新疋田駅

(北陸本線・しんひきだ) 2006年5月

2006年5月下旬に新疋田駅に行き、その駅から敦賀駅に向かって町を歩いてきたときの記録。
この駅を見て、この駅のある町を歩くのが目的だった。
しかし予定の敦賀駅へは行かず、途中引き返すことになった…

遠くへ曲がったホームと白地に水色の線の入った列車
新疋田駅に到着。

 轟音をとどろかせて深坂トンネルを抜けるとすぐに新疋田駅に着いた。最後尾の車輛の、後ろの方のコンパートメントにひとりで座っていた私は、完全に停車する前に席を立ち、ドアに近づこうとしたところ、折戸付近のロングシートに青いストライプのシャツに白のスラックスをはいた人が座っているのに気づいた。JR西日本の夏の制服だ。マリン風で、デザインの評判も上々だった。でも、帽子はかぶっていなかった。最後尾の乗務員室には別に車掌のいるのも見えている。この座っている人にきっぷを渡すのだろうか? と少し動揺しつつ、折戸の前に立っていると、
 「ドアはあちらです、隙間が開いているんで気ヲつけてクださい」
そう関西ふうの抑揚で、気楽な感じで言われた。北陸に近いところで聞くと、少し不思議な感じがした。
 どうやら自分はドアの開く方向を間違えていたようだ。ご注意の言葉に礼を返して、向かいの折戸の前に立ちなおすと、窓から顔を出している車掌の一呼吸ののち、戸が折れた。列車は傾いて停車するから、ドアとホームの間に口は開いて、段差が大きかった。あの座っていた人はこれから持ち場に行くために列車に乗っているのだろうか? 降りても、始めて降り立つ駅であることもあってどちらに歩けばよいかわからない。私はひとときのあいだ右左をちらちらみて確認した。右には撮影者がひとり、左には車掌がホームに出て乗降の安全を見守っていた。

緑の山にトンネル2つ
近江塩津方面を下り線ホームから。深坂トンネルが2つ口をあけている。
長いホームとずっと向こうにトンネル
下り線ホーム半ばから改めて深坂トンネルを望む。
3線と長い屋根しかない長いホーム
下り線ホームから敦賀方面を眺める。
横に長い長方形に長い足が2つついたJR西日本仕様の駅名標
ほっそりした駅名標を39キロポストと共に。以前は背が低く大きくてずんぐりしたものだった。またここは米原駅から39キロの地点。
両端に屋根つきホーム。目の前は線路
踏切から敦賀方面を望む。

 何年か前に撮られた写真を見てみると、ホームには屋根がなく、ホームは長々と美しくカーブを描いていた。ホームの先には明るい花が植えられていたときもあったみたいだ。屋根のなかったときの構内の風景は、ホームが周りの緑と一体化し、何とも広々とした構内だった。直流化にあわせて、北陸本線の駅のいくつかは様々な改良が成されているが、屋根のできたのもその一環なのだろう。

山すそと集落と川
上り線ホームの待合室。
まだ何も置かれていない床はセメント塗りのまっさらな待合室の中
待合室の中の様子。ここにはゴミはなかった。今は、設備は何もおかれていないが、そのうち椅子が置かれ、掲示物が貼られ賑やかになるかもしれない。

 上りホームには待合室が新しく作られたようだ。駅舎から上りホームに入るには深坂トンネル側(近江塩津側)にある踏み切りを渡らないといけないため、列車が来たときには遮断機がおり、すでにホームに入ることができない。そのため、上りホームにも待合室が設けられて、ここで上り列車を待てるように配慮されたのだと思った。なお、この新しい待合室の外の隅に弁当や菓子の大量のごみがまとめて捨ててあり、たいへん残念だった。

全体的に緑の低木林に囲まれた駅舎周辺。2,3戸の新しい建物もある。
上り線ホームから駅舎裏側、近江塩津方面を眺める。

 ところで新疋田駅の構内に来てから違和感があった。下り線と真ん中の線路の間に太い側溝があったり、この写真のように、上り線と中央の線路に間があいていたり。その隙間のバラストをよく見ると、レールがあったかのように茶色く変わっている。4線だったときがあるのだろうか。それともレールが移動しただけなのか…

背の高い駅名標と後ろの小径とすぐ上にホームの屋根
上り線ホームの駅名標。アーバンスタイルだ。後ろには五位川が流れ小径が続いている。
古いコンクリート作りの平屋の駅舎の裏側(構内側)。後ろには山。
構内から見た駅舎裏側。赤い自動販売機がいいアクセントになっている。このような駅に飲料自販機があるとすこしほっとしてしまう。
群青色地に白文字で書かれたホームの方向案内
駅舎入り口付近のホーム案内看板。
大きな消火器、茶色の椅子、機械室
改札口の左側部分。
改札口
改札口。

 無人駅のこの駅舎の改札口では「ようこそ新疋田へ」の横断幕が降り立った人を迎えてくれていた。「新疋田」の部分はすっかり色落ちしてしまっているが、掲げられた当時はもっとあざやかな青色だったのだろうと思った。きっと北陸の海を思わせるような青色だったと。しかしただ単にJR西日本のカラーに合わせただろだろう。それにしてもきっぷ箱を置いてある大理石風の白い石柱がおもしろい。触って冷たい感触を味わってみたりした。

無機質なボードや事務用ロッカーが置かれ雑然とした駅舎内
駅舎の外からの入り口から見たようす。事務用ロッカーや白いボードが目につく。
茶色の椅子に白壁、掲示物、窓ガラスつきの灰色のドア
駅舎内の左半分全景。
壁に据え付けられた茶色の椅子と壁の掲示物
外の入り口から見て斜め左のようす。

