高木駅

(三木鉄道・たかぎ) 2007年5月

  近くの畑でワゴン車を駐めて子供を交えた家族が畑いじりをしていた。田舎帰りではなく、父が無理に連れ出してきたのが想像された。線路沿いの土の道に入ってみると、鯉のぼりで、高速道のようなものが架かっている。それで家族旅行したそうな子供の姿が浮かんできた。このつまらない、どこにでもある集落のようなところから車で抜け出して、遠くへ。車でないとするなら、この停留所たる駅が、大旅行の夜明けを担ったこともあるのだろうか。誰かの計画書のはじめに、高木駅と記されるような。

厄神・加古川方。

またこんがり焼けて。

一応駅名標。

三木方。三木駅構内の信号がここに来ている。

 

当駅の特徴。

県道とは反対側に向かう集落の道。

厄神方に歩いて。

 

  鯉のぼりとは奇怪なもので、初めは、蛇のぶつ切りか、もしくは龍の模様で、まず異国のものだとしか思えず、あれが鯉でみなに愛でられている風物詩だと言われ愕然としたものだった。しかしそうしてあの奇妙な物体を取り込んだ。いま、勇ましく自由な魚の表現である一方、現実としてはただの串刺しだという、その相反性が同時に見えてきている。
  あの浮かんできた子の姿、やっぱり別に旅行したそうなんかじゃないな。勝手な いたわりか。

  この駅のホームはちょっとした畑を前にしていて開放感はなくはないし、至って普通の民家もあるし、県道もあるのに、なぜか、どことなく、みなぎる飛躍を発揮できない寂しさが漂っていた。なぜだ…。あの一家やあれら素材はわかっているが、それ以外に何が…、それで、ああ、ここはもう三木駅の一つ手前じゃないか。もう一歩で街なんだ。やはり街の片鱗がはじまっていたわけか。逆に、遠くへ行こうと三木から乗ったのに、一つ手前のありきたりなところで降りてしまったような、歯がゆさ、近所旅の何だかんだ言っての虚しさ。
  ちらっと架かるあの道に想いを乗せて飛ばすことより、鉄道がそこを、まっすぐくぐり抜いているのが大きく見えてきて、その影だけのトンネルが、この取るに足らない一停留所に、大旅行の可能性を暗示しているように、ようやく取れはじめた。

踏切と駅の入口。

高木駅。ホームだけ。

県道へ出る道。

 

  鯉のぼりの支柱を見ていると、厄神で見えた飛べない鳥と重なってきた。結局、あの支柱の布に天駆けるものを想像したり、抽象的表現というものを理解しないと、開放感は得られないのが、暮らし、というものなのかしら。
  支柱の上に鳥が、なんの造作も、たくらみもなしに、何羽も行き交