西岩国駅
(岩徳線・にしいわくに) 2011年5月
駅舎のない"つまんない駅"に二つも降りた後、この西岩国駅に降り立った。石造りの近代建築でいい駅だと聞いていた。通勤時の列車をやり過ごした、朝のちょうどいい時間、気温も少し上がっていた。
ホームから見ると、丹色の屋根に猫耳が付き出している。お茶目さを偲ばせたのか?と、驚きとともににやけれるけれども、 やはりここは誇りを顕わにするかのような方向性で間違いなさそうだ。
駅の周りのは不釣り合いなくらい荒廃した鉄道用地で、かつての威厳のかけらもなかった。そう、僕は、つわものどもが夢の後、を、駅を軸にしてやりたいだけなのだ。けれど考えてみると、それはつまりは、明治の"開国"から1945年までの間と、今もなお続く主権のない状態を、もう過去のものとしていかなければならないことを、暗に示しているのかもしれなかった。
2023年現在、鉄道の事業は"爆縮"の時代にある
構内は広いが、ひと気はなく、駅舎の向こうの車道の走行音が響いてくるばかりだ。歩道橋も見えて、なんだせわしなさそうである。駅舎の丹色は、マンサード気味になっていて、構内の荒廃した感じからも、北海道の駅みたいに見えた。北海道も近世から近代にかけて本格的に作られていったたところだ。似ていることは、不思議ではない。
それにしても天気は良かった。西に向かいつつ三晩、山陽地方で駅寝してここまで来たけど、なんか岩国まで来てはじめてどっと疲れた感じだった。周防の国というのはほんとに心理的に遠い。それは昔からそうだったのだろう。
近代、というのは、それほど我々には"遠い"ところだったのかもしれない。いや、今も遠いではないか。現状を糊塗し、何も整理せぬまま、今の今までどうにかやってきた。否 ― 整理もせぬまま追い立てられて進む、それは近代化それ自身が孕んでいた胤なのだろう。だから我々は多くの矛盾を抱えながら、走らされ続ける。
階段までが木製の跨線橋に上って見渡すと、里山と、ごつごつした岩国の山々に取り囲まれた盆地だった。ハウステンボスに行っても、日本らしい山々が見えるのは、つまりはそういうこと。見下ろされる石造りの近代建築はそれが昭和4年のものでも、どうせ植民地化されるなら自らの手で、そんなふうに見えもした。けれど自国の人間によって行われたことで、鉄道は風景に溶け込むような意匠となった。
ここは錦帯橋の最寄り駅だ
あちこちにアーチの意匠を取り込んだ白塗りの駅の中は、モルタル塗りの床に水が打たれ、古めかしいごつい長椅子が鎮座している。かつては岩国駅として開業したとは思えないくらいの狭さだが、当時の国内の人口は約6500万人。これで事足りだのだろう。
山陽のとある駅前
車寄せが石造りで、鋭鋒を模したような固い三角に、アーチが組み合わさっていた。それはなにかどこかの国の統治時代の建築ともいえるような感じだったが、屋根は瓦だった。我々がいわゆる近代建築を評価しなくなるとき、我々は我々を真に見つめ直すことができるようになっているのだろうか? そんなことはもっと、巨大な時間の流れの先の話かもしれない。あるいは石器時代まで戻ってやり直すしかないのかもしれない。
できた当時はもっとパリッとしていたのだろう
洋風なアーチや洋館風の窓は、外海の勢力に開国"させられた"、そんなことを思わせるくらい、異様に張り込んだ作りだった。アジアで先陣を切って近代制度を受け入れたのは誇らしく語られるけど、その後は米英の手と足となって戦い、最後にはその彼らによって1945年、日本は滅ぼされた。明治開国から1945年までの期間は、いったい何だったのか? そして戦後から今までの、主権喪失事項を満たすこの現状は、何なのか? 中国は長い間難渋を舐めながらも、今では主権を謳歌し、漢民族の興隆期を迎えている。
天皇を祀り上げた近代制度はあまりに拙速だった。宮台のいうようにヒラメぎょろ目だったから、たまたまうまくいっただけだ。
ほんと岩の国というだけあって山がち
西岩国駅駅舎その10.
構内や駅舎内にいると安心できた。鋭鋒のような三角の巨石を頂いた車寄せは、何か僕自身を突き刺すようなところがある。入ってきた列車は剛性の高い車輛で、けれどもその鉄は柔らかだった。鉄を通してなら、我々はそれを仲立ちとすることができる。そして、動く、言うことも。そうしてもまた僕も、次の駅へと走らされる。