 ホームから駅舎内に入ると中の右半分は、こげ茶色椅子が据え付けられ、駅周辺の史跡案内図や掲示物が多数貼られてあった。手前の史跡案内図は白黒コピーを切り貼りしたものだったが、奥のものはカラーの紙焼き写真とカラーペンで丁寧に紹介されてあり、作り手の意気込みと史跡を紹介する喜びが伝わってきた。列車を撮影しに来た人でも、ふらっと行ってみたい気にさせる。この案内図では、深坂古道が詳しく紹介されてあり、ほかに疋壇城跡や定院石仏などが紹介されてあった。別のドアからはいったん外へ出てトイレとなる。なるほどこの方法ならトイレと待合室が一体化していても、この小さな駅舎においては清潔感を保たれている感じがする。

カラーの紙焼き写真とカラーペンで丁寧に紹介された大きな駅周辺案内図
カラーの駅周辺史跡案内図。

 この駅からは列車の有名な撮影地点が近く、またこの駅のホームからもきれいに列車が撮影できるから、駅舎の隅にはそれらの地点から撮ったであろう列車の写真が数枚飾られてあったが、枚数も少なく、写真も古く、写真の配置も適当なため、なんだか寒々として、さびれているように感じた。駅舎も古いベトンのものだ。掲げられている写真の一部を誰かが持っていったのだろうか?また、ある情報によると、駅に行けば撮影スポットを案内した紙がおいてあるから、下調べはしなくて大丈夫、とのことだったのだが、それらしいものもなくなっていた。ほかにあったとされる、手作りの撮影スポットの大きな案内図や列車時刻通過表ももはやなかった。ここ数年で、この駅の状況も大きく変わってしまったようだ。想像していた雰囲気ともだいぶ違っている。駅舎内の鼠色のロッカーには黒スプレーによる落書きもあったぐらいだった。

コーナーに設置された茶色の椅子と窓
外の入り口から見てすぐ左手の隅のようす。列車の写真が数枚飾られている。
鼠色のロッカー、白いパネル、くすんだ黄緑のブラインドに閉ざされた窓口
写真の飾られてある駅舎の隅から窓口の方を見た駅舎内の風景。この窓口が使われる光景はもう見られないのか。
白いプラスティックの長椅子の後ろに鼠色の事務ロッカー
上の写真に写っているパネルの内側のようす。ロッカーの中にあるトイレットペーパーを勝手に持ち出しにくいよう、工夫してあった。
運賃表
新疋田駅オリジナルの運賃表。特急料金が加算されていないので少し妙な感じがする。有人駅だった頃には活躍しただろう。
駅舎入り口を近接斜めから
駅舎を出て。

 駅舎を出ると、緩い坂道で、国道161号線にT字路でつながっている。突き当たりは山だ。右は草むらで、左には人家が見えた。ただし駅前付近はぬかるみで、駐車場として利用されている。駅舎のすぐ左隣には通信配線室の建物と、事前に伝えられていたように、旧貨物ホームの一部があった。

戸口の真ん中あたりしか隠さない押戸
こちらはトイレ。右の灰色の扉が、先ほど駅舎内の写真に写っていたドア。上の写真の左側にあたる。駅利用者以外の利用にも配慮した?造り。
左にベトンの小屋、右にコンクリートの塊。
旧貨物ホームと言われるコンクリートの塊。左にちらっと写っているのは通信配線室。これらは駅舎から出て左側の敷地に同居している。
白く四角く小さい平屋の建物。「通信配線室」という縦書きの看板が表札のようにかかっている。
通信配線室の正面。
駅舎に斜めからかなり近づいて
駅舎に斜めからかなり近づいて。

 駅舎を眺めると、屋根のひさしを支えている白い鉄鋼と灰色の雨といが白壁に合っているように感じられた。しかし、白い雨といを準備しなかったということもあろう。だが、なによりも爽やかで濃い水色の氷のような書体の駅名表示は、この駅独特のもので忘れることはできない。夏の北陸が思わせる爽快感を宿している。また、昨夏訪れた親不知駅の、青地に白文字で書かれた駅看板を思い出させてもくれる。ここ新疋田駅は北陸、親不知駅も北陸。海の色や空の色、周りの空気が同じだから、北陸なんだろう、なんて考えた。

真正面から近づいて見た駅舎

 こうして駅舎を眺めると、ここから北陸が始まるんだなあと感じる。山あいにある白い小さな駅は北陸のはじまりにふさわしい気がした。しかし路面はもうぼろぼろになっており、改修が必要だろう。
駅舎の周りを囲むように花壇があった。この駅舎に花を添えられていたときもあるのだろうなあ。そんなときはさぞかしこの駅舎に映えただろう。

コンパクトで四角い駅舎を正面遠くから見て。
駅舎を正面から見て。大阪方面のナンバーをもつ自動車が数台とめられてあった。

 さて新疋田駅のある町がどんな町か、じっくり見に行こうと思い、おもしろい出会いを楽しみにしながら駅を後にした。

新疋田駅のある町


 これからの予定は、まず疋壇城跡に行き、疋田の集落を見て、適当に撮影スポット探訪という感じだ。別に列車を撮るつもりではなく、スポットそのものに興味が少しだけあった。深坂方面は後日探訪することにした。とりあえず駅前の小規模な駐車場を抜けて、国道161号、西近江路へ出た。

山中の道路カーブ、左手に集落へ下る細道。
駐車場を抜けて左手に開ける風景。深坂、滋賀県方面。
両脇に低木の茂る2車線道路。右側に幅の狭い歩道がある。
右、敦賀市方面。この道を進んでいくことにした。

