下里駅
(紀勢本線・しもさと) 2010年2月
夜の下里駅
紀勢線の列車は夜も走っている。当たり前だが、日ながのせいで明るい時間帯の印象が強いのだった。こんな時間に観光客は乗らないだろう。なにせ何も見えないのだからね。運転士は私の乗ってきたことを確認すると、よしと言い、運賃箱をふさぎ運転台に再び着いた。降りる人がいなかったのだろう。車内は地の人ばかりなはずで、風景も見えないから、運転士ももう気負わないように思えた。確かに気が楽だった。
下里とはどんなところなんだろうな。紀勢線のとある駅という感じだ、私はここんなふうに無窮の旅をしているんだ、そう思いふけっていた。
下里で割とたくさん降りる。さっきを思い出し、ここはけっう大きな町なんだろうなと推察する。名前からしても何か感じるものがある。古来より人の住まったのではないか。
降りると内陸の寒さがあった。そして駅舎に入るなり私はびっくりした。
「しまった! ここは降りちゃいけないとこだ! ここは選んではだめな駅だった…」
ホームではまだ列車が待機している! 私は本気で戻ろうと思った。しかし明日の予定がつかないため、うわあどうしよう、と思いつつ、そのまま地の人の後について、いったん駅舎からは出たのだった。そして後ろ髪をひかれ頭の中が真っ白になりながらも、後はなすがままとなったのだった。
駅前はしんとして、住宅地だった。冬の無味な鋭さが冷たさとして鼻を衝きつづける。
「ともかく、ここはほんとどんなどこなんだ…」
地元の人でもしないくらいあたりをじっくり見回し、遠くにオークワのサインらしいものが見えると、私は思わずおっと歓声を上げた。「これは助かった! とにかく行こう!」 素直にうれしかった。携帯も何もない時代なのだった。
確かに夜は食べたが、朝の分がない。仮にあっても、店には行っただろう。旅をしていて助かったという気持ちなのだった。お茶しに行くような気持ちだった。
しかし向かう道がわからない。駅を出てもその方角に道はなかった。でも見知らぬ町の闇夜の中、ホームの端の先の方角にあることだけはわかる。私は突っ切った。しかしその後はひどい路地に取り込まれ、人一人分くらいしかなく、何度も鞄と外套を擦った。こうして民家の狭間の真っ暗な恐ろしげな道を経、どうにか踏切通りに、ぽろりと出た。そのあたりは市街地でもなく、ただオークワがあるくらいだった。
店はもう閉店間際で、客は自分のほかには二人だった。そのうちの一人はレジでいま会計を終えたところだ。もう一人は爺さんだった。レジの人は私を不安そうに目で追っている。どうも警戒しているらしい。私はただ朝の分が欲しいだけなのだが…。こうして救われた気持ちで店になんとか来たのに、疑われ、私はすっかりしょんぼりした。それは大きい荷物のせいもあるかもしれなかった。ああ、ドライバーたちのなんたる優遇よ! 苦労して純粋に旅をしても、待ち受けているのは石のつぶてばかりだ!
私は何とか袋入りのロールパンやお菓子を買って、外に放り出された。もう受けて入れくれるところはどこにもない。ただあの駅だけが待っていることになる。旅人には最もきつい時間が訪れようとしている。まだ20時過ぎにしかなっていないのに。
再び例の極細の路地を鞄を擦りながら通り、駅前に転げ出る。そこは華やかな自由主義経済とは程遠い地であるかのようだった。
この駅舎はね、言ってしまうと、荒れ果てていたんだ。映画においてまるで振り返りたくない故郷のワンシーンを映すにに使えそうなくらい。暗い空がそこへさらに凄味を添えていた。
とにかく落書きの量がすごい。鉛筆の書き殴りや大書きで、暴力的なものがある。隠しペンキの塗りも雑で、よけいに荒んでいる。そしてとにかく根本的に汚い。ゴミはないのに、とにかく汚れている。はっきりいってここで列車を待っていたら、ちょっと気がおかしくなりそうなのだ。抑圧された者による凄い「圧」を感じる。
