大津駅 ─ 大津の街を歩いて夏の大津港へ
(東海道本線・おおつ) 2007年7月
夏が来た。不思議なもので、その変わり目というものは、はっきりしている。ある朝起きると、空の色が違う、海の色が違う。ふわっと何かに包まれたように、空気がまるごと違っていて、別の国にやって来たような、いつもの場所に居ながら旅人になったような、固唾を呑むようなつよい幻惑で、わくわくさせられる。空の色はあらゆる窓に誘いをかけ回り、見守ってばかりは、とうてい居られない。余分に外へ出ても暑いことしきりなのに、その暑さを知らなければいけないような、みんなで汗を流れを実感しなければならないような、長い時間の流れの一点であることを確認しに行かなければならないような、そういう衝動にうごかされる。おとなしく蟄居しなければならない理由もないし、なら外へ出ないという法はない、じゃあ大津駅に行こうか、それなら琵琶湖を見に行こう、とわざわざお昼の12時に出かけた。
膳所駅を過ぎたころから、街を海側に見下ろせるようになり、みずうみもほんのりと浮かんでくる。その街の風景には穏やかな海岸に沿う街にすらない、やわらかいつつましさがあった。波濤や潮風を気することなく、街ができているようだった。
逆に京都・山科から大津へ来ると、お昼にはまだ都市が連なるのかと思う一方、夜においてはすっかり京阪神を抜けきったと思う。また、冬の日には北陸への一歩、西近江路への道別れの街に着いたと思うことがある。大津の街を北に抜けて疎水を渡ると、もう北国への第一歩を踏み出したような感じだ。しかし鉄道で西近江路を辿るのなら、ひとつ手前で準備しないといけない。少しの違和感。でも、小関越を意識すると、そこに自然さも感じなくはないようだった。とくに上り湖西の西大津から山科はそうだ。
大津の駅名が連呼されるのを聞きながら、ときどき下方に広がる街を見ていると、しだいに緊張が呼び覚まされた。米原からでは、ようやく都市というの感じのところになる。列車はそのままの高さで、民家の屋根を寄せつつ駅へと入っていく。鉄道は山手、街の端を通っているようだ。
いよいよホームに停車するというころ、緊張が高まった。平和堂の裏壁も塗り直されているが元が古い感じで、昔から栄えてきたことを覗かせているようだった。あの表側の壁もそんなに変わらないだろうか。ドアの向こうにいろんな人が立っている。県内にはこれより利用者の多い駅があるが、ここはなんだか堂に座っている。
大津駅
ドアが開いて、人が小規模になだれ出た。すぐにむし気に包まれる。こうして今年はじめての夏の日は大津にやってきた。ここ大津は気の毒な人ごみというのを京都大阪神戸に投げつけ、したたかに地方都市の風景を続けているところで、厳然たる地方都市となっている。しかし草津駅に来ると、新規の開発が感じられて、やはり近郊区間内だ。つまり大津は特異でおもしろいところなのだ。
3・4番線ホーム (下り)
でも駅はすっかり都市圏の体裁で、2面2線それっきり。留置線や貨物側線を窺わせる古いものはなにもない。またこの駅は、新逢坂山トンネル開通に伴って新設された駅だから (1921年) 、立地としては新天地になるのである。大正のことなのに、移設のその感慨は色濃く残ってしまっているらしかった。
かわりに駅がまとっているのは、海の予感。下りプラットホームを膳所方まで出ると、このあたりが丘陵地の半ばで、少し高台なのが改めてわかった。琵琶湖のほうに見えるのは乾いた土色の滋賀県庁。遠くは大津プリンスホテルまで見える。でもその風景の北向こうには何もない。みずうみが横たわっているのだ。
山手側は線路近くに民家が並んでいて、いつもこれは下り車窓からよく見えた。細い坂が家々の間を走っているのは、古い町なんだなと思えるものであった。海側にも少しだけ長屋が見えている。