 右手は駅のホームに突き当たるまで原っぱになっておりすっかり雑草が繁茂していた。この道を少し進むと左手に追分の新興住宅地が開けた。エメラルドタウン南敦賀だなんて、うまく言ったものだ。

カーブを伴った幅広いT地路
住宅地の、国道への出口。
カーブの壁面に掛けられた青地にはげかかった赤字で「南敦賀」と書かれた大きな看板
カーブにかかる「エメラルドタウン南敦賀」の看板。

 何となくこのあたりは独特だった。
 新疋田駅は撮影の名所であり、往年の電車式寝台を改造した電車が停車し、早朝の快速が停車しない駅である。そんな駅の駅前にできた中規模の住宅地エメラルドタウン南敦賀。また、このあたりから敦賀に出るまでにある国道沿いの集落は、日本らしい低い里山に囲まれたものの少しだけ開放感のあるのある谷間にあり、山が両端に迫っているため、すこし圧迫感があり、窮屈にも感じられる。このような地形は日本のどこにも点在するが、ここにはどこか希望のようなものが持てる気がした。それは、この国道が若狭街道であること、そしてそれが巨大な敦賀港につながり、また敦賀機関区のある街につながっているからだと思った。これらが自分が独特だと思ったいくつかの要因ではないか。

 「南敦賀」の看板がかかった大きなカーブの手前に、線路をくぐるトンネルがある。短くて幅の狭いトンネル内は、自動車2台の離合はできないので、ほぼ相互交通なっている。このトンネルは一種の隔絶物のように感じられ、ここからトンネルをくぐれば追分の集落を抜けたと感じられる建造物だ。集落のくぎりである。

濃い赤茶に焼けた石垣に古いコンクリート製のトンネル
トンネルを出て振り返ったところ。至新疋田駅。このトンネルの上を列車が走る。
黒黄の縞々を背景にパンダを模した押しボタン。
トンネル入り口の左手にある歩行者用ボタン。

 トンネルの周りはかなり古い石垣で、トンネルのコンクリートも相当痛んでいる。この形状からして、内部の幅を広げる工事は簡単でなさそうだ。また、トンネルの前後には、歩行者がトンネル内を通るときに押すボタンがあり、これを押すことで、トンネル前後にある電子警告板で自動車に歩行者注意の案内をしてくれる。トンネル内には車に注意して通るようにという、歩行者ための放送も流れる。歩行者の通る部分は濃い緑に塗られてあった。

左手は山すそ、右手は民家。
旧道の様子。
遠くにローソンの縦長の看板
ローソンの案内看板。

 こんな雰囲気の中、ローソンの看板をみてオアシスだと感じるのは、やはり現代人の感覚だろうか。国道161号が近江と越前を隔てる深坂峠を越えてから一番初めにある店らしい店はこのローソン疋田店であり、ドライバーにとっては峠越えの茶屋的存在だ。
 旧道を歩いていくと、左手にあるほぼ道と同じ高さを流れる浅い堀は大きくきれいな石で整備されていた。これが歴史的遺構の再現であることはのちになってわかった。
 ローソンの看板を見つけてからわずか数分で疋壇城跡へ折れる道へ出る。案外早くついてほっとした。かなりゆるく歩いて12分だった。

白いポールに赤字で矢印、黒字で疋壇城跡、そして田舎らしい民家。
疋壇城跡への案内ポール。

 ポールの矢印に従って左に曲がると、その左手には金網のゴミ集積場、そして前には長いコンクリートの階段が続いていた。どうやらここが入り口らしい。
 階段を上り始めると、薄暗い森のトンネルが続いていた。
 ただ、先の方は森が途切れてすこし空が覗いており、
 開放的な場所に続いていそうだったので、上り続けることにした。

うっそうとした森の中。もう少し先に進めば抜けられそう。
上り始めたなかほどの様子。

 まわりには虫が飛び交って、大木の落とした種子が芽生えたのだろう、ほっそりした陰樹がところどころ伸びていた。
 森の中は冷たい湿気が立ち込めていた。
 この先はきっとひと気のない原っぱなんかが開けているのではないかと想像しながら、森の中を抜けると、広々とした明るいグラウンドに出た。これは意外だった。グラウンドの先には、線路のありそうな丘陵地帯が続き、そして急な山が続いていた。そしてグラウンドの右側では爺やたちがゲートボールを打ち興じていた。この突然のグラウンド出現に驚きつつも、階段左手の細い碑を見て、納得した。ここは西愛発小学校の跡地だという。

細長い石柱
西愛発(あらち)小学校跡地の碑
草むらの中に続く踏切。左には警報機と2つの交通標識。
踏切前には小特を除く車両進入禁止と積雪時通行止めの交通標識が表示されている。また、右にJR西日本による線路内立ち入り禁止の看板。この看板はこのあたりで散見される。たぶん列車撮影者への警告だろう。
水たまりがいくつかあるグラウンド。真ん中は車3台分ぐらいは草が生えていないが、残りの両脇は草が短く生えている。奥に山。
踏み切りの前から振り返ってグラウンドを撮影。
2線は先のほうで左カーブ。奥にはまた山。両端は低木と草むら。
踏切の右手、敦賀側。
いくつかの分岐機が見える。ずっと奥の背景には高い山、両端は低木と草むら。
踏切の左手、新疋田駅側。ずっと先に新疋田駅の下りホーム端が見える。

 踏切を渡ると、すぐに細い上り坂が続き、山道になっていた。ただ、しばらく先までは丘陵地で、樹木の茂った山に入ることはなく、のどかな雰囲気が広がっていた。踏切からその道を少し登りはじめると、道が右にカーブし、そこに大きな岩に彫られた仏像が右側にあった。供物の花と水はきょうのものらしい。これは山仕事へ行く前に手を合わせたりする仏像だろうか。それか疋壇城跡と何か関係があるのかもしれないとも思ったりした。そのとき、踏切が鳴った。列車はかなり遅い遅いスピードだったので楽に撮影できた。

