袖の人もいる初夏のムッとする空気の中、勇気を持って降りてみる。もう広島市街も近かった。
深い懐かしみへと引きずり込んでいく
ホームは最近改修されたようです
向灘はざっくりとした駅だった。木組みの上屋がたくましく、線路は4本もあり、真ん中の2線は太陽光でギラギラしている。向うのホームは離れ小島のように遠く感じる。ホームを歩く人も暑いのか、手足をぶらぶらさせて改札へと吸い込まれていき、ムカイナダの響きも、何か少々荒々しい感じがする。
ところでここはギリギリのところで府中町という独立した自治体だ。府中町は周りを広島市に囲まれていて、またそれも離れ小島的だともいえそうだ。
複々線に見える
端の方に改修前のホームが見られて、もっと前に来ときゃよかったなぁと
広島市境の山々が見えている
跨線橋から民家蝟集しときおりマンションの聳える風景を眺めると、いよいよ中国地方の雄に近づくのを感じたし、何よりも遠巻きな新緑の里山々がきれいでそれが広島らしくもあり、青空は薫風がいっそう淡いベールをかけているようだった。
ところでこの辺り一帯は青崎と呼ばれ、向洋はもう少し海寄りのエリアだ。昔はこの辺りも岬だったのだろうか? さっき無効だったホームに移動すると、木造舎のさめざめ青い屋根の向こうにマツダ病院が見え、何もかもが広島らしかった。
ホームの基礎にはどちらにも古いペンキ書きで"ちょっと待って ポイ捨ては マナー違反です"なんていうのが書いてある。そしてそこかしこに新しい看板には「マツダ地域貢献委員」の名とともに、喫煙所の案内が…
マツダ本社はここから目と鼻の先で、社員が昔からこの駅を多く利用したのだろう。パワーあふれる戦後が想われて、やはりそれは逞しい広島には似つかわしかった。
今は何でもきれいにし過ぎて、躍動力や創造力を失ってしまった。ヒマになったのか、どんな些細なことでもきれいに、綿密に処理したがる。どうでもいいことなんかどうでもいいまま放置して、いちばん肝心なことに全エネルギーを注ぎ込む考え方を取り戻すのはもう不可能なのだろうか? 僕がこんな風な旅をしているのも、それが自分の重要なテーマの一つだからなんだ。残念ながら僕は"オタク"ではない。オタクという人ほどに僕は純粋に技術や知識のみに執着するという意味での誠実さは持ち合わせていないし、それよりもやはり関心があるのは自己の精神の追究で、そのことに対する欲はかなり強い。
向灘は開放的な駅だった。人は少なくないが、ざっくりして、けれど長居するようなところでもない。ホームが離れているのもよい。けれどこの時はまだ、駅前町が旅人を引き付けて離さないほどにどきつい広間色であるのを、まだ知らなかったのだ…
2階建てに見えた駅舎は、中に入ると吹き抜けなのを知った。明り取り窓がお洒落でもあり、けれども駅に威厳を添える陳腐的な手法でもあり…しかしそれゆえに今となってはいとおしさを周りに発散しているのは間違いなかった。それは昭和の摺りガラスへの想いと相似かもしれない。中にたばこの自販機と公衆電話があるのにも驚く。広島人はタバコが好きである。
たばこの自販機もこんなとこにあって、もはや絶滅危惧種的光景
なにか理由があるのだろう
駅から出ると僕は思わず強烈な日差しに羞明する。そしてなんか突然、昔の世界に迷い込んだかのような感じになった。ロータリーは歪んで狭く、亡霊のようにその中心部には一本の高いもみの木を中心に緑がわんさかさかっていて、そこだけ小さな鎮守の森のような感じだ。周りにはどんな隙間も逃さないぞといわんばかりに、個人店が入り込み、商品や看板を敷き詰めている。
「なんなんだここはいったい…」
戦後の闇市かくやとも思わせるその光景は、目の前の世界が現実のものだとはとても捉えがたかった。何よりも驚いたのはこの駅前広場に入り込むには一本の細い道しかないということだ! 中国地方にはよくあるスタイルだが、こんな市街地にあるとなると、それはなにかもはやエアポケットであり、魔境醸成地となること必至である。
