新宮駅
(紀勢本線・しんぐう) 2010年2月
延々と走る列車らは、ここで一旦すべてを終える。
三輪崎で体を冷やした私は、車内の温かさにうっとりとした。海を背にロングシートに座った。
客は少なくなく、座席のだいたいが埋まっていた。勝浦新宮間は客も少なくないのだろう。
向かいに座っている三人は四十代で、ひたすら基督教の話をしていた。これこれのようなことがあったのも、神のご意志によるものかもしれませんね、そんなフレーズがとりとめもなく流れてきて、そのたびに残りの二人は優しげに頷いていた。宗教に入った人がたいがいこんなふうに恭順な様相なのは、共に同じ無限の平和と善を信奉する者同士が接したときに現れる恍惚によるもののように思われた。
三輪崎から新宮は長かった。それで例の三人も海も見ず長々としゃべっているのだが、こんなところまで基督教が入り込んでいるのかと思うと不思議だった。しかし私は王国は自分で築いてみたかったんだ。
車窓がひらけ、広いヤードが見えて、ついに了ったなと思った。もうどんな他人も目に入らなかった。厳冬期の太陽に照らされるその構内を見るに、哀しみがこみ上がってきた。新宮に着いたのは出発から三日目だった。
「ここがお前の望んだところだ。」
ドアが開く前そう念じて、空気音とともに私はホームに出た。私を取り巻く暖気は無力化された。汽車到着を告げる放送、一抱えもある時計、列車のせいで日陰になっている乗り場。でっかい駅に着いた。その洗面台では煤をすすいだことだろう。我々は修正無用の一本の歴史を歩んでいる。私はそれを確かにこの眼でGrabしている。屋根を支える鉄骨一本一本も、人の手によるもののはずだ。あの時計だってまた、近代を告げる鳥だった。
東海の列車が接続で待ち合わせている。JRは国鉄の遺志を継ぐためにこそ作られた。だからここでこうして待っている。優等は相互の乗り入れもあり、ここは社境界の見本のような駅だ。三重への列車が待ってくれているのは、旅客として誇り高く、それと同時に感謝の念を絶やさせぬものだった。誇りとはGive and Takeによるものだ。敬意を表されれば、こちらも表する。自らに静かなる誇りなきものは貶められ、足蹴にされる。そして新宮は、孤高を保つ街であった。
遠くに休んでいる何編成ものエメラルドのbirdを見やりながら、こんな遠くに巣があったのかと、気候の良さを想い、そしていたく乾いた風を感じた。大げさなくらいの大半円形の階段を上って陰の旗艦ホームに足を踏み入れると、鉄道にあった優越感をもたらしてくれる。人々はすでに去り、つややかな床面の奥に、そば屋が暖簾を掲げている。日本にもし鉄道が走ったらこんななるだろう、そういう想像がそのまま表れているかのようだった。厳しく券面を改めるのだろう、有人改札に駅員が常駐し、ほかのレーンは少なく、そして閉じられている。そうして出入りを絞る一方、ホームが誇らかに広いのは、鉄道線の世界の豊饒さを物語っているかのようだ。それは線路自体もそうだった。紀勢線で最も広い構内を見せつけるこの駅は、もっともどの駅よりも単線らしく入って来、そして出ていく。
栄誉ある1番線ホームの半円大階段を見て感動しない人はいないだろう。ここまで郷士たちの歓迎と誇りをかんじることもない。いまはただかつての誇りそのままに静かに汽車を待っている。一人客がラッチ外から駅員に詳しく話を聞いていて、うまい具合に駅員の無聊もやり過ごされたものだ。
コンコースは狭く、すぐに外に出られてしまうが、ほとんど吹き抜けで、そして二階までガラス張りだ。これは当時としては群を抜くハイカラさだっただろう。というのも、同様の駅がほかにないのだ。それに同じコンセプトの駅が資材と建築方法を変えて今も建てられている。しかし民衆駅で、上階には食堂が入っていた。ガラス張りに沿って通路があるのは今もおしゃれな感じを失わない。外から見ると、店舗がガラス壁に守られて、店舗自体がショーウィンドーの中にあるように捉えられ、特別なものも感じさせる。