419系の列車全体を少し見下ろす感じで撮影。
坂の上からみた419系。

 別に撮り鉄をしに来たわけでもないのに、そんなまねごとをして歩き回る疋田の街歩き。さっそくここを出て、再び浅い川端(かばた)のある旧道を歩くことにした。

まっすぐの杉木立の中の下り坂
帰り道。

 階段を下りて左手に折れた。しばらく進むと、疋田の集落が広がった。道の脇の小さな水路は敦賀運河を再現したものだそうだ。運河の左側はアスファルトを継ぎはいだような旧道だが、運河の右側には整備された石畳の道が並行し、各民家の玄関口に接している。

脇に小さな運河が再現され旧家の並ぶ集落

 疋田は宿場町として栄えたこともあったが、自分には言われてみればそう見えるというくらいで、その趣は薄く感じられた。けれどそう感じるのは、自分の目が、手厚く保護され整備された宿場町に慣れているせいもあるだろう。確かにこれは宿場町の家屋群の、典型的形相である。
 少し歩くと、そこが疋田の集落の中心部であることを意味しているかのような標識が現れた。

角型の赤いポストと石碑と水路
四角く青い「疋田」とかかれた看板と運河について書かれた案内板を旧道、石畳の道とともに遠くから撮影。
「疋田」の看板と運河についての案内板を間近に
運河についての案内板の文章,運河についての案内板の内容

 疋田舟川の説明板の文章は、写真では少し読みにくいので、このページの一番下に写した。かんたんに言うと、この舟川は江戸時代に京都に食料を運ぶにあたって作られたが、明治に入っるころには西回り航路が開拓され、この舟川は利用されなくなったとのことだ。もちろなこの舟川はこのあたりまでで、深坂峠は牛車で越えた。そして塩津からは当然また水運である。だからこそ、この運河の構想は魅力的だったのだ。
 敦賀港と琵琶湖を結び付ける構想は平清盛のころからあったと説明版にあるが、実は1960年の琵琶湖博覧会のときにもあった。何百年もの間たびたび現れては消えていったこの構想は、ついに、実現しなかったということになる。そんな中、京都・山科と琵琶湖をつなぐ琵琶湖疎水やイン・クラインは実現したのだから、貴重な土木遺産ということになるだろう。
 構想はできれば実現した方がいい。そんなことを思わせてもくれる。
 ところでこの再現された疋田舟川に使われている石垣の石は「疋田石」というもので、新疋田駅から深坂方面に国道161号を少し進んだ地点の右手の山の採石場からとられた石だとのこと。

説明板をあとにして
水色の大きな切妻の平屋の旧郵便局
旧郵便局。
公民館らしい四角い感じの2階建ての建物
愛発公民館。

疋田の標識のある辺りは、きっと集落の中心部だったのだろう。
旧郵便局、公民館、資料館、交番、診療所、大きな寺社などがある。

旧郵便局は、旧といってもつい最近までここで営業されていたらしく、
地図によると少なくとも平成16年まではここが郵便局だったらしい。
新しい郵便局はすぐ近くの国道沿いに新設されている。
国道沿いのローソンの右隣に当たる。旧郵便局の表示にも黒スプレーが…

この辺まで来て、だんだんつまらなくなってきたので、
適当に右に折れたところ、
そこは旧疋田駅跡とされる所に出た。

一般的な細い住宅街路の左脇に2,3の石段

 旧疋田駅は有名な撮影ポイント。この石垣が駅のホームの端にあたる。この柳ヶ瀬線の疋田駅は、新線開通の1957年10月以降も業務を行っていたわけだから、柳ヶ瀬線が廃止された1964年5月までの約6年5ヶ月は、疋田という地域に国鉄の駅が2つあったということになるのだろう。また1961年には鳩原ループが開通したため、柳ヶ瀬線は旧疋田駅で終わってしまい、敦賀までは連絡バスが運行されたとあるから、こうなると疋田はまさにちっょとした交通の要衝という感じだ。左の建物は愛発保育園の建物で、右に少し写っている空き地は、公園になっており、そこにもホームがあったという。その公園からは疋田検問所が見えた。

一階が駐車場の四角い感じの白い2階建ての建物
疋田検問所。

この旧疋田駅のあたりから先は、近代的な、いたって一般的な住宅地になっていた。というのも廃線後は急速に土地が売られ、民家が建ったのだ。

二股に分かれた道の真ん中で
旧疋田駅から少し進むと道の合流地点に出たので、振り返って撮影。左の道からやって来た。旧線も左の道だけを通ったのだろうか。
幅広い道
上とほぼ同じ地点から進行方向の市橋方面を望む。道の幅が随分広がっている。

 ここからさらに進むと左側から山が迫ってきて、右手には小さな工場があった。もう市橋の交差点が見えている。旧線はこのあたりまで続いて、この後しばらく8号線と並走、8号線と北陸線が接近したところで、現北陸線に寄り添い、高低差が等しくなったところで、現北陸線と合流していた。

 このあたりに「食・祭・海・道 若狭路」という縦長の大きな広告塔があった。「食」は桃色、「祭」は黄色、「海」は水色、「道」は緑色で書かれ、それぞれの漢字は右下を斜線でカットしてある。「若狭路」は黒字だ。たったこれだけのデザインで、若狭路の特色とイメージが伝わってくるのだから、存在価値があると思った。谷間を縫う国道8号線を敦賀に向かって走っているとき、この看板を見たら、海の幸があってにぎやかで海とともに生きた、歴史のある若狭に来たんだなと思う人がいるだろう、そんなことを想う。