人の姿も絶えなかった。ハイヤーか自家用車が入っては人を降ろしていく。
糸崎もこんな感じだった
観葉植物だらけの怪しげなチケットショップや中華料理屋を尻目に、僕はあの真ん中の"緑の森"へと入っていった。ここまでロータリーに自然な樹勢のもみの木があるのを僕は見たことがない。
ところで、ロータリーのこの緑って何だろう? 近年は失われた共同幻想の復活の目論見なのか、彫刻や時計塔を置くことが多かったが、最近ではそういうのも置かれなくなってきた。
住宅地の中にも、たまにこんな風に手付かずのエリアがあるものだ。祠や社がないなら、それは単に地権関係のことが多いのだが、それがなぜかいとおしく、必要に感ぜられるのは、記憶の装置として最も適切なのは、樹木だからなのだろう。つまりは―それが何年あって、どんな気候だったのか、その背丈がまだないときは周りはどんなだったのか―そういった想像と記憶の媒介装置である。もっといえば、わわれわれ人類が残してきたといえるようなものは、相当な努力とともにある、そういうことになりそうだ。そして残るものとはそうした気候変動の歴史ぐらいしかなく、樹がなくなったらなくなった、残すという営為はその程度のものであるということになりそうだ。
街路樹の伐採一つとっても反対運動が起きるのは、こうしたことが関係していよう。
喫煙所?
ではもっと抽象的に「樹」が残るとはどういうことなのか? それは少なくともそれが創造と記憶の媒介装置として働いているという無意識も含む共通認識があるということを意味している。その認識を経済原理と切迫した要求が越えるとき、樹は切り倒される。
それを惜しんだ人は根を斬られた植物のようにしだいに衰えるかもしれない。しかしながら―人々が残してきたというものが残っているのは「相当な努力」を伴っているはずだといえるのだから、それを伝え残すことは、誤りでないのだ。
なんか語ってしまったようだけど、向洋の駅は日に当てられ、色褪せた青トタンを戴き大味で大ぶりな相貌で、その不思議な駅前に横たわっていた。駅というものが民家の拡張系と捉えられていたことがよくわかる。いずれにせよ、或る時代には相当な混雑を呈していたようだけど、現代の日中平日に来たこともあって、どうにか向洋は平和的時間を牛歩のごとく歩んでいるようだった。
それでも朝夕はそのベージュの躯体に何度も鞭うたれるのかもしれない。タクシーの運転手が近くのラーメン屋の主人と世間話した後、あの不思議の杜に入って、タバコを吸いはじめた。
大通りに出ました
唯一の道路です(現在ではお巾に区画整理されて別のルートができました)
儀式のように僕は大通りに出る。車の時代とさっきの時代がどうシームレスにつながっているか確認すべきだろう。通りは複雑な交差点に至り、広島の昭和的活気を十分に感じ取ることができた。マツダにカープに…かつて各地方が独自色を擁しながら力強く発展してきた時代をいまも広島はよく残してくれている。戦禍で既得権益層もろとも更地になったから高度経済成長期を迎えたのだなんてことは言いたくない。そんな災いを呼び込まなくても、権力を監視し、それに対して主張し、ときに革新運動によってそれをつぶし、潰される側も自らそれによって正しく自発的につぶれ、そうして自浄能力を持つことで、新たなエポックをいつでも斬り拓けるようでなければならない。まぁ、僕はそう信じてやまぬわけだ。
右手には府中町の看板が見えます
大きな都市に近づいたなと思う
自分の地元でいえば東レのお膝元の石山みたいなもので、こんな感じの通りが今もある
かつてマツダの社員が飲み歩いたり球を打ったりした「銀座」の残滓を探訪した後、僕は駅へと戻った。再びここへきて、この駅前を研究する機会にもまみえないだろう。だから ― 一つ一つの探訪から必ず何かをくみ取って去らなければ。人生そのもに対しても、きっとそういうものだと、僕は信じている。