尾関山駅―夜の尾関山駅
2011年7月
夜の尾関山駅
ギリギリのところで粟屋駅のホームを踏んできた。7月中旬の日長だが、その駅で宵闇を迎えたぐらい詰めた予定だ。そして夜8時ごろ、尾関山着。あと一駅で三次だが、ここで降りないと三江線全駅踏破は果たせない。分別があれば、これで下車したことにし、あとはタクシーで三次駅前に向かって宿を取るだろう。そしてそれからは、部屋での獺祭や、外出して食事という楽しみが待っているかもしれない。けれど僕は手持ちもないし、何も食べずにここで寝ることにする。
気温は一向に下がらず、もうとっくに暗いというに何ともいえない生温かい空気が沈殿し、そしてそれはときおり脚のあたりで揺れ動き、闇の底を縹渺としていた。あと、とにかく蚊が多い。うんざりするほどで、少しでも立ち止まろうものなら耳のあたりをミニチュアのレーシングカーのコーナー走行よろしくあのか細い声で鳴き去っては戻って来るのだ。
尾関山駅はなんとなし築堤にある感じで、高度感があった。三次市街の外れで、郊外の客を期待しての駅開設だったのかもしれない。外灯に照らされる尾関山の駅名標を見つめていると、自宅で何度も思い描いた尾関山駅での駅寝を、これから本当に実行するんだなぁと感慨深い。食事や風呂のことは考えなかった。そんなことを考えたら、いつまでたっても旅に出られないからだ。だってこの先の各駅にそんなものは絶えてないのだから! 幸い、人もほとんどいないところだ。気を遣うこともない。
けれど、このときは予想もしてなかったお得な飲食店やコンビニがあることを密かに期待していた。しかしそんなものはあるわけもなく、台風で吹き飛ばされそうな粗末な無人駅の割にはだだっ広いといえる道路だけが駅前でごじゃいって感じで伸びているだけで、人もおらず、ただ寂しげにそと灯りが並ぶばかりだった。
それでも腹がすいてしようがないらしく、わりと真剣に店を探しまわる。見つかったのはちょっと敷居の高い和食の店で、そこからは愉し気な談笑が聞こえてくる。なかなか入りづらいが、あまりに腹がすいて、本気で何度も入ろうと思った。しかしこんなナリじゃ…よそから来て、金もなさそう、となると、これはどだい歓迎されない話だった。隣の三次まで歩くことは考えなかった。行ったら行ったで、寝る場所であるここにまた戻ってこなくてはならない。
「ええいとにかく明日だ! 明日何とかする!」といい聞かせ、コーラ一本で我慢することにした。
けれど明日って? 三江線回るんでしょ? 店はおろか、自販機すらないぞ。いや、まてよ? 明日は三次駅来訪の予定がある。ということは、その時間をちょっと削って、食事に充てるしかないな…
「食事が明日の昼まで取れないってどうよ」って思うが、仕方ない。本数僅少の三江線、予定を崩すことは不可能だった。僕の今回の旅程は"首相動静"並みに分単位で厳格に締め上げられているのだから!
さて、まだ8時半だが、もうシュラフを敷いて寝ることにする。疲れたし、やることもないし。駅舎内で寝たいところだが、蚊が凄すぎるのと、熱がこもってものすごく暑いので、駅舎をホーム側に出たすぐのところにある、壁に沿わせた外のベンチで寝ることにした。かなり暗いが、選択の余地がない。
「8時半に寝るとか、近ごろの爺さんでもせーへんぞ」。
けれどこれだけ早くに寝れば、体力の回復も期待できた。汗をだいぶかいているので、上半身裸になり、ペットボトルに汲んでおいた水でタオルを濡らして清拭。そして着替えを済ませ、できるだけ快適に寝られるように準備する。駅寝旅でいちばん困るのは銭湯だ。2000年代前半にはまだ多かったが、2010年代にもなるとほとんど消滅していた。
ペットボトルの水は、さすがに尾関山駅は廃墟みたいだから、と用意しておいたものだ。
4連個掛け椅子にシュラフを敷き、背中をティラノサウルス並みにボコボコにされながら、仰向けになる。暑すぎてシュラフははだけた感じにするしかない。よく拭いたけど、首回りの脂っこく熱をもった感じは取れず、そこに蚊がこれでもかというくらいアタックしてくる。蚊が来襲しては手で払い、をひたすら繰り返し、もはやノイローゼになりそうだ。先輩の駅寝人たちが大胆にも蚊取り線香を焚いたり、殺虫剤を大量噴射した武勇伝も納得である。しかし、なぜか僕はまるで殺生を厭う修行僧のように、"害虫"の退治には興味がなかった。勝手に駅で寝て、虫まで殺戮したら悪い、という思いもあった。もしなかったら、お安い金鳥の蚊取り線香を盛大に2つ3つ焚いていただろう。けれど人生でうまくいくタイプはきまってそういうタイフである。
ちょうど終電の1時間後ぐらいに、駅舎の灯りがフッと落ちた。一気にあたりは闇に包まれ、ただ虫の鳴き声とまとわりつく蚊だけになる。なんか、野の中で独りでポツンと寝ている感じだ! ツツジの茂みの中も、盛土の叢の中も、全部仲間のような感覚である。この疎ましい蚊さえいなければ幸福だろうが、そうは都合よくいかない。3匹も4匹も吸い付いてくるので、暑いのを我慢してシュラフに入り込んでジッパーで閉じる。もうそろそろあきらめただろうというころ、大きく開けて外気に触れる気持ちよさを味わうが、またすぐに何匹かの蚊が襲ってくる。
おかげでまともに寝られなかった。眠っては蚊に起こされで、二つ折り携帯をパカッと開くと、まだ1時。「いったいどんだけ長い夜なんだよ」と。何も食べられず、夏の夜に油塗られて何時間も虫に晒されるとかちょっとした脅迫の常套手段である。なんというか、もう少し有意義に過ごせないものかと。三江線各駅での次の列車の待ち時間にしてもそうだ。できるだけそのへん有効になるように工夫はしたが…コミュニティバスも調べたが、ほとんどは列車の時刻に近接しているか、違うところを走ってしまい、なかなかうまくも使えなかった。
次に携帯を見ると3時40分だった。この時刻ともなると虫の鳴き音もだいぶ静かになって、蚊も一時的に姿を消しているようだった。それでもしばらくすると嗅ぎつけたらしく、一匹がまた襲ってくる。結局、今夜はこんな感じで終わっていくのかぁ、と、ゆっくり眠るのをあきらめる。しかしよく考えたら当然だ。夏の夜にこんなところで寝たら、地獄でしかないのだ。それでも…駅寝して三江線の駅を巡ってみたかった。食事や宿泊の機会を盛り込めなくても、来たかったのだ。