西笠田駅  - 桜の桜井線・和歌山線紀行 -

(和歌山線・にしかせだ 2007年4月)

  大谷駅から走り続けるとやがて集落の姿が復帰して笠田駅に着いた。 笠田と書いて、かせだと読む。この駅にも白塗りの木造駅舎があった。 それが物語っているように、開業当時から設けられている駅だ。 笠田の集落もやや大きい。 笠田を出ると、左手は開けているのに、前にしだいに山が迫ってきた。 トンネルで抜けるのだろうか。列車は走っていき、山に近づく。 すると、突然左へ大回りした。河原が近くなった。 紀ノ川の流れがよく見えるようになった。 すぐ下には国道が走っているようで、元気よく自動車が走り飛ばしているようだ。 右手に山がもっと迫ってくるようになるころ、そこがちょうど西笠田駅だった。 車内にいながらでも、ホームの桜が明るかった。 列車を降りた。降りると、やや冷たい風、それに乗って踏み切りの音が聞こえてきた。 待つ間もなく、列車は発車。ホームをどんどん離れて遠のいていった。 手元には、風と川の流れ、そして雄大な山並みが残された。

紀ノ川の流れと龍門山系。

笠田方向を向いて。妹山を遠望して。

駅名標と桜。

ホームを和歌山方面に望む。

再び下流を望む。

ホームの真向かいには、川にある島があって、 その緑に、妹山のなだらかな丘と、さらにその先にある山が重なっている。 ここからは島があるように見えない。写っている白いものはビニールハウス。

  列車の去った方を見ると、 広大な河原をもつ紀ノ川がずっと向こう方まで蛇行していた。 あんなに広くくねった河原で遊ぶのはどうだろう。とても楽しそうだ。 向こう岸は緑のもこもこする断崖になっていて、 川のカーブのせいでひときわ削られてきたらしかった。 その崖の上は丘陵地になっていて、古いホテルのような建物がぼんやり見える。 ホテルだとしたら紀ノ川を眺めるという趣向だろう。
  川面の全反射の向こうに、長い長い橋が霞んで見えて、 そのいちばん突き当たりに、今までとはまったく違う山地が高々と見えた。 今までは身近な里山で、距離も近くて山のおもてに柔らかい果樹園がよく見て取れたが、 この山系は、刃物の横刃のように鋭くのけぞって、雄大ともいえる山容だった。
 「ここまで来てずいぶん山も変わってきたな…。」
 これは龍門山系と呼ばれていて、見えているのは主峰の龍門山 (745.7m) だった。 左隣のピークとは懸曲線で結ばれている。 よって、よくなぞっていくと里山にしては鋭鋒だった。

  逆に川上の方向に川向こうの山を眺めると、 それは龍門山系よりすばらしもので、 雨引山から連綿と続いてきた山の柔らかさが、最大に極まったものだった。 ここで最高に豊かになって、終わっていくようだ。 しかし、川の広さと、緩やかにのけぞる大きな山は海が近いことを知らせているようだった。 紀ノ川の先の和歌浦 (わかのうら) だけでなく、 この山の裏から延々と続く紀伊山地の果ての熊野灘のことまで想像される。
  この山の名は妹山 (いもやま)(およそ120m)。たいていそうであるように、 私の背後に背ノ山がというのがあって、 両方とも何度も万葉集の和歌に詠み込まれた山となっている。 飛鳥時代の646年、この狭窄部が畿内と畿外の境界とされ、 ここから川下が紀伊の国であった。 貴き人は、並ぶ妹山・背ノ山を自分の大切な人と自分に見立て、 その人のことを想う歌を主に詠んでいる。なおこの境界は701年に真土峠に変更され、 和歌山線の大和二見・隅田間の旧線、真土トンネルがその下を通っている。
  当時の人たちの明るい紀伊の国のはじまりに立った感慨や、 この先の海のことはどのようなものだったのだろうか。 白浜はともかく、和歌浦ならあともう少しだ。 川を譲るような妹山、いよいよ流域面積を広げた紀ノ川。 紀伊半島そのものを見ることはできないが、知覚することのできるところだった。 しかしながら、和歌を詠んだ人の気持ちより、和歌に風景として詠み込まれた、 旅なんかできなかった人たちの気持ちの方がずっと気がかりである。

