柴山駅

(山陰本線・しばやま) 2012年7月

 
 
 
竹野―佐津にて。
 
佐津。
 
 
 
 
鳥取方。
このへんは本数も中途で降りにくい。
隣の線路は分断されていた。
 
城崎方。
緑の匂いが立ち込めていた。
六月二十六日の碑。何の碑かわからず。
 
 
 
 
但馬エリアの山陰本線という趣き。
 
 
この縦型立駅名標のシリーズは知らない。
 
 
 
 
 
 
 
汽車は緑を縫ってくる。
 
有力な温泉地だったのが窺える。
 
 
左手には貨物線があったような雰囲気。
 
 
 
 
 
 
 
駅舎内にて。
 
 
 
 
今となっては何ともいえない安さが漂っている。
 
 
また懐かしい厠が…
 
柴山駅駅舎。
少し寂しいところ。
幟がいい。
その2.
3.
海をすかして。
これ何字体だったっけ。普通は書けませんね。
4.
 
無くなった宿もあるが、健闘している様子。
海辺の山は深い。
どこへ行くんだろうと思う。
この建物なにかと思いきや…。
 
 
純木造のチャリ置き場だった。束立てて下地を打って壁を張れば 家屋になる。
 
 
5.
 
 
6.
こんな道を降りていく。
こういった近場で小規模な観光地はこれまでにだいぶ廃れてきたが、 ここは風光とカニと努力で今も続いているという感じかもしれない。
 
駅方。
 
 
ガータではなくコンクリート高架。造り直したようだ。 騒音も激減したと思う。
 
風流。
 
雪はいくばくだろうか。
戦前の面影の濃い柴山の集落。
駅方。
民宿は絶えない。
来ましたな。
 
常に風流な感じ。
 
鳥取方。
昔の国道ですね。ドライバーは やっとまとまった集落に入ったという感じを受けそう。
なんやかやといろいろ懐かしい。
駅案内もばっちり。
駅方。
 
柴山湾。
 
 
 
 
 
ウミネコの休息。
旅館に泊まって海で遊ぶ、何がもの足りないだろうか。
 
 
 
 
柴山湾口。
 
 
 
 
 
 
 
 
水産加工場。
 
 
あそこからは怖い。
 
 
 
 
 
駅へ。
駅の駐輪場と化している。
 
 
 
7.
 
 
 

但馬海岸へ

 玄武洞駅でだいぶ待ちぼうけをくらい、すっかり夏の陽射しに前腕を灼かれた。あのような駅で降りる人は今はいなのだそうだ。
 玄武岩似せた石で囲った植え込みなどをずっと見ていた。そうして知らないうちに玄武洞を想像していた。

 車窓からは茫洋とした河のパノラマ。海がもう近くになっている。
 やはり丁重に案内される「城崎温泉」を過ぎると、本格的な山陰海岸紀行がはじまることになる。汽車は無言のうちに淡々とトンネルをくぐり抜けはじめ、私はドキドキしはじめた。ここから隔絶された世界へ旅立つわけだ。このように地形が険しいだけあって、往時の人の感じた汽車の魅力や凄さが伝わってきていた。ここから歩いて但馬の御火浦に出ようと思うとたいへんだが、こうして列車に乗っているだけで、ちょうどいい場所に辿り着けるのだ。どれほどの魅力であったろう。
 今はその恩恵を私はただ旅人として受け取るに過ぎない。そんな私はきっと、爛熟の恍惚の上に、よろめきながら立っている。
 山はより険しく、海岸は切り立ちたるに相違いない。想像の風船がもうはじけてしまいそうで、独り心と体を硬くした。

 いつしか窓は違う川筋を見せている。わかっているけど、はじめてのように捉えられる。
 やがて竹野が案内される。竹野浜は有名だが、海水浴客でいっぱいになったのはかなり前のことだろう。あの海水浴ブームはなんだったんだろうか。大衆…山陰の観光史としては一つのキーワードだ。

