西広島駅
(山陽本線・にしひろしま) 2011年5月
西広島での思い出―架空生活
広島、横川、と人の多い駅をやり過ごし、西広島へと向かう。広島に着いたときの開いたドアからの騒々しさ。ついに広島に至ったのだな、と、耳の奥が遠くなった。だって二晩も駅寝して各停でここまできたんだから。
構内放送で駅名を呼びかけてくれて、西広島まだは市街のまっただなかの感じだった。
この駅は何かと熱心で、そこら中に格安で東京に行きませんかのポスターがあって、赤色が氾濫していた。そういうのが広島らしさに受け取られるのは、やはりカープ文化によるところが大きそうだった。行きかう人々の中で赤を取れ入れているのも、自然なものに思える。
ここ来るまでは夕刻前の最後のお昼の時間で、外は初夏の暑気、人々は久しぶりに浴びる車内の冷房に少し疲れているようでもあった。ある二人の女子大生が、
「私、むっちゃ東京の地下鉄にあこがれねん」
「あー、わかる。」
「あの路線図みたら、なにあれ? もうわけわからんやん!」
「わからんな」
「でも、あこがれんねん! わかるやろ?」
「わかるで」
「広島は…」
「広電ぐらいやな…」
二人はアッハッハッハッハと笑って、この西広島に降りて行った。
自分のような旅人にとっては、こんな地方都市の方がよっぽどか刺激的だ。広電しかない…といっても、本当はそれだけでもすごいことなのだが ― いや、いいんだ。あるはずだと思ったところには、たいてい望んでいたもの、求めていたものは何もないものさ。それに気づくようになるには、時間がかかる。
十代の時分、大都市に住んだおりには、その都市の路線すべてが手に入ったような感じを覚えたものさ。けれど実際使うのはその中の二、三駅、そしてその二、三駅をもっとも効率的に使う方法を身に沁み込ませるのが毎日でしかなく、残りの全部は賑やかしとしてのお飾り! けれど、頭の中はいつもその一度も使わない路線と駅のことで賑やかで満足…そんな感じなんだ。
そのときの身近な環境を十分に精神的に都会化したうえで出立しただろうか、と思うと、いや、でもそのときは確かにそうだったともいえる。過去にまみれた土地というものを、一度は捨てなければならないものさ。
ただ、その後自分の欲しいものは、都会では何一つ見つけられなかった、ただそれだけなんだ。政治も軍事も知りたくない純朴な十代をかき集めたところに混ざったところで、自分をなお欺き続け、生活の歪みは激しく軋るだけなんだ。
いま、僕はそんな過去から離れ、目の前に迫るのは木造の上屋と山型屋根だ。そんな駅だけど人は絶えず、戦災を生き延びたのを想った。広島人というのどこからやってきた種族なのだろうか? 広島という語感だけでも明るい感じなのにそこに西とまでついていて、やはりこの日は暑く、僕の冷たい過去は十分な清涼剤としてはたらいてくれた。
高速バスやLCCとの対抗か、東京までの宣伝が多いんだけど、確かに広島人は東京と相性がよさそうだ。東京なんかさんざ行って荒らして来るのがいい、そんな気概すら聞こえてきた。旅や出張など、人々の移動が活発な中に、僕が逆のモーメントとしてしっかり組み入れられているのを感じた。
山口線や岩徳線を走ってそうな…
でも圧倒的に東京の宣伝の方が多い
広島市街は平地は意外と少なく、そのため背後の丘陵地はたいてい宅地開発されている。けれどその緑が季節もあってさわやかで、何か広島らしさを演出するのに一役買っているのは間違いなかった。看板や広告塔も赤が多い。でも九州の赤とは使い方が微妙に異なる。九州の赤はもっとこう、重厚な感じがしている。
暇そう
ノルマがあるのでしょう
そのための用地でしょうか(まさか…)
2011年の節電ため暗いです
僕は古い駅前のわちゃわちゃとした雰囲気を楽しんだ。なぜ昭和というのはこんなにも旅してる感じを味わせてくれるのだろう?
