周防久保駅
(岩徳線・すおうくぼ) 2011年5月
朝は当たり前のようにやってきた。シュラフに入ったままガバっと起きると、あたりは白靄が立ちこめていて、不安定なくらい開け放しの間口からは道路があらわで、それは鍵もかけずに家で寝ていたのに似ている感じだった。 死者はいつも無防備だ。こんなにも力なくなされるがままで横たわっているというのは、なにか純粋な感じがするものだった。
夜を通じて来訪者はなかった。トイレ休憩に寄った車があった気がするが、記憶が定かではない。近くに来ても、消灯した駅舎内の中に入ろうとする奇特な者は、それが目的でもない限りはいない。 とにかくこんな風にして僕を一夜放っておいてくれたのは、天然の慈悲か、市民の総意のような気がして、何か自分が罪の赦された存在かのように感じた。 跨線橋に上がると悄然とした木立の向こうにレグリーズ、あたりは丘がちで、かつてはさまざまな畑か果樹栽培がなされたのを想像した。聖ナルド教会…何か突然ここだけ北海度かのようでもあるが、谷にも丘にも民家は立ち、そうして地形を様々に侵食したそこに立つ教会は、かつてのセミナリヨのようでもあった。 今では、さらに国道、バイパスが水平に展開し、ここはいわば通過地となっている。
山手側のホーム降りると、教会の姿は異様で、なんでここにこんなものがあるんだといった感じだった。夢か幻か? 何度か僕は駅名標を確認した。そこにははっきりと感じで周防久保、とあり、まぎれもない日本、しかも山口である。 夢の薬でタイムスリップし、帰られないことに悲嘆に暮れて泣きはらしているといつしか大海になって帰り着いていた、そんな錯覚にも陥った。
だから周防久保の駅名標を見たときはうれしかった。 身体が異国の地にあるというのは、なんとも心もとないものだ。たいていの場合は、別にそれほどフェータルのことは起こらないが、いちど厄介なことに巻き込まれると、にっちもさっちもいかなくなることはある。 だからこの国にも教会があるというのは、日本人の信者にはありがたいことなのだろう。内国に居ながらにして、その信仰の場があるのだから…
ホームから見た方が、駅舎は古いものだとわかるものだった。物置部の引き戸からすると、大正か昭和のものだろう。外観からすると中二階もあるかのような感じだが、室内の天井高は一階分しかない。
90年代に改装されたかのような白い建材をはめ込んだ外観の駅舎は、JR西の青いラインの駅名標が民営化の悲哀を物語っていた。いっさいは過ぎ去り、ただいまはそこにあるがままにある。職員はそのままスライドし、或いは大量に違う事業に異動し、雇われた人たちがある程度のところまで年齢を重ねるまでの時間で、トップは経営を見積もる。運転士はしっかり職責を果たす。たとえそれがつまらなかろうが、退屈だろうが…そして駅で待つ人を心のどこかでは、乾いた喉のように求める。 朝になれば列車は来る。来ない日はまだない。それだけでも奇跡的だ。そんな風に思えるのは、始発はるか前で、僕が駅寝し、あたりは異国のように霧に包まれているかもしれない。
飽き飽きするような木造舎の中、安っすいプリント合板に造花が投げられる。トイレも異様に古いが、植え込みは丁寧に整えられ、できるなりの清潔感が与えられていた。これらは資金が適切なところに用いられている証拠なのかもしれない。あるがままに、できるなりに暮らせるように…けれど新築という薬物はたまらないものがある。使うしかないカネというのもある。僕は金に興味がない。興味があったら、こんな旅なんかするわけがない。
駅寝して朝起きていつも思うのは、こんな汚いとこで寝てたのか、である。夜はだいぶカムフラージュされるのだ。いやはや、夜が明けてよかったものだ、と首を振るのが、僕の駅寝での朝だ。 ただ僕がその台詞を、死の今際に言うことができないのが、残念だ。
朝もやの中当たり前の顔して駅前は現れる。高規格の以前の国道は唸りもせず、道を堂々と渡り、その真ん中を歩けるくらいだ。
朝になってもやはの寂しところには変わりないようで、両腕を抱えたくなるような冷涼な空気の中、杉林の丘陵地や谷を観察しながらあたりを歩いた。
なんというか日本は道路を作りすぎたかもしれないと、しばしば思うことがある。今は高架のバイパスができたからこっちのこんなに規格のいい道は交通量がないのであるが、その高架の方もこの時間はそれ程でもない。ほんとに高架の方は必要だったのか? けれどドライバーは、道路はいくらあっても困らないといったような認識がある。椅子が割れ、うらびれた防長バスのバス停を見ると、何か虐げられた人の姿が見えるようでもあった。それは運転手かもしれないし、乗客かもしれない。 僕ならきっといっぱしの乗用車を買って、好きな音楽でも聴きながら、この道を飛ばして通勤するだろう。
いつものように道のカーブの先に何があるかと、長々と歩いてみたが、なーんにもなかった。そう、これはやはり一般道とバイパスのあいの子で、見える風景は車の速度でないと、変化が遅すぎて冗長なのだ。 ここは通過でもあり、地図によると東陽という巨大な住宅地がある。僕はそこに住んで、こんな朝もやの中ショートパンツでジョギングなんかして、健康維持に努め、税金を収めて生活する、そんなまじめな生活者にはなれそうもなかった。目に見えるあらゆる緑や道路に感謝し、気持ちよい朝の空気を愛で、テレビに新聞に浴し、出勤日には出勤する。出勤日はなくてはならないもので、そうして出勤しない日というのも、明確でなくてはならぬ、そんな世界線に僕がいるとしたら、それは随分と創作のために必要である場合以外には、考えられないことだった。
駅に戻り、ホームへ入る。特別に見えた聖ナルドのレグリーズは、ただ多少似合わない感じでそこにぼーっと突っ立っていて、ここもごくありきたりな駅へと、僕の眼には変容していった。 異様に薄い鞄にスーツ姿といういで古風な男性とともに、やってきた気動車に乗りこむ。車内に効いた暖房もまた、この地をを僕にとってごくありきたりなものへと変えてしまう。勤め人や津ヴ覚醒を送り届けるために、気温一定以下なので車内を温めている、それだけだ。こんな山村も、一つ一つ違う駅も、すべて均質化する。それが列車だ。 一緒に乗った男の人のようなのは、昨日徳山の車内でいくらも見かけた気がする。たいていみんなカバンが、飾り物みたいに薄かった。尤も、家に資料を持ち帰りができる時代でもない。しかし僕にはふと、浪平のデスクが思い浮かぶ。電話と紙一枚しかないといったような…