裏はそんな民家の調子でここまで来るのだが、駅に着くと裏手には妙に静まった新しいビルが立っている。プエルタ大津というのだけど、こうしてホームから見ていても、何の建物か、はっきりとわからなかった。海側の平和堂アルプラザも広い背中を向けていて、広告だけが見えた。
3・4番線ホーム、膳所方にて。つつじの植え込みがぽつぽつとある。
最奥部が喫煙コーナーとなっていてかなり遠い。
山科方を向いて。
もちろん平和堂がある。平和堂アルプラザ大津店の背中。
山科方に俯瞰して。逢坂山 (324.7m) が見えている。
新快速が停車中。
烈日しきりのため、上屋の深い影でプラットホームがすっぽり覆われている。影を求めて再び入ると、古風な特大の風除けの端に公衆電話が吊られているのが目について、昔からこんな感じのようだった。Kioskも販売機だけとなっている。
人影は絶えないが、混雑というものはなく、落ち着いて待っていられる雰囲気だった。しかし新快速到着前になると、人がまばらな林のように立ち並んだ。この暑くなった最中、大阪や神戸に所用で出なければならないようだ。
ここでは緩い丘の斜面に路盤の盛り土をし、かつ斜面を下る側に街が広がっているので、出方は地下道方式となっている。駅に降り立ったらすぐに地下道へ下ろしてくれるという、地下道式の落ち着きというのはとてもよい。ここでは海の近い、熱海駅のことをちょっと思い出した。地下道は高架式コンコースの一歩前の形態のようだ。
下り階段のわざわざ両脇に、内照式で出口と出していて威厳が漂っていた。階段の下り口にはやはり内照式の広告板があるが、ここのは郷土色が出ていなくて、こういうところは地方のようではなかった。いっぽう、乗り換え案内には琵琶湖汽船と若江バスが案内されていて、なんだか大津の鉄道史をそのまま物語っているようだ。
駅構内はぜんたい、裏手少し離れて立つプエルタ大津という建物と、海側のアルプラザの壁や、その壁が終わってから始まる緑の木々に挟まれ、駅前の風景は見えず、静かな感じだった。緑の木々は、海側の1番線に沿って植えられている。盛土駅の利点をじょうずに生かした代表駅だった。
上屋に入って。
3番線の風景。
待合部分の様子。上に乗り換え案内が出ている。
振り返って、風除けと公衆電話。とにかく電話を置きたかった、
というような設置の仕方となっている。
時刻表前付近の風景その1。奥が下り階段。
時刻表前付近の風景その2
階段下り口。内照式広告は不動産関係のものだった。
階段を過ぎて膳所方を見て。
4番線乗り場からは裏手の様子がよく窺える。
里山と住宅。
広告がずらりと並ぶ。建物はプエルタ大津。
隣のホームの待合所付近の風景。
少し古風な電話のコーナー。
4番線乗り場にて。夏になったものだ。
四角いスロープの様子。表と裏をつなぐものだろう。
3番線から見える隣のホームと平和堂。
こんなふうに木が植わっている。
まもなく上屋も終わり。
ホームを山科方に歩いた。人影がなくなり、ホームの向こうにある夏らしい緑も際立ってきた。上屋から出ると、すごい日差し。レールの向こうは、山を前にして左カーブして消えていた。もう掘割となっていて、その先はすぐに新逢坂山トンネルの坑口へと突き進んでいく。
このホーム端からは駅前のいくつかの高いビルと裏のビルがよく見えた。しかし高いビルはそれっきりで、あとはちょっとした街、という感じだ。それでも駅前と裏手のビルはなんだか不自然で、本来はこれらのものの無いのが、大津の様相かもしれない。
ところで概観からよくわからなかったこのプエルタ大津は、再開発で大津市が主導となって2000年に建てたものだった。ホテルが核となっていて、はじめ東レ系の大津シャンピアホテルが入り、その後イシングループの傘下に入ってザ・ビー大津、その後売却されて、2008年6月から、三井観光系のホテルコムズ大津になったという。このときはまだザ・ビー大津だった。シティーホテルと思っていいようだ。純然たるビジネスホテルでは、大津駅裏手から少し歩いたところにホテルα-1がある。自分が泊まったら東海道線を眺めていたい。大津ICも近く、また逢坂峠を控える国道1号線にも面していて、ホテル前まで行ってみると、どこか旅心地のする雰囲気だった。