  ずっと遠くに目を凝らすのをやめてホームを顧みると、 後造りの駅らしいホームだけの駅で、フェンスの向こうが住宅地の道だった。 設備としては開放式の待合所と、端の方に例の券売機があるぐらいだ。 その券売機の前では制服の老人がさっきから独り言しながら作業している。
 「よしっ。できた。これでいいやろ。それっ………。  あれえっ? なんでこんななるん。おかしいな。なんで…。」 つり銭が正確に出ず、何度も何度も同じことを繰り返して調整しているのだった。 もうあの型の券売機はだめなのだろう。 中飯降でのことをはじめいろいろ問題が起きている。 しかし、いじらしいほど延々と同じことを繰り返していて、 よくあんなやくざな券売機を相手にし通せるなと感心していた。 だって、どうせ程なくしてまた壊れる…。

  ホームに立っていると、目の前の線路に沿うようにして、 未舗装の道がかよっていた。 その道の川側は樹木の列で、そのすぐ下方に国道が激しく走っているようだ。 快走する音がじつによく聞こえる。 未舗装の道がおもしろそうだ。後で歩いてみることにしよう。

ホームの開放式待合所。

待合所の様子。

駅出口。

レールと紀ノ川。

  ホームを列車の去った方に歩ききって、舗装路へと出た。 やはり住宅地であるが、これが背ノ山の斜面で、 駅から出て右手の先はかなりの上り坂の急カーブになっていた。 地形図によるとこの上はいったい果樹畑となっている。 駅出口はやはり駅名表示の1つもなかった。 しかし今は大振りの桜が何よりの目印となっている。

西笠田駅駅前。

笠田側から駅前を見通して。

西笠田駅駅前その2

踏切前にて。

  すぐ隣の踏切の前まで行くと、 妙に懐かしい感じがした。小さい踏切だけど、 その右向こうには龍門山と紀ノ川の流れ。 それに踏切を渡れば、未舗装の道だ。 やっぱり妙寺駅前と同じように、どことなく海に近い感じがしてしまう。
  踏切の先には地図板のほかに、 「わかやま・やまと」と書かれた「歴史街道」による標柱があった。 この先の道は散策コースに含まれていて、ここを歩きに来る人もいるのだろう。

西笠田駅。

「かつらぎ町まっぷ」。観光農園などが案内されていた。

「歴史街道」による「やまと・わかやま」の境界標。

未舗装路から見た駅待合所。

伸び行く白い道。

  白い砂道を歩きはじめると、ホームと路盤がよく見え、 右手の高い垣根の隙間からは下方の国道が見えた。 川に出られるといいなと思って歩きはじめると、 ホームの見えなくなったころに、しだいに桜がはじまり、 気づいたら、なにこれ、道はびっくりするような桜のトンネルになっていた。 この駅前にこんな名所があったとは…。 怖いぐらいの桃色のトンネル。歩いていくうちに、 これはさてはここのいちばんいいときにきたらしいと寒気した。 桜の下には句碑と長椅子が置いてあり、道の両脇には草々が茂っていた。 ぼうっとして歩いていたが、 右手の垣根が終わって笹になったので、近くまで寄って覗いてみると、 下方の国道に沿って瑠璃色の川が流れていた。 白砂の川辺から瑠璃色に変わっていく様子が美しかった。 しかしそこは川の一部らしく、狭くてすぐに樹林帯の岸があった。 か細い島なのだろうか。ここからではわからなかった。

ここからはまだ桜は少なさそうに見えるのだけど…。

徐々に増えてあっという間にトンネルに。

右手から見た紀ノ川の流れの片割れ。ほんとうに緑色。

妹山の方向を望む。

木々が覆い、道の表情が変わった。

  放心するような桜のトンネルも終わって、 今度は右手の常緑の大木が、道をがさっと覆った。 なかなか表情の豊かな道だ。歩いていて楽しかった。 その木々の深い陰を抜けると、青空が広がって、延々と轍の道が伸びた。 そして、予想したとおり、国道と坂道で合流した。
  まるで海に出たかのようでもあった。 国道は明るく走りぬき、広大な流域、 点描で描いたような樹園帯の山々、 すぐ近くに昔ながらのドライブインがあって、 ここが海だとしたら浜茶屋のようでもあった。 風が心地よく冷たく気持ちよく、 風が撫でてきた山の柔らかさそのものが、そのまま肌に伝わるようだった。 ドライブインは「お食事処いろは」で、自動車もやや駐まっていた。 近くに道の駅「紀の川万葉の里」がある中、営業していて良かった。 しかしいろはの手前にも1棟あって、 それは大方営業をやめているような感じだった。