看板
「食・祭・海・道 若狭路」の看板。振り返っての撮影。ものすごく曇り始めた。
遠くにカーブした道。背景には400m級の里山の山並み
市橋の交差点。右手に市橋の集落が広がる。右下は地下道の入り口。しかし交差点には押しボタン式信号を備えた横断歩道もある。

 市橋の交差点には8号線をくぐる地下道があった。あんまりにも怖い雰囲気だったので、左手つまり山手の細い道を行ってみることにした。この道を行くと、現在の上り線にすぐにたどり着く。旧線は寄り道せずまっすぐ、しばらく8号線に沿えばいい。

山すその曲がり角にある看板
左に曲がる曲がり角にある「岩篭山登山道入り口」の焦げ茶の看板。フィールド愛発というのは愛発公民館が主催している会だそうだ。
山と盛り土の線路
道に入っての風景。高架は敦賀へ向かう下り線。その向こうのより高い位置に上り線があり、この位置からも見える。
かなり高い盛り土のうえに419
これは上り線を通過する419系。元の先頭車が近江塩津側を向いているからクハ419だろうか。
枕木の間からは光
高架下の様子。案外質素な造りになっている。列車通過時にここから見上げたかったがなかなか来そうになかったのであきらめた。

 下り線高架下をくぐって左を見ると、線路へあがる農道兼用の上り道がついているので行ってみた。

盛り土への農道
入り口。線路内立入禁止の看板。線路内へ入るつもりはない。
盛り土まで登って、線路付近からトンネルを
新疋田方面を望む。この下りトンネルは、同じ山の中にある上りトンネルの上に交差している。
線路がだいたい胸辺りの高さで、向こうには開けた谷
市橋方面を望む。700mの丙号距離表とともに。この地点の標高は約80mになる。
山とバラスト
敦賀方面の線と山。
こちらが塩津方面にいく線。こんなときにトワイライトが…

 上り線と下り線の地図上での高低さは10m弱あるようだ。この付近の下り線(敦賀方面に行く線)と上り線(塩津方面に行く線)の間には畑があるだけだった。ここから敦賀の方向に進むにつれて両線の高低差は30m以上も開いていくことになる。上り線をしばらく眺めていると、トワイライト・エクスプレスがゆっくりと登っていった。これからいったん近江塩津まで登って、あとは下り坂、大阪へ向けてラストスパートするのだろう。そう思いながら、ここをあとにした。

小さなガード下
付近の高架下。1960年代の造り。
両脇は緑の茂る細い舗装路
上の写真とほぼ同じ位置から登山道方向を見て。熊出没注意の警告看板がある。北陸は結構出る。

 このずっと先に入山者の利用する駐車場があり、そこからしばらく歩くと本格的な登山道が始まる。この岩篭山(いわごもりやま)山頂(765.2m)への登山道は、最後まで沢を詰める登山道として知られるが、
沢の最後に二手に分かれて夕暮山(720.4m)との分岐を成し、尾根道になる。両山とも頂上付近に三角点がある。

市橋の集落


 さて市橋の交差点に戻って、例の地下道を通ったが、ほかにはない、かなり気持ち悪い雰囲気で、横断歩道をお勧めしたいぐらいだった。昼でも暗く、水が滴り、赤い警報灯が恐怖感を逆に倍化させる…
黒スプレーによる落書きがまたもやあり、夜の治安が気にかかるところだ。
 しかし地下道を抜け、市橋の集落の手前の道に出ると、また穏やかな雰囲気が戻ってきてほっとした。

 ところで、日本海と太平洋の中央分水嶺というのがある。これは日本海側に流れ出す川と太平洋側に流れ出す川の分かれ目をいう。琵琶湖は淀川水系であり、大阪湾に注ぎだし、太平洋へとつながるから、太平洋側への流れに属するのだろう。しかしこの辺りの川はもう、とうに日本海側への流れになっている。淀川水系に親しんでいる私は、この川の流れを見て、今自分はかなり山手にまだいるけど、日本海側にいるのだなと改めて感じれた。

側面はコンクリートの石垣などだが川底は丸く大きな石が敷き詰まっていて自然のままだ。
左岸に田、右岸に集落がある川
こちらはほんとに昔のまま…こんな風景はもうなかなかない。洪水の調整がうまくいっているのだろうか。

 川の橋を渡って左に折れるとすぐに市橋の集落が始まる。市橋のバス停は橋を右手に折れた所にある。
 ここを走るバスはコミュニティバス愛発線といい、運賃は一律200円。バス停のすぐに近くの山すそを登っていくと「かたむき地蔵」があり、また、民芸品・骨董品を扱う「若狭屋」もバス停の近くにある。

左手に山が迫り、右手に住宅がある道路とバス停。
左:バス停付近を新疋田駅側に望む。左の写真の左側に鼠色の柵が見えるが、それに沿って登っていくと「かたむき地蔵」がある。右:バス停。
緑色を基調としたバス停
左:バス停付近を新疋田駅側に望む。左の写真の左側に鼠色の柵が見えるが、それに沿って登っていくと「かたむき地蔵」がある。右:バス停。
古民家風の建物
民芸品・骨董品の若狭屋。お寺にあるような庇だ。

 市橋の集落を貫く道路は、旧道とはいえ幅が広くしっかりとした道路である。
 また集落内には新しい家も割と多い。

こげ茶の壁の田舎風の家が両脇に並んだ、人一人いない2車線道路
市橋の集落の疋田側から見た入り口付近。かつての国道。現在は切り離されている。
道の奥はカーブ。ミラーと大きな木
このあたりが中心なのだろうか、青色の「市橋」を示す看板が丁寧にも立っている。かつて橋の近くに市でも立ったのだろうか。