駅裏はプエルタ大津の建物が終わったころから、一般家屋がまた並びだし、背後に音羽山が懐かしい感じで座っていた。蝉の鳴き声の本山。あの山の向こうが山科になる。よく考えるとちょうど駅裏は府県境の町。山と家々のある中を、いくつもの幹線が琵琶湖を見せながら走り抜けているのが独特だ。あとで裏にも出てみよう。
やっと街が見えかける。
隣のホームのモニュメント。
山科方面を望む。
ホーム終端付近の風景。
膳所方の風景。
プエルタ大津。
駅前のビルだけが見える。
日生ビルと社会保険事務局の2つのビルが大津駅前を飾る。
3番線乗り場にて。
妙なところに点字ブロックが走っていた。
1・2番線ホームと緑の木々。滋賀銀行と日生の広告塔がいつでもよく見えた。
膳所方。下り側時刻表前付近にて。
階段の下り口の風景。
左が琵琶湖と出ている。
地下道
地下道は膳所や山科とは違っていて、中央にエレベーターが柱のように並んでいる。びわ湖方面、との指示が地下道内においてひときわきらめいているようで、幾人もの観光客の目になめられつづけてきたようだった。
地下道の駅裏側は以前どんづまりだったが、開削して南口改札を作られていた。こちらは業務委託らしく、制服が違っている。そこを出るとプエルタ大津の地下1階となるけど、そこは店も何もなく、ひと気もあまりないのだが、それゆえ涼しいとてもよい休憩所となっている
北口方(琵琶湖方)の風景。
新設された南口。
エレベーターもあとから設置されたものだ。
3・4番線ホームへの上り階段。案内がわざわざ2つも出ている。
南口方に見て。
1・2番線ホーム、上りホームへ。奥は北口に至る。
1・2番線ホーム (上り)
大津駅らしさのよく出ているのは上りホーム。駅前側の1番線に沿って四角な植え込みや夏木立が並び、それがじっさいホームに影を作って少し薄暗く、涼やかな雰囲気だった。ようこそ大津へという、駅舎2階の観光案内所らしいものも見えて、琵琶湖が感じられた。
ホームの山科方の端に35度の緯線の通っていることを示す地球のモニュメントがある。ずいぶん前から見かけていたが、東海道線100周年記念として1989年に設置されたという。この置物と駅前を見ていると、東経135度の、海のある明石のことが思い浮かんできた。ちなみにこれら経緯線の交点があるのは加古川線の駅名にもなっている日本へそ公園だ。
駅前はこの地球の置物のあたりからがもっともよく見て取れた。小さいビルが金融の広告塔を載せて立ち並ぶ風景。だいたいそこからの風景が旧駅舎における駅前の風景となる。駅前の中心は右手に移り、そこには角がカーブした高層ビルが2つ、道を挟んでいるが、あとは続かなくて、ちょっと張りぼてのようである。あたりは人も多すぎず、またきれいに整備しなおされていて、気軽に途中下車するによさそうな風景だった。
上りホーム。向こうが山科。
このんなふうに緑が多い。
1番線乗り場、膳所方。
待合所部分の様子。
座って待つ人たち。
反対側、山科の方向。
屋根を出て。膳所方の風景。
ここからは駅前が大体見わたせる。
手前の建物はHeart-in。
駅前は金融関係の広告が多いようだ。夏の比叡山が少し顔を覗かせている。
北緯35度線のモニュメント。1つの緯線上に世界のさまざまな都市が載っていることを知らせてあった。
山科方向を望む。橋が架かっているように、掘割になりつつある。
上屋に戻って。
隣のホーム。
山科側階段前にて。
駅名標。
名所案内。お城風の建物で知られる琵琶湖文化会館は閉鎖されたため、現在は白塗りされている。皇子が丘公園は大津京駅が最寄り。
隣のホームの風景。
販売機に飾られる3番線のりば。
植え込みがかわいらしい。
膳所側の階段前にて。
ホームに挟まれた2・3番線の風景。
膳所寄りにある待合所の様子。2番線に列車が到着中。
屋根を出て。
