名和駅
(山陰本線・なわ) 2012年7月
白い炎色反応を起こす大山口駅の石造りの駅舎の中で「ここは日陰だから涼しいだろ!」と自分に言い聞かせ、どうにか汽車を待った。
そもそもこのくそ暑い夏にエアコンもない無人駅を渡り歩いて汽車を待つなんて常軌を逸しているかもしれないと思うと、茫然とし、先が真っ暗になるようだった。
車内の冷房に憩えるのもひと駅分だけだ。
こうして乗った列車も鳥取まで行くのだろうし、そこを目指している旅人も乗っているかもしれない。私はその遠大な距離のほんのひと区間を今乗っているだけだ。けれどとてつもなく迂遠な旅をしているような気がする。
なんども伯州は大山の麓をこうして鉄道で行き来していたので、眺められる海ももう当たり前のものになっていた。地元の人が黄金に輝きはじめた海をうれしそうに眺める様子を見て、心の中で頷いてしまう…
しかしこれをいつでも特別なものとして自分のものにするにはどうしたらよいのだろうか。
そんなふうに眺めの良い駅に停車する。もう私は降りるに羞恥しなかった。気動車から外に出ると、黄色い太陽光線が私の頭部を射ぬき、思わずかざした手も穴だらけになる。黄色い鹹水を流しながらけわしい表情で私は駅舎の日陰によろよろとすっこむ。
車窓からの海と甍の眺めはなかなかよかったのに、ホームに降りると高度が足らなくなってちょっとがっかりする。まぁ歩けば同じだろう。
ふと北陸本線の浦本を思い出すが、雰囲気はこちらが明朗に陽で、広がりもある。
ホームに寄り添う明るい崖には洞穴がいくつもあり、摩訶不思議。しかし土は古い感じではなかった。
それにしても…同じスタイルの駅名標でふだん近郊区間ばかりのものばかりを見ていただけに、こんな海とセットの不思議な駅もあるんだと。ずいぶん遠くに来たのだな。
それにしてもこの駅、おもしろいな。海を望む砂の崖を切って平場にし、そこに駅があるのだが駅舎は地元の飲食店を併設していて、独特のものになり果てている。外に出ても駅舎は左手に伸びて軽食屋の看板を出していた。なんかかなり前のセンスだが、線路側の看板からすると海の幸らしく、表現が個性的で郷土色満載。営業していたら名物になっていただろう。いや…営業していて、はてには中の人がSNSなんかしていたら、何か喪失感を得たかもしれなかった。今は静かにねむるこのままに…旅の私の想像力を羽ばたかせておくれ…
さて、みくりや名物のわかめのうどんでも食べようか。鳥取以西の山陰本線の珍駅・良駅としてはまずはじめにこの駅が挙げられると思う。
しかしこんな駅を持つ集落はどんなだろうか。出た道は海に向かって真っ逆さまに下っていく。高度があり過ぎて、たいていの家は2階が道路と接しているという始末。おもしろい造りの家が多い。国道は見下ろすように走り、交通難所のロマンを掻き立てられる不思議な地形だった。斜面を開鑿して新道を通したのだろうけど、それが古くなって、懐かしげだった。人の造りし新しいものも、儚いところがあると思わせるからだろうか。
下りきったところは情緒ある御来屋の集落で、まさしく昔の街道、だが、暑すぎて路面が白光りするほどだ。秋にはよさそうだけど、なにか困難を避けたみたいだから、やはり夏だろう。いつかはもう少しこういうところを丁寧になぞる旅もしてみたいが、今は鉄道旅ということにしている。それで今回は下関まで行くのだった。
国道にもじかに赴いてみたが、隣の御来屋駅では多く車を見たのに、ここではただ寂しげ一直線に信号ともして、車少なく、昔の日本海沿いのようでもあった。さっきの駅は見上げるようなところにある。駅旅をしていると国道自体も来訪ポイントになり、道自体が本来の利用から外れて対象化されるおもしろさがあるようだった。それはつまり…「想像する場」ということなのだろう。われわれはそれを繋いで、旅しているようだ。
とにかくまぶしくて暑くて、この辺で燃料尽き、階段やらスロープを伝って駅へ引き返す。そして深い日陰の駅舎内になだれこみ、長椅子に荷物を投げて私は動かなくなってしまった。片側の窓には暗い山崖の緑と土の匂い、反対の窓辺からは甍波とさっきの海が見わたせた。死んだ視線をそこに送る。そちらの少し開いた窓からかすかに潮の香りが鼻腔をなぞって、はつかに目が醒める。
とんだおもしろい駅と出遭ったもんだな…。そこで少し焦りを感じる。
「いや、ここは確かにおもしろいいけどさ、まだ出雲にも入っていないわけだ。おもしろいところが終わってしまったわけじゃない。」ドラマがまだまだ続いてほしいと童心に願っているのだったが、私は今そのドラマのただ中にいるわけだ。
しかしいくつかある山陰線のピークの一つを見てしまったことは間違いなかった。
あらためて見回して、
「なんか変な駅だね」と、くすっと笑う。
自分みたいに…。
どうりで笑えないわけだ。小駅の飲食店で生計を立て、あるとき店をしばらく閉めてその駅からふらりと旅に出る、そんなロマンティックな物語を思い浮かべる。店主は旅行中かもしれない。私が想像していることそれ自体と、店主が旅しているかもしれないことは、同じことのように思われる。想う、とはそういうことだろう。その人が生きているとは、何であろうか?
汽車の時刻なのか地の人が入ってきっぷを求め、こちらを見るが、私はもう体勢を正せない。夏の長い旅の道中だった。夏の旅ではこんなふうに動けなくなる時間の方がだんだん長くなってくる。ほとんど休憩だ…。
こんな駅を誰かと笑い合えればいいのに、と、思ういっぽう、風景はあまりにも懶惰にとろけ、町は哀しくなるほどやわらかく溶解し、そしてあまりに無警戒だった。