木陰を抜けると空へ。

未舗装路の終わる手前にて。もうすぐ坂道。

国道へ下りていく坂道。

ドライブインの「お食事処いろは」。後ろの妹山の斜面には驚かされる。

こちらはお食事処の手前にある建物。右端一店のみ入っているようだ。

再びすばらしい妹山を眺めて。

  坂道を下って国道に合流してもほとんど渡れないような交通量だったし、 川にも下りられそうになかったから、駅へと戻ることにした。 もうここで十分とも思ったが、 ここでだいぶん時間を取って、川に下りてみてもよかった。
  さっき見た島のようなものはもう終わっていた。 地図ではこれは船岡山と書かれ、緑のこもる大きめの中島だった。 島の向こう側の流れもさして広くないようだ。この地点だけ狭隘なのが見て取れる。 この島には向こう岸から橋が架かっていて、島内を散策できるという。 しかしこの辺に紀ノ川を渡る橋がないため、そこまでは数キロ遠回りしないといけない。
  坂の途中から線路の先を望むと、 和歌山線は高度を維持したまま左カーブで 去っていき、いい曲線が出ていた。撮影するにはよさそうだ。 戻る途中、近くの背の山踏切から背ノ山を見ると、やはり果樹畑になっていた。 ところでこの背ノ山は双耳峰であり、そのそれぞれが妹背に 見立てられたのではないかという説がよく知られている。

きれいなカーブだ。遠くの和泉山脈も美しい。

来た道を振り返って。右手が背の山踏切。

国道を見下ろして。

桜と紀ノ川。

もう右手にホームが見えている。

駅近くの踏切付近にて。

河原の広さがよく分かった。

踏切を渡って、名手方面を望む。 ちょっと不思議な土地利用の仕方だった。

高田区内図。

  白い道を歩いて駅近くの踏切まで戻った。 その近くにあった高田区内図というのがおもしろかった。 手作りの凝った住宅地図で、右上には、1989年平成元年3月現在、 と書いてあり、そして作者のフルネームが堂々と書いてある。 それだけで十分なのに、さらに何が書いてあるかというと、「67才」。 その紙の地図は、もう雨が侵入しては乾きして、皺のよったよれよれだった。 お爺さんが苦労して作ったのがひしひしと伝わってきた。 この方は今年で85歳だ。
  プラットホームが見えかけていたとき、 例の人がまだいて、今度は長椅子に座ってつり銭を整えていた。 しかし私がホームに入って近づくころになると立ち上がってまた券売機まで行って調整。 かれこれ1時間弱も続けているらしい、 いや、自分がここに来る前からいるから、それ以上になる。

  長椅子に座り、川の流れを眺めた。 駅からの見晴らしはいいけど、下方からの走行音は強く聞こえてくる。 ずっと眺めていると、しだいに風が冷たく感じられ、耳も落ち着かなくなってきた。 そのころ、中年を過ぎた女性3人が向こうの券売機にやってきたが、 例の人が券売機の横にいて、ボタンを押して発券してあげていた。 話も少し弾んでいるようだ。3人はこっちにきて、長椅子に座った。 しばらくは三人だけでわいわいしゃべっていたが、 一人が黒いバックから霰の小いさい袋詰めを出してほかの二人に配ると、 その人は長いことこちらをちらちら気にするようになった。 ちょっと向いてみようかと思ったとき、これ食べる?どうぞ、おすそわけ、 と言ってさっと渡してくれた。すぐにお礼を言ったけど、 何か共犯にされたような、丸めこまれたような、 そして、和解のしるしのようでもあった。 そしてすぐにそれは、こっちの空間の孤立を 人に引っ張り出させたように思われて、 自分の足らなさが一袋の霰になって手元に渡ってきたようだった。 まるでこれ以上の接点のないよう気遣うように、もう三人は三人でしゃべっている。 じっと見つめていた紀ノ川は、ずっときらきら流れつづけている。 そしてその水の流れは、こっちに戻ってくることがない。

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