右手の様子。国道とは高低差があるためスロープで連絡している。
ホーム終端付近の風景。
駅前側の風景。だいぶ端に来た感じがする。
駅前側の長屋。3階建てぐらいだろうか。
平和堂の裏手の風景。
山科方に構内を俯瞰して。白線が残っている。
米原方面を望む。
駅裏の風景。音羽山山系が見えた。
3番線に普通加古川行きが到着。
平和堂の裏。1階にマクドナルドが入店しているため、赤い広告が出ている。
なぜか植え込みがひたすら並ぶ。
駅名標。
ほかの駅にもありそうな風景。
山科方を見て。
1番線。
この暑いのに静かに読書して待つ人もいた。
2・3番線の風景。
隣のホームの待合所の風景。
自動販売機が活躍する。
再び1番線。駅前側。
ようこそびわ湖大津へと歓迎していた。
膳所方。
山科方、上り列車到着時の風景。
階段を見下ろせるところにて。
北出口はびわこ口とも書かれていた。
1・2番線ホームへの階段上り口。ここにもモニュメントへの道案内が出ていた。
改札口へ向かう地下道。
コンコース
地下道を北口コンコースに出る前、35度の緯線の通ることを示すステンレスのラインが、床に斜めに入っていた。あとからわざわざ埋め込んだようだ。なんか整理がついていないような感じだった。地下道を抜けて手狭のコンコースに来たら、開放感が降ってきた。ちょっとだけ吹き抜けで、地方のように内照式広告に飾られてある。吹き抜けを仰ぐと、早く琵琶湖に行きたくなった。
改札口が出口と妙にずれている。
色とりどりの内照式広告が出ていた。
床にステンレスのラインが斜めに入っているが、それが北緯35度線。
この記念の説明がなされてあった。
地下道の風景。
吹き抜けになっている。
あそこからはコンコースが見下ろせるだろう。
こんなところにも椅子が置いてあり、待合所になっている。
地下道へ入る風景。
トイレは改札口と向かいあったところにある。
改札口。
改札口を出て。
改札外コンコースは広くないこともあってなかなかの人出。ここに遊びに来たような、小さい子を連れた母もいた。船遊びには暑すぎるが、水はとても気持ちよく見える季節になったものだ。そんな季節もちょうど今日から。ことしはじめての夏である。
駅舎横丁を覗いてみても日本旅行が入っているだけだったので、何もないんだと思ったが、最も奥の、扉の向こうに、みやげ物売り場の名店街があったのであった。これは気づかない。宣伝不足だと思った。
改札口前コンコースには曲がり階段があり、2階に行けるようになっている。無骨ではなく、案外洒落ている駅かもしれない。階段にはメニューの見本が置いてあった。
コンコースの風景その1
コンコースの風景その2
この奥が駅舎横丁となっている。
この奥に喫茶店や土産物売り場、コインロッカーがある。
内照式時刻表が活躍していた。
券売機前。
琵琶湖を紹介するテレビがどんと置いてあった。
コンコースの風景。パンレット棚で人の流れが分かれる。
改札口前。
有人改札はこの細いところを通っていく。
コンコースにはDaily-inが入店。
2階へ。
2階へ上がってみるとあってもなくてもいいような感じだった。とにかく、やたらひっそりとしていて暗い。100円ショップと料理屋が入っていた。しかし、階段を上り切ったところからは猫の額ほどの改札内コンコースを見下ろせ、2階だからホームもよく見えて、暗いばかりではなかった。またアルプラザと繋がっていて、ガラス戸の先は賑やかな感じだ。アルプラザへの自動ドアをくぐると、ものすごい冷気。冷房がぎんぎんに効いている。すぐにカウンターの喫茶店があり、かき氷をやっていた。時間つぶしにはよさそうなところだった。
大津駅辺りで食事となると、この駅舎2階のビア・ステーション吉祥か、アルプラザ6階にある味の街ということになりそうだ。吉祥は朝8時から21時まで営業、朝昼夜とメニューが変わって、夜は居酒屋になる。味の街は朝10時から夜21時までで、オーダーストップが8時15分とわざわざ書いてあった。