 市橋の集落の終わる頃に大きなカーブがあるが、そこでは大きな事故がいくつか発生したことがあるらしい。警告の看板が立てられてあった。
 そのカーブを抜けると、市橋の集落は終わり、左に河原が現れた。

左に道路右にコンクリートで整備された河原
河原。市橋方面を望む。振り返っての撮影。

 川の中には巨大な丸い石がごろごろ転がっている。これは土石流によるものの一種だろう。最近コンクリートで整備されたようだ。このあたりは土石流の危険があるらしく、警告の看板を山手に何度か見かけた。整備はそのことと関係しているのかもしれない。

奥と右に山、左に川。
旧国道から敦賀方面を望む。左の橋は国道8号線。

この河原を過ぎると、次は小河口の集落へ入る。

小河口の集落


左のほうが広い二股に分かれた道。
左に行くと国道8号、右に行くと小河口の集落に入り込む。
河原と道路
小河口の集落の入り口から振り返って。この河原が市橋と小河口の間にある。この区間には住宅がない。右手の道路は国道8号線。
少し狭い感じの三叉路。右手は上り坂。
小河口の集落内。「となりのトトロ」の"めい"が飛び出し注意の看板に起用されている。

 道を歩いていると、小河口の集落でおばあさんが道路近くに腰を下ろしていた。作業の休憩だろうか。あいさつで声をかけてみると、どこに行くのかと聞かれた。鳩原だと言うと、
 「鳩原に何しに行くだ? 何にもねぇど?」
 「ええっと…撮影です、列車の」
 「ほう? ええ趣味しとるな」
 ほんとは列車撮影なんてするつもりがなかったのだが、集落の名前を出してしまった以上、いぢはんもっともらしい理由を言っておかないと不審がられると思った。
 それから少し真顔になって、気をつけてな、と言われた。このとき、真顔の理由はわからなかった。が、のちにわかることになる…

 小河口の集落の家々がまばらになりかけた頃、向こうに見える旧道の先は背の高い工事用の白いボードで塞がれていた。白いボードは左手向こうにある国道の手前までつながっていて、
かなり広い範囲を取り囲んでいるらしい。念のため、旧道から白いボードに接近して、その先をうかがったが、進めそうになかった。堰堤と少し遠くに小河集落への道と川の堰堤が見えているだけだった。
仕方なく白ボードに沿って左へ折れ、国道8号へ出ることにした。出るまでに発破予告の表示があって、それによると、敦賀バイパスのための鳩原トンネルの工事だという。

発破3分前はサイレン3回
トンネル発破作業の予告方法。

 幅の広い口をあけている車両出入口からは高い位置の山肌に掘られた新しいトンネルの口が見えた。仕方なく、国道へ出る歩道と思われる、ガードレールと工事用白ボードに挟まれた部分を歩いていく。
途中車両出入口があり、道の川側に置かれたプレハブに誘導する人が詰めていた。そこを過ぎると、小河のT字路に出た。途中、歩く道幅のないところがあって、自動車の切れたときに走ってつないだ。

縦型信号のT字路
小河のT字路。
正方形に青地に白文字の看板
小河の集落を示す看板と後ろに敦賀バイパスの広告。

 小河のT字路から国道に沿って少し進むと、小河を示す地名板が出ていたが、小河の集落はこのあたりにはなく、T字路を右に折れたずっと先の山の中にある。さらにその道を進むと、北陸自動車道の小河トンネルの入口が見え、その先は深い山に分け入っていく。
 小河の地名板のあたりからは、鳩原トンネル入口がはっきり見えた。この先を進んで、敦賀駅へ向かおうとしたが、その先は歩道もなくなり、大型トラックが疾走していたため、国道沿いに進むのはあきらめた。とくに、その先に見えている鳩原ループへ進むための上り線高架下あたりは、幅が二車線分しかなく、自動車が走っている限り
そこを徒歩で通過するのはかなり危険なように思われた。仕方なしに引き返すことに。駅からここまで1時間40分ぐらいかかった。

再び小河口の集落へ入った。

さつき
飛び出し注意に起用された"さつき"。この集落を貫く道は近代的な国道になった歴史はないようだ。
石造りの鳥居
上の写真の位置から左側を写したもの。小河口集落の日吉神社。このあたりの集落には、集落ごとに必ず神社がある。特にここは公園と集会所を兼ね備えている。

帰りも同じ道はつまらないと思って国道に出てみた。

山の中の交通量の多い国道の交差点。
小河口の交差点。

下り線(敦賀方面線)とともに


 小河口の交差点に出ると、交差点の向こうに大きな金魚の看板があった。交差点での私の位置は、左は新疋田駅に至り、右は敦賀駅に至り直進すれば山に入るという位置。まっすぐ行って、下り線に突き当たり右に折れれば敦賀駅への道も開けるのでは、と思って行ってみることに。それに、その道は家で地図を眺めていたときおもしろそうだと目をつけていた道だった。ここにも地下道がついていたから、これを利用した。ここは市橋よりもずっと雰囲気は良かった。地下道の階段を下り切ると、なぜか緑のホースから水がちょろちょろ流れ出していた。
 そうして国道の向こうに出ると、鯉の看板どおり養鯉所が右にあり、
立派な鯉が何匹も池で泳いでいたが、番犬だろうか、犬が吠え立てた。さらに進んで橋を渡り上り線の高架まで歩いて右折した。もし右折せず下り線高架下をくぐると鬱蒼とした森の中に入る。しかしその道を行くと鳩原ループを終えた上り線に出会える。