おまけに、若者よ古里に誇りを持て 1970、という手書きのプレートがあり、近くの変電所は日本国有鉄道を掲げていて、どうもここは、忘れ去られた町なのかもしれないな、と思った。
「参ったなこれは…。こんなとこで寝るのか…。」
椅子も座れないくらいなもんだから、私は座るためだけにシートを敷いたくらいだ。なんとか対策を考える。とにかくシュラフの下にシートを敷いて、間口寄りの死角に陣取って…しかし行き詰まり、幾度も構内に出て、あるはずもない向かいのホームの待合室に長椅子を見つけようとした。しかし何度見てもない。あたりまえだ。「ああ! こんなときに限ってない!」 頭を抱え込んでは、駅舎の中を見渡す、そんなことばかり繰り返していた。気温はあっという間に下がっていく。「確かに何度も見れば寝床が現れるわけでも、この駅舎内がいいものに変わるわけでもない。けど、見方が変わったり心、づもりができるようになるというのはあるかもしれないな。」 もはや精神論だ。
しだいに寒くて椅子から立ち上ることができなくなってきた。腿が間口に突き出し、冷たい風が絶え間なく撫でてくるのだった。
私は時計を見ながら、後一時間たったら、パンを一個食べよう、菓子を一個食べよう、そういう約束事を作って、ひたすら耐えることにした。初めのうちは守れたが、次は四十分に変わり、三十分に変わり…。空腹に我慢ができなくなって菓子一つに手を付けると、私は上官に殴られたかのような気持ちになった。手はかじかんでいうことがきかない。完全に無抵抗だった。
私は座りながら、さっきまで少し歩いては構内に出ていたことさえも、懐かしく回想された。真冬の夜の風のよく通る、廃屋となった無人駅でのできごとだった。心が絞らされ、干からびていくのを感じる。目はつぶれ、胸の奥深くにたった一つの肉色の燈火だけが、温かく揺籃されているのだけを感じる。明日はまた海が見られる、君の欲した南紀の海じゃないか。もう見飽きかけているけど、それしか心の恃みになるものはない。
「はあ、信じられないな。昼間あんなに明るくすばらしい風光を見せてくれるのに、夜はこんな惨めな思いをすることがあるのか。いいや、私は信じている。あの日中の海の光景だけを恃みに、我々は生きているのだ、と。」 だから惨めではない、そういうことだった。家いる人と共通して信じているものかあれば、それでよいと思っていた。しかし、誰もがこういう夜に備えて日々の生活を営んでいるのだ。私はその夜を越すために、冬の南紀の晴の風光を満腔に溢れさせ、夜露をしのいでいるのだった。
暖かいといわれる南紀。しかし我々は気温だけで生きているのではなかった。共通して信ずるものの実体と言えば、こうも寒さを想定する文化がなということではないか。逆に言えば年中旅を認められるところで、それゆえ放り出され続けているのだった。そしてそれは、謂わば本物の旅の寒さだ。おまけにこの荒廃した駅舎。どこかの寒冷地のまともな駅にいるのとは違う、骨身にこたえる寒々しいものがある。
もう限界だ! と思ったころ、終電まで10分だ。深いため息とともに立ち上がり思い切り伸びをする。体を動かせば空気が動き寒いが、あと少しで寝袋に入れるのだと。
終電の客らが私を不思議そうに見るのを気にする余裕はまったくなく、彼らが出ると私は構わずシートを敷きシュラフをあっという間に引っ張り出してセッティングを完了させた。自分でも早くなったなと思う。「今日はあまりに寒いからアウターを脱がずに入ろう。」
入ってしばらくしてから脱ぐつもりだ。靴を脱ぎ、シュラフに入る。カイロも入れるが、この日は全く役に立たなかった。
横なっても、こんな廃屋でも寝れるもんだな、とは思わなかった。やはりここはひどいところで、こんなところで寝るなんてどうかしてると自分でも思ったし、見つけた人にもどう思われるかと思った。寝ることに対する非難より、何よりも不憫だと思うだろう。こんなところ、ありえないのだ。
私は寝ながら、「なんでこの駅はここまで荒廃したんだろな。」。何か恨まれることでもしたのか?