曲線の階段を下りてコンコースへ下りた。新鮮な感覚だった。
上がったところにて。人がいない。
2階の様子。こんな状況。
上りホームが見えた。
こっちはアルプラザの方向。
非常に短い連絡通路にて。
アルプラザから見た駅舎への連絡通路の扉。
喫茶店ではかき氷をやっていた。
駅を出て
駅舎から外へ出ると、もわっとすごい熱風が襲う。駅舎に沿うよう長々と湾曲した屋根が新設されていたて、日差しこそは免れたが、そこを出るといっせいに照り返しだった。丘からみずうみに下る広い坂を覗くと、琵琶湖の水がはっきり見えた。一気に涼しさが増した。以前は湖へのいざないという噴水があったのだが、再整備でなくなったようだ。
あたりはさわやかな小都会で、それには、港の街から丘を上ったところを、街にした界隈、といういきさつのせいもあるかもしれなかった。逆に、停車場に行くためには、丘陵地を上るのである。
駅を出て。
屋根の配置の意図がよく分からない。
駅舎前、アルプラザの方向。
平和堂アルプラザ出入口。
県都にやってきた。
ビル群と、車石とその解説。
大津駅前交差点前の風景。
アルプラザ方。駅舎2階のガラスには古代の絵巻物が写し取られている。
この曲がり屋根はとても長い。
山科方に伸びていく曲がり屋根。
駅前にはビルを借景に、車石とその解説が置いてあり、観光、という感じがしてきた。これは石を穿った轍のレールである。かつて走りにくい道に置かれたようだ。しかしこの車石はあちこちに見本として設置されているものだった。
駅舎は部分的2階建てという建物。広告塔みたいな桟にある駅名表示はあまり目立っていなくて、なんだかはっきりしない感じだった。屋根の新設のせいもあって、駅舎そのものも少し捉えにくい。はじめは国鉄と市とデパートが組んで、6階建ての駅が計画されていたが、頓挫してこの今のしがない姿に落ち着いたのだという。
大津駅駅舎その1。
大津駅駅舎その2。
植え込みと共に。大津駅駅舎その3。
駅舎前の風景。
再び車石前までやってきて。待ち合わせ場所になるのだろうか。
反対の、アルプラザ前の通り。
アルプラザ出入口前から駅舎の方を見て。
カーブしたビルがひときわ幅を利かせる。
再び駅前にて。屋根がいい影を作っていて助かった。
大津駅駅舎その4
駅前の西側の風景。
横断歩道の上に屋根がある。右手の彫刻はかつての噴水脇にあったもの。
雨の日でもそのままバス乗り場に行けるようだ。
坂向こうにかすかに琵琶湖が見えた。
ロータリー進入路前にて。
タクシー乗り場。炎天下で中は燃えていそうだった。
駅舎前。
この辺で駅舎が終わる。
駅前広場はぽつんぽつんと木も植えてあり、あまりに暑いので大木ではその木陰で休んでいる人もいた。しかし駅舎を山科側へ歩くと、駅舎の終わったところに、いっそう木と緑の生い茂っている、ちょっと不思議なところがあった。急にひきつけられて、そこへ赴いた。立ち止まるとお堂と句碑、立て札がある。義仲を、したい山吹、ちりにけり、とブロンズに浮き出してあって、ああ、粟津関係の史跡なんだ、と、いったん片づけた。暑かった。この辺は天智天皇の遷都以来、1つの土地において歴史が交錯している。
駅に関係しているので、立て札を簡単に読もう。1921年に大津駅がここにできる前は、ここら一帯は秋岸寺であり、ここへの駅移設と同時にその寺は移転したが、そこに祀られていた木曽義仲の妾、山吹御前を弔う地蔵尊だけはここに残され、鉄道宿舎の主婦たちの手によって祀られつづけることになった、時代は変わり現駅舎竣工となり、それを機に立派なお堂に作り変えた、ということである。鉄道宿舎の主婦というのは、お世話する人だったのか、鉄道員の妻のなのか…。いずれにせよ、昔の人という感じがする。
旧駅舎は今の観光案内所、つまり駅舎の西側あたりに少し重なるようにしてあったという。その緑の茂みの奥に線路をくぐる地下道がでているが、あれは旧駅舎の通路なのだろうか?