 ここからはどの駅に降りても、旅人を満足させるに違いない。駅の名もいずれもきらめいている。
 竹野より先はほんらい道路も余り通さないようなところだった。岬をアルバイトし、その高巻きから一瞬、下方に海が仄見える、と思ったら、またトンネル。そんなことがつづき、心象フィルムは高熱でダウンしそうになる。

 これまでにも河口にひらけた集落があったが、ようやくのそのうちの一つ、佐津に汽車は休み処を持ったようだ。大昔は舟で往来したとみえる。
 乗客ももうみなゆるやかな二人旅などで、やはりだいたいの人は車窓に視線を送っていて、それは自然なことだった。

柴山

 そこからトンネルを越えるとすぐに柴山で、私は慌てて降りる。もう自分も山陰海岸の旅行客の一人となっていたのが、運転士の視線でわかった。
 たんと降りるとむわっとした暑っつい空気で、旧式の気動車のエンジン音がどっどっどっと、木造舎の中に響いて、けたたましい。煤煙もきつく、板壁はすすけていた。しかし列車が去ると…
 「こんな風光明媚なところだったとは」
 しーんと静まり返ったホームに出ると、ラグーンのようにも見える静かできれいな入り江が、石州黒瓦の家並みを伴ってわっと広がっていた。やがて蝉が弱音気をつけてBGMを奏でているのに気付く。駅舎は小さな戸口を山側に向けていたのだった。
 やはり何よりも暑かった。こんなに風景は気持ちよいのに。この不快とも快ともとれる空気の中、こんな風景を見ることは、ひとつの生きている証でもあるのを実感する。
 「これはなかなかのとこに来たな。よし、なんとか浜まで出よう。」
 そんなに時間はない。いっぽう、多くの時間が要るわけでもない。楽しいひとときというのは悲しいかな、常にみじかい。

 つぎ列車が来て、再びやかましくなるまでの静謐の時間そのままが、自分の旅行の時間だった。
 二線の行く末を眺めるとどちらもなんか平凡、明るい山中から出てきて、また山に還っていくだけ。同じ高さでスライドしてきて、海を眺め下ろしたらまた山へ。道路と違て、いちど獲得した高度をそうやすやすと鉄道が手離すことはない。力学的に納得がいく。そしてしかるべき土地に駅を設けることも。

 隣の香住とはさして離れておらず、街の大きさも香住のほうがだんぜん大きい、それでここに駅ができたのは柴山港がいかにもな天然の良港であるかを物語るものではないかと。雰囲気も暗くなく、包み込むような優しさがある。

 懐かしい戸口から蝉の海に繰り出すと、木造舎はややおおぶりで、浜からは丘を登るが距離は少なさそうで、海産物の輸送などもしていたことを想像した。駅すぐ前にはおあつらえ向きにも立派な旅館がある。
 あたりはそうして名もなき丘山をいったん登り詰めたようなところだった。
 もしここが風光勝れた地の駅でなければ、旅人に不気味だとさえいわしめたかもしれない。

 さあ急がないと。早足でどんどん下りるが、舗装林道のような道で、これであってるのかと不安になる。けれど駅前にああして旅籠もあったし、浜の位置からして道を下りるしかない。途中カニ休暇村などという看板があり、ちょっと安心だ。これがなかったらとある山の駅の、仕方なしな取り付け道路である。

 そう。本来は何もかも実に何でもないとある漁村なのかもしれない。しかし温泉が発見され、天然の良港と認知され、景勝の良さを理解する近世を迎え、人々の見方は変わり、柴山という名を持ち、宿が展開し、やがて海水浴ブームを迎え…人々の積層する意識を見ているようで、それはつまり文化であった。
 ホームからの風光を見て、なぜ、なかなかのとこに来たと思ったのだろうか。何を元にそう判じたのだろう。いずれにせよ、私がまだそうかつて判じた人々と同じ価値観の時代に生きていることを確認したのみだった。