階下を眺め下ろすと、街の人が発車案内版を指さしてあれこれ大きな声で話している。新宮に汽車が到着するは一大事件やとも思われる。その人が帰ってくる、そんなことをいたく思わしむ。待つことの喜びや故郷のありなんことを思い遣らしむ。私はそっと硝子戸を押して、建物から出た。
いつものように紀南の冬の空気がある。これが気候の安定というものだろう。国内でもそうそう見られない。まっさきに驚いたのはハトだ。こんな多いとは。青銅像の前を、群れてまるで市鳥のように占拠している。中に白っぽいのがいた。しかしそれはコンクリートの路面に合い、新宮に似つかわしかった。 後で郷里の詩人の鳩ポッポの碑を見つけ、わざと餌付けして駅前にいさせているのではないかと思い至り、なんと郷士的な文化の守り方だと思う。冬のお燈祭りのすすきも、駅構内に飾ってあった。
駅舎を眺め、旅寝の茅舎も紀南の最終地点ともなると、こんなふうに古風にきらびやかな造りになるようだ。もし太陽が当たれば、さぞかしそのガラス張りなのを人にひどく印象を残すだろう。風が乾いていて、日中で昇温もあり、過ごしやすい。早いうちに整備したので、いまも変わらずそのまま残っている。
街に繰り出さんとするやいなや、徐福公園がありびっくりした。こんなすぐ近くに観光地があるとは。その中国の色使いの門からすると、半島の端だけあって特異な歴史のあるんだなと思う。こんなところに来ようと思ってもなかなか来られない。
街へ向かおうと踏切を渡るとき、三重の方を見るとなんと一線になっていた。まさかと反対を見ると、そこには駅構内が広々とと横たわっている。私は哀しんだ。街角の石橋から見下ろすと一線が掘割を抜けているのを見てもそうだった。
いわゆる昔ながらの商店街を歩いた。陽射しが強くなり、着こんでいると暑くなりさえした。多くの店が開いていることに驚いた。西国らしく店は間口いっぱいを開けて商っていたり、大魚は生け簀に泳いでいた。そしておにぎり専門店があり、時間ゆえ、人が待っていた。コンビニは見当たらなかった。しかし歩けば大きなオークワがあるようだ。市街域は広く、現在の人口はともかく、今もなかなか大きな都市だ。
私は歩きながら感動していた。確かに高速道はなく、偶然にこれまでのやり方で続いてきたのかもしれないが、それがどうして限界のあることや悪いことなのか、と。これは偶然の残ってきたものだというのでもなく、ただその来たる日の変化を慮っているのでもない。そして、ひたむきに日々を実直に歩んているのでもない。それは時間という概念は必要なくて、これそのものが新宮なのだ、ということなのだ。私という存在は前後をみはるかしているのではない。このときの私そのものもまた貴重で、そしていまこうしてこの光景があること、それがかけがえのないものだいうことなのだ。そこに高速道が、や、新手の参入者がという考えはない。これはそのままに正しく、そして美しいのだった。だから、悪い、や、悪い予想もない。そしてよもや生活者としての純粋さを思うのでもない。海が変わらず海のままであるのと同様だった。これはある種の文化や現象の保存やその正しさを立証することの限界を示しているかもしれない。けれど、新宮がこういう考えを持たせたことには違いないのだ。
予定では新宮川の太平洋に注ぎ出でなんをみはるかさんと思っていたが、街歩きで満足して辞めてしまった。海と同じくらい変わりえぬほどの時間の固着を味わった。
駅に入ると汽車の時刻とあって、旅客数名並び、改札が始まっている。駅員は金額式の切符を見てすぐにわかるものは「阿田和ですね」というように、行先を念押しして、乗り場を教えた。確かに客も間違えたら大変だ。
気動車は待ち歩きのときに見た、陽光に照らされた踏切や、石橋の下の掘割を過ぎていく。それを見て本当に離れていくんだなと。自分自身が離れるというより、街の方が遠くに行ってしまうように思えた。それは悠久の時間の感得を仮構たらしめる唯一の正常な感覚だった。