たとえ民営化されたとしても、それまではここには人が詰め、国鉄として物資や人の移動をつかさどる歴史を惹起させ、またそれ自体の使命を帯びていたところのはずだ。それがものの数十年で、地位は底まで下落、足蹴にされ、毀たれるようになった。ふと、京都御所から陛下が去り、まもなく荒れはじめた話を思い出す。権威というのは、それが去ると人は見向きもしなくなる、つまり人は現況を見て態度を変える、そういうことのようだった。むろんここには何か事情があるやも知れぬ。 「若者よ、古里に誇りを持て」
これはなんなのだろうか。私は、誇りを持てない事情があったと措定した。「まあとにかく、今夜何があるかだな。でもだいぶ昔のことじゃないのか? 駅にたむろしてどうこうなんて。」 90年代でもまだまだ怖かった。夜のコンビニと言えばヤンキーの溜まり場、それは紋切り型のイメージだった。各駅も民営化に前後して無主の駅と看做され、荒らされていったのだろう。松尾寺駅は今はきれいになっているが、かつては近くにコンビニができて、ずいぶん荒れたというのが旅仲間の間での知見であるようなところもあったらしいのだった。
電気はまだ煌々と灯り、落ち着かず、居心地が悪い。しかしふっと火を消すように暗くなった。それは一日限りの魂が消えるようであった。そして同時に、再び生き返ることがあることを想わせた。電気というのは不思議だ。魂をごく端的に取り出したかのようだ。
夜の下里駅は極めて静かだった。間口は外に向けてぽっかりと開いているのに、物音ひとつしない。たまに家の中からの鍋の音がすると、いとおしくてたまらなかった。いつでも湯立てられ、温かいものが作れる。その白湯一杯を分けて頂けませんか、そんな気持ちだった。地の人が歩いてきて、自販機で飲み物を買う。私は見つかっただろうか。
暗くなると荒れようも目立たなくなったが、それでも迫ってくるものがあった。「まあ、ここでは二度としないよ。状況が変わっていることが期待できれば別たけど。」
風が冷たくなり、体がガチガチに硬直している。歯を喰い縛ってガクガク震えはじめる。「いったい今日はなんだってこんなに寒いんだ。まだ椿の方がましだった…」 扉のあるなしでぜんぜん違うというのもある。背中も硬く冷たく、スースーする。真顔で、「今夜はだめかもしれないな。」と口を硬く引き結ぶ。風がシュラフにあまりに当たり過ぎるのだ。
もう深夜0時を回ったころだろうか。ものすごいラジオの音量で、車が駅前に乗り付けた。ヘッドライトが駅舎の中に差し込んでくる。私は咄嗟に上体を起こし、外を確認した。ワゴン車だ。そして確かにラジオの内容だった。「ヤンキーではなさそうだな。飲み物でも買いに来たんだろ?」 そうに違いないと思った。ドアの閉まる音がした。エンジンはかかったままだ。
しかし5分経っても、ずっとそのままなのだ。言うまでもなく寝れるわけもないのだが、「もしかして保線か? だとしたらあのラジオは何だ? あんなきちがいみたいな音量出してさ。近所の人のびっくりするだろうに。というか出てきて抗議してほしいよ。」
しかしどうも保線らしいということがわかりはじめ、私はここでの駅寝を観念した。もう無理。死ぬほど寒い上にこれか。ついてないな、と。3日目の駅寝とあって疲れもたまり、もうどうでもいい気持になった。
やがて重そうな靴履いた保線員がズカズカ2名入ってきて、構内にいったきり、戻ってこなくなった。そして一晩中、無線機から人の声がしていた。路線系より電気系と思ったのは、その二人が下里駅から動かなかったからだ。どうも旧駅務室の中で何かやってる感じである。
そんな事態なのに、気温は極度に下がり、私は暗がりの中、耐えがたい寒さを忍んでいた。はっきりいって寒さで、もう無理! と叫び出しそうだった。今回の旅行では、この下里駅での夜が最もつらく、こたえた。そういえばアウターを外していない、それにカイロも追加だ、と、一つはシュラフ内に投入し、もう一つは手で握りしめた。アウターの前を外すと、一時的に不安になるが、やがてはものすごくぬくとまる瞬間を迎え、まるで温泉に入っているかのように気分になった。そのときばかりはうっとりし、幸せだった。それで、冬はシュラフ内に積極的に熱を追加しないとだめなんだと。外着を着たままだと、その内部で体温が止まってしまうので、シュラフという空間の中は寒いままになってしまうらしい。
しかしその温泉気分も長続きしなかった。風がシュラフをひたすら舐めつづけ、保温性を奪っていったのだった。
やがて朝五時前を迎えると、予想した通り、作業が終わりはじめた。はあ、今ごろ静かになっても仕方ないんですけど。作業員が駅舎に入って来ると、一人目はそのまま通過したが、もう一人は「わっ! びっくした!! 」数秒立ち止まって、「寝てるのか。びっくしたぁ…」 と。最後は腹が立っているようであった。驚かせてごめんね。にしても今ごろ気づくとか遅いんだけどね。あーあ、これで寝れる時間もおわっちゃった。作業員は従順にもワゴン車にエンジンをかけ、またあの馬鹿でかい音量のラジオをかけて駅前からとっとと去っていった。空を見ると、明け方だ。