 カーブ土手に播種せる赤袈裟の道祖神。親不知でも似たようなのを見た。ほんらいは集落を離れ、山に取り付く道にあるらしいようであったが、今の私からすると無事柴山の集落に着いたことを祈り、また、彼らは海へ出るのを祈ってくれているようであった。
 コンクリートの鉄道高架。また積層せる時代…ふいに目に入る薄い河床の川の風流。

 そこからは細道に民宿が所狭しと陣取る集落だった。なんとも密度か高いというか、懐かしげというか。このような景観の町並みは様々な問題からほとんど姿を消していよう。
 あのころはみんな楽しかったんだろうか。90年代くらいまでは、わりあいこういう楽しみ方は残存していたかもしれない。しかしそんな想像も速足で駆けていく。すぐに浜まで出た。右左右みて真ん中のオレンジの線を渡り、砂浜へ。ここまでくると道沿いには箱っぽい旅館が並ぶようになる。団体さんがよく利用したような感じだった。

 柴山浜はその良港と砂浜が一緒になったようなところだった。浜はやや荒いが海は素朴にほんときれい。ライフセーバーが旅館から出たり入ったりしている。どうも人が泳ぎに来ると出てくるということのようだ。夏休みもはじまったばかりだし、これからだな。ひまわりもまだ咲ききっていなかった。
 湾だから湾曲していて、旧国のドライバーはやっとまとまった集落に入ったと感じ入りながら走っていきそうだった。

 さて、もう時間がない。りっぱに白く灼けはじめた浜辺をあとに、駅へと踵をかえす。
 ろくに想い出を結ばずに再び駅を見た印象は、何か一緒に来た人とけんかして先に帰るようでもある。私は私以外のすべての人とけんかしたのかもしれない。仮にそうであっても、それが自分の旅行だという考えが身についてもう十年以上経っている。
 「けんか? してるわけないじゃない。現実をよくみたまえ! 君はただ柴山浜を見に行って帰って来ただけだ。しっかりするんだ。」

 前の旅館から御一行が駅に向かって来た。私と同じ列車に乗るらしい。老齢のやたら元気な男性と、その口達者な妻、そしてお連れの人何人かと、専属女性カメラマン。第一印象は、とにかくよくしゃべる、だ。自分の持てる知識を延々とたれる。想像するに、どうもこの男性はそれまで議員職などそこそこの権力を持っていたようである。今はハーパンにポロシャツみたいな俗世を捨てたみたいな遊び人に徹する努力をしているようだった。

 妻は早口で、
 「私も言ったのよ、餘部鉄橋撤去してコンクリートジャングルにしても誰も来やしませんよ、てその人に言ったんだけど、でもね、風で列車が今は止まるし、安全運行に支障をきたすっていわれたら、もう何もいえなくなるんですって。」
 ほかにも誰でも知っているような代議士の名を上げて、その人は知り合いだこないだ会った、などの自慢話も、お付の人らに身分の差を常に思い知らせるというより、もはや息を吸うような自然さだった。
 私は何からも自由な旅行者だった。だって二十いくつのカーゴの短いズボンの私にマウントをとる意味など無に等しい。ただ何か厄介な御一行としばらく一緒になりそうだというだけだ。どうせ同じ旅程なんて踏みやしないさ。そう考えると、まったくそれぞれ違うものが溶け合って、自由な風景が胸腔に充満するようだった。

浜坂へ

 もう新しくなった餘部橋梁を走っている。海辺は透明板などつけて客に阿っている。例の御仁はあんな高邁な思想を吐いていたのに、餘部駅に着くや停車のあいだだけ外に出してくれと運転士にせがみ、外で散々撮影してやっと戻ってきた。列車はまちがいなく遅れた。運転士もかるく切れてる。