山に囲まれた国道。中央分離帯はガードが設けられ、歩道は寒々と広々としている。
新疋田駅方面。
未舗装の道、左の小高い位置に線路、右にまばらな樹木。
右折後の道。実はこれが廃線跡です。

 右折後の道は未舗装で現下り線との境にはフェンスすらない。実はこの土の道が北陸本線の旧線跡である。この道をまっすぐ行けば敦賀市街に出られるだろうか。そう思いながら歩いたが、線路と低い樹林帯に道は狭められて行き止まりになっており、予想は外れてしまった。

下りながらまっすぐに延びる線路。田を囲むようにして終わった農道。
行き止まりの様子。低木帯が邪魔している。だいたいこの辺で現下り線と合流していたのだと思われます。

 サンダーバードが来たので、一枚撮ってみた。しかし、薄い逆光らしく、先頭車が真っ白に写っていた。撮るまで逆行とは気づかないぐらいだった。曇りの日だったからだろう。この道も駄目だったかと、敦賀行きは完全にあきらめて、新疋田駅へ帰り帰途につくとにした。

再び疋田へ

帰りの途中、まったく同じ道を帰るのはつまらなく思われたから、疋田の集落に入る前あたりから国道8号線に出てみた。

4車線国道に縦の信号。自動車は通っていない。
疋田検問所の信号。まんなかのコンクリートブロックによる建物は疋田のバス停。

 疋田検問所の信号から滋賀方面に向かって対向車を見ながら歩道を少し歩くと、疋田郵便局、ローソン疋田店と順にあった。ローソン疋田店を見てすぐ右に折れると公民館があるから、そのあたりは集落の機能が詰まっているといえる。先述のように、公民館の近くには駐在所、診療所、保育園もある。むろんちょうどその辺が"疋田駅"だったのだから、当然と言えば当然だろう。
 先に見た通り、明らかに駅だったという雰囲気や感じはもうなくなっている。たぶんローカル線のような感じだったので、消えるときは早かったのだろう。廃線から約10年後の1975年の航空写真を見ても、もうすでにそのときには駅らしい感じも線路の跡も払い下げられて何もないようだった。高度経済成長期だから、変わっていく速度も速い。
 現代の茶屋、ローソンの駐車場には大型トラックが二、三台駐まっていて、ドライバーが運転席で軽食をとっているらしかった。誘われるように立ち寄り、鮭おにぎりとお茶を買う。
 ローソンから駅方向には国道上に北陸街道(8)と西近江路(161)の分岐がある。今でも道別れを感じられる雰囲気が漂っていた。

道路情報板がそれぞれ掲げられた道別れ
疋田の三叉路。今でも重要な関だ。写りこんでいる建物は愛発小中学校。

 信号機の矢印のつき方からして、北陸街道(国道8号)を利用する自動車の方が多いのだろう。信号が一機、というのはなんだか妙な感じもする。この三叉路の近くに、愛発の歴史散歩を紹介した大きな案内板があった。製作は愛発小中学校、1994.8月の製作。ただし、大きすぎて見にくい感じがしたが、これだけ大きなものを作るのは大変だっただろう。力作かもしれない。
 ちなみにこの信号の奥に、柳ケ瀬線の鉄橋がある。廃線跡はこの後も続き、意外にたどりやすい。

青緑の鉄枠に収められた2.5mの高さはあるペンキで描かれた案内板
愛発の歴史散歩案内板。

 このあとは再び疋田の集落に入った。すると、お爺さんが川端で鍋を洗っている光景に遭遇した。実際に使われているところを目の当たりにし、町に舟川がいまも生きていると感じがした。良き出会いもあとにし、川に沿った道を抜けて駅へ帰った。

線路の短いトンネル、左は草むら。
北陸本線をくぐるトンネル。駅は左手奥にある。
ようやく帰って来たぞ
白く古い感じの小さな駅舎を斜めからかなり遠巻きに見て
しっとりとした新緑に包まれた新疋田駅駅舎。
駅の中は相変わらずしんとしている。

 やっとの思いで駅に帰り着いた。3時間半も歩いて足がぼうになっていた。駅舎の中にはまた別のお爺さんがひとり列車を待っていた。それで私は帰りに買ったおにぎりを、敦賀方面のホームの立水式の消雪パイプに腰掛けて食べた。お爺さんがやって来た列車に乗ると、撮り鉄をしに来た2人の男性が代わりに降りてきた。キャップを逆にかぶった若いのと、年上の男性の二人。きっと年上の人に列車撮影のポイントや極意などを教えてもらう三段なのだろうと私は想像した。
 若い方は落ち着かない様子で、きっぷ片手に改札口に向かうと、「おぉ、ここ無人駅なんだ」と言い、「あ、おれジュースおごりますよ!」と、おとなしいくもちっょとにやけた中年男性に言った。私がここに来たときから一人でホームに三脚を立てていた人はまだこのときもおり、この二人もそこに参加することになったので、先にいた方はなんだかやけにめんどくさそうな顔をした。

