忠海駅
(呉線・ただのうみ) 2011年5月
早朝、誰も乗っていないような列車がみせてくれる、ガラス窓と海がひっついたような車窓を一人で眺めている。本来なら、大勢の人が大挙してこの車窓を堪能しに来てもおかしくない、いつだったて人々の歓声が響き渡る…いま、そうでないのがほんとうにおかしくて、まるでこの世で自分だけが、このすばらしい車窓を知っている気がした。
近世、この列島に渡ってきた異国人は、瀬戸内の多島美をほめちぎっていた。いま、それを眺められるような鉄道線があることを当時の彼らが知ったら、驚嘆してもっとこのことを書き立て、喧伝しただろう。僕にはキラキラしたガラス張りの都会やおしゃれなカフェの価値はわからない。近代と自然風向が、たぐいまれなバランスをもって成立したその光景は、ほとんど奇跡としか言いようがなく、僕はこの国が国として、そして国の歴史を連綿としたものとして認識できるのだった。
僕が再び列車を降りて跨線橋に上ると、だいぶ街に来た感じがした。遠くには瀬戸内の島々、けれど反対側では古い国道を車たちがせわしなく朝を急いでいた。
ちょっと疲れそうだなとおもいつつ、ため息をつきつつ、ズームを通して流れ込んでくる海風から、その清涼水をおしいただいた。
貨物も重要な役割を果たしたでしょう
左手に旧ヤードのようなものが見て取れます
駅舎新しくなっていて、これぞ西日本と言わんばかりにドアをいっさい設けない開放的な造りになっていた。冬でも温暖とはいえ、寒いんだけどね…まぁ、これはこれで海遊びのできるまちを表現しているようでなにより。なにせ、駅名が"ただのうみ"だから…けれど駅前は昔のせせこましげに旅籠が並んで、まるで模型のセットのよう。深い情緒をたたえていた。
交換するときは全部なんでしょうね
かまぼこのよーな…
昭和30年~?
部活ですね
最近人気の大久野島のこともあって、観光で来る人は増えているだろう。けれど早朝の僕の見知らぬ街は、昔の国道を車が走り飛ばし、部活の子らが集まってくる地の駅だ。僕にはここになぜかカップルが大勢来るのが思い浮かんで仕方なかった。もしそうだとすると、こんなところに来るその二人はたぶん離れがたいほどに結ばれているに相違ない。しかし…それもなんだか媚薬みたいなもので、振り返ってみるともどかしいくらいにおもはゆいかぎりなのだ。互いが互いの幻想の中を覗いて、その幻想の中で旅をする、そんなのはいたましい結果にしかならないのだから、道中でさんざ嫌なところを見つけあって喧嘩するほうか現実味があるというものさ。
僕は、よくうまくいってるカップルが、二人が悪い感情を抱いてはいない知り合いの単身者をみては、ぜひあなたにもこの幸せをと言わんばかりに誰かあてがおうか、といったようなあのままなざしが耐えられない…
まぁだから僕はね…大久野島なんかに行かず、駅だけを渡り歩くわけさ。あれやこれやあわてふためくより、こちらのほうがずっと僕には健康的で現実的なのだ。僕はすでに互いに幻想の中を覗くあの能力を失ってしまっているのだから…