「もう、こんなの全部潰してやり替えたらいいのに」
「ほんとうは好きなんでしょ、こういうのが?」
「いいや? こんなものもう飽き飽きしてるしね。きれいにした方がいいよ!」
子供の時分、大人たちが自分の知らない時代のことをいっぱい知っているのが悔しかったものだ。こうして旅することで、そのときの気持ちを晴らしているのかもしれない。けれど、こうした情景は今やショーケースの中のものだろう。当時駅前につきものだった乞食もチンピラもヤンキーもいない。そこはかとなく"コンプライアンス"の空気が支配していて、今や安全に鑑賞できる。
とかくこんなおもしろそうな町の探訪には時間がかかりそうだと、駅の中にあった赤ちょうちんを燦燦と吊るした飯屋に入って、簡単に食事を済ませた。丼を注文。ちゃんとした食事は後に取っておきたい。
駅前の人通りがあるのは、少し離れたところに広電の駅があるからのようだった。日が色づきはじめていて、これから帰宅ラッシュが始まりそうな雰囲気だけど、旅する僕の足の矢は、まっすぐに駅前を截っていった。
しかし復興の記録でもあろう
JR四国はこういう形が好きですね
この先は路面もあるし…
緑の屋根がきれい
大都市にはたいていあります
広島といえば橋だし、そして路面電車だろう。戦前の面影のある車輛が網の下を出入りするその大交差点は、僕に西広島の近くで独り暮らしする感じを与えてくれた。すぐ終わってしまうような学生生活だけではなく、もっと迂遠な追究者のような感じだ。そう、この辺でかなりマニアックな分野の理論を教える者として、乞われて来ている感じだ。けれど乞われたというのはこちらへの相手の配慮ゆえで、あんまりにも僕が悲惨な生活をしているのを見て、手を差し伸べてやった、そんな感じに近いのだった。
僕もばかじゃないからそれくらいのことには気づいていた。けれど、半分は気づかないふりをして、もう半分は、ずいぶんと一所懸命にそして生徒たちに親身に教えることで、気づいていることを示したのだった。
むろんそれでも生活費足りないから、その辺の店で仕事を探して、僕は食いつないでいた。僕を乞うた人も、何くれとなく食糧を差し入れてくれて、一人部屋で食事を終えた僕は、ラグの上で寝そべりながら、カーテンの隙間越しに闇夜に落ちた西広島駅前の街を想った。
「意外になんとかなるもんだな」
ふいにさっきから付けていたテレビの音がより耳に入ってきた。広島のニュースをやっている。今度緑地公園で花フェスタがあるそうだ。
夜にこのここ一のカレーを食ったものだ。
そう思ったら、生徒からメールが来ていた。文章で説明するのが面倒な質問だ。僕はスカイプを立ち上げて、すぐに懇切丁寧に教えた。どうせ時間ならある。接続を切ると、僕はまた寝そべった。人に教えるということがどれほど責任重大か、身をつまされるようだ。間違ったことを教えたら後々になって恨まれるし、それに人間というものは、最初に入ったものが頭に残るようにできているからだ。かといってそんなことばかり気にしていたら、本当に保守的になってしまい、ありきたりなことばかり教えることになってしまう。そんなものに金を払う奴もいないだろう。わからないことはわからないというしかないし、基本を越えたところは対話によって、作品によって紡いでいくしかない。僕は少なくともそういう世界戦を生きている。
僕がこの街を離れることになったのは、教えていた教室がビルの取り壊しで代替が効かなくなったからだった。僕を乞うた人は、継続は難しいとの判断だ。それで二つ返事で、僕はこの街を去ることにした。
「君はもう十分、一人でも同じことができるよ」
最後の日に、よく行ったカレー屋や、いろんな生徒と初めて面接した喫茶店を回った。築き上げたものはやがてなくなってしまうけど、これまでいろんな子に教えたことは、たぶんもっと後々になってまで残るだろう。別にそんなことをよすがにしているわけではない。ただ恬淡とした僕にだって、ちょっとは人間らしいところを見せることを許してほしいい、そう思っただけだ。
すぐ思い出せるのは和歌山線の岩出駅とか?
そうして十年の月日が経ち、僕は再びこうして西広島駅前に降り立ったわけだった。あのころの生徒はとっくに成人しているし、結婚して子供もいるかもしれない。いずれにせよ、親御さんにとっては無事を家を出たともなれば、僕にとってはなんだか取り返しのつかないところまでいくことってあるのだなぁ、と、なぜかそんな気もする。
送り出した教え子には、自分の教えたことが、どこかで実を結んでほしいというのは、教える側の常というものだ。そしてその教えた内容の中には、生徒が先生から離れて数年してようやく理解されるといったたぐいのものがある。だから僕は、たとえ本人の理解がそのとき及んでいなくても、抽象的な概念まで高めた段階のことを、一応は教えるようにしていた。それを早くから知っているのと知らないのとでは、その後の進歩の速度が格段に違うのを、僕は知っているからだ。一番ダメなのは、この子はわからないだろうと思って、低次のことだけを教えるにとどめることだ。むろん、わからないことを言われる側は反発したり、気分を害したりして恨まれるのだが、その後、きっとなんでそんなことを教えたのか、わかってくれるはずだ。
生徒に常に気持ちよくいてほしいのなら、わかることだけを徐々に教えていけばいい。そして到達できなかったところには、触れない。けれどそれでは、なんであのときあのことに触れ置いてれなかったのだ、と恨まれる。結局、何をしても恨まれる局面が出てくるのが、教える側というものかもしれない。教える側は、常に我慢する側だ。
そんな抽象的ななんだと言ったって、あのときの人との関係はこの街にはもうない。当時、僕は僕として、僕なりに人とかかわって、人の役に立とうと、当時見も知らぬこの街で奮闘しただけだ。幸いにしてたいして変わらないでいてくれているこの街並みだが、なせだが僕は墓の中からここに戻ってきて、覗いている風景のようにとらえられた。