感想

 私自身、こんなふうに歩いてみたのは、この新疋田駅のある町を知りたかったからだった。そのため集落を縫う道を歩いた。
 疋田は、再現された舟川運河と古い民家の連なり、そしてその軒先の石畳が特徴の町だったが、そこから先は、山間に点々と連なる集落を川沿いの旧道が結んでゆく、いたってふつうの集落だった。今回は、敦賀駅に行くつもりで疋田からずっと奥の集落まで歩いたが、少し開放感のある谷間の道はきらめきの敦賀市街・港への序章という感じもする。そのような道から、きらめきの港街に出た気分はまた格別にちがいない。しかし、この敦賀のいわばどんづまりにおいて、京の賑わいや華やかさに思いを膨らませる人もいたのだろう。
 また、疋田の町には運河だけでなく西近江路と北陸街道の別れ、北陸線の旧線跡と旧疋田駅、検問所もあるから、交通の要衝であり、交通の歴史が詰まっている町だともいえる。とくに西近江路と北陸街道が合流してからは急に人里に入った感じがするかもしれなし、
 疋田のどこかに、愛発の関という関所もあったとされるが、国道が難なくすっ飛ばすせいで切迫した雰囲気はない。
 なお、今回訪れなかったところも多い。例えば運河よりも駅に近い深坂峠がそうだ。また、新疋田駅前のニュータウンや、愛発小中学校、かたむき地蔵なども気になる。新疋田駅は今年(2006年)の秋、10月ごろ駅舎が新しくなるそうだから、そうなったら、また訪れてみたい。(おわり)

あれから17年後…追記

 あれから17年後の2023年の今、画像拡大化に伴ってこのページを見直すことになった。読んでみると表現している内容が見たままのありのままであり、内心の変化を追っておらず、べつに文章で表現しなければならない内容でもないなと思ったのだが、こうして淡々と見たものを見たまま描写すると、かえってそれが深まって、心に或る抽象的な風景が浮かんでもくる。ちょっと志賀直哉的な感じもするし、これはこれでいいかと思い、手直しはわざと極小限にとどめた。
 当然、新疋田駅はログハウス風の新しいものになってから行ったし、狭隘区間を解消するバイパスも開通して歩きやすくなったのではないかと思う。ただローソン疋田店と検問所はなくなってしまった。ちなみに配信というものをはじめ、それからというもの、この新疋田駅前は何度も車で通っている。そのことを考えると、ほんとこの00年代はまだまだのんびりした時代で、自分もそんな風に生きていたんだなぁと…ほとんど国内での一人旅の経験もなく、集落や駅で地元の人を見かけるたびにあいさつしないといけない思っていたので、本当にこときは疲れた。というのも、そうしなさい、と、新疋田駅や鳩原の撮影スポットを紹介していたある個人サイトさんがそうwebページに書いていたからだった…
 当時はブログ全盛期だったが、個人でサーバを借りておこなうwebサイトもまだ多く、それぞれが内容を競っていた時代だ。
 いずれにせよ ― こうして振り返ることができる、そして省察することができる、そしてそういう場を作っておいた、というのは、本当に良いことだった。なぜなら ― われわれはあまりに振り返る場がなさすぎる。多少振り返りなんか無視してガンガン先へ進んでいくフェーズも必要だけど、やはり振り返る場所がないと、成長が滞るんじゃないかな。日本は成長していないと言われる。あの当時のサイトもブログも、そういう文化丸ごと、消えてしまった。
 当時、その人たちが何を見て、何を考えたか? その根拠となるものがSNSをはじめ"消えていくもの"である以上、われわれはその振り返りすら、困難になる。本やレコードや、何か一つの作品が、或る特定の時代を代表する時代ではないからだ。
 1945年以降すら、われわれは総括できていない。下手したら数々の戦争に巻き込まれていった明治維新の以後すら、だ。総括と振り返りなしに、成長も目標も定まることはないだろう。いろんなことに眼を瞑って見ないふりをして、耳を塞いで、そうして行きついた先が、これなのだ。
 何があってどうなっているのか、すべて明らかにされねばならないだろう。少なくともその姿勢だけは必要だ。知ったうえで受け入れ見届けるなら、納得がいく。公共事業にしろインジェクションにしろ、知らないどころか騙されたうえ、気が付いたら受け入れいて、座視していたということだけは、到底我慢できるものではない。
(追記おわり)


(脚注)

敦賀運河(疋田舟川)跡

疋田から小屋川に通ずる川幅9尺(約2.8m)の舟川で、 文化13年(1816)3月に起工し、7月に竣工したが、 天保5年に馬借座の訴願で廃止された。 現在地を流れるこの疎水は、舟川遺構を「水と史の回廊」 として整備改修したものである。琵琶湖の北より深坂山を開削して、敦賀へ疎水を通す企画は古くからあり、 平清盛の命で重森が着工した跡が深坂峠に残ると伝えられている。 近世初頭敦賀郡を領した大谷吉継も計画を立て、河村端軒も試みたという。京都の商人田中四郎左衛門は、寛文9年(1669)琵琶湖疎水計画の書類・ 絵図を敦賀町奉行所に提出し、元禄9年(1696)にもまた計画するが、 郡内19ヶ村の庄屋の反対にあって、この計画は中止された。 その後、日本海沿岸への異国船出没に対し京都の糧道確保のため、 文化13年に琵琶湖疎水計画が幕府・藩の手によって具体化し、 翌年3月、小浜藩家老勘解由左衛門を不審奉行として、 先ず小屋川と疋田間の舟川工事が開始され、4ヶ月後に完成を見た。文化14年8月、川船数艘に米23俵を搭載し、船引60人で試運送を行った。 上り荷は米、海産物、下り荷は茶などで、疋田よりは牛車にて近江大浦 へ輸送された。なお、安政4年(1857)4月、幕府・小浜藩によって天保5年に廃止された 舟川が掘り起こされ、12月再開通された。土橋より下は笙ノ川 筋に出て、河口の今橋の下には荷物取扱所が置かれた。 この舟川も慶応2年(1866)5月、大洪水で破壊された。寛文期(1861〜72)以降、河村端軒による日本海から 大坂直航の「西回り航路」の開発で受けた敦賀港の打撃は、 このように琵琶湖・敦賀間の運河計画が部分開通に終わったため、 回復には至らなかった。

1985年12月 気比史学会・敦賀みなとライオンズクラブ (2001年3月改修 福井県)