また茂みには標柱もあり、このあたりには東浦村という村落があった、もともと東浦という地名は湖岸からこのあたりまでを指したが、江戸時代に湖岸から大津町が発展してくるにつれて、山手にだけこの地名が残った、と、いっけんどうでもいいようなことが記されてあった。地図によると、現在は山の方に東浦垣内町という名前が残っているようである。
ここだけ緑の植え込みが濃くなっていて、祠があった。
解説板と句碑。
この緑地部は駅舎とコンビニに挟まれたところにある。
コンビニ前にて、アルプラザ方を見て。
ロータリー越しに見る、雑居ビル群。
駅前広場の西端の様子その1。左端の路地からはちょっと妙な店がはじまりかける。
駅前広場の西端の様子2
日生ビル、社会保険事務局のビル、アルプラザの建物。
日生ビルの壁はその隣に同規模のビルの立つことを想定して窓がほとんどつけられていない。
駅前から西へ出る細路地の風景。
ロータリー越しに見た駅前商店街通り。
さっそく下り坂になっているのがわかる。
少しごちゃごちゃした雰囲気だ。
さっそく歩道にだけ設けられるタイプのアーケードがはじまる。
西側から駅前広場を俯瞰して。
アルプラザとプエルタ大津、そしてHeart-inのコンビニ。
ロータリー右半分の様子。
ロータリー左半分の様子。
左手の道路が本線、右手がロータリー出口。
コンビニと雑居ビル。背後には音羽山山系が控える。
バス乗り場付近の風景。
大津駅前商店街。
さて、琵琶湖へ下りる道は2つ。古い商店街沿いか、駅すぐ前から伸びていた広くすっきりした道か。いったん、水の色の見えたその新しい道へ行って見ることにした。
向かう途中、ところどころ駅前一帯から急に下へおりるような階段があり、おりたところにも建物の並びがあった。不思議さが募った。気づかないように駅前交差点が立体になっており、地階があるのだった。その地階は、駐車場になっているという。
横断歩道を渡って。
左に駅前どーりと書かれた輪が回転式と思われるサインポールがあった。
駅前の風景。
きれいに植栽されている。
左手にいきなり下り階段が現れ、ここが高台なのが分かる。
駅前の風景。
駅への横断歩道前。
日生ビル入口前から山の方を振り返って。向こうは山がかなり立て込んでいる。
手前は地下道入口。
交差点の一角。
駅前から伸びる広い道にやってくると、街づくりの大胆さが窺われた。中央大通り。はじめは30m道路と呼ばれていて、文字通り30mの幅の道路となっている。そんな道が湖畔まで、広々とくだっていた。この道路も現駅舎竣工にあわせて作られたもので、細々とした苗木が植えられてからおよそ30年経つことになるようだ。街路樹に沿ってジョギングしている人の姿が、この道ととてもよく似合っていた。ほんの少しだけ水色が見える。ここにはいい風が吹いてきていて、見えなくなっても琵琶湖の横たわっているのが想像された。
こっちが本式の駅前通りらしい。歩道が広い。
地階の街が見下ろせる。
大津駅駅舎。
琵琶湖へ向かう道。少しだけ水の色が見える。
駅へ向かう風景その1
駅へ向かう風景その2
バス停前にて
道路は気持ちよさそうに琵琶湖へと向かっていた。
駅前、東側の一角。
30m道路からは、はるか下ながらももう琵琶湖が見えていたから、商店街の道を歩こう。 それにこっちは快走路だが、歩くにはすこし単調そうだった。敦賀のときと同じように、 駅前からはじまる商店街を歩き、水辺と落ち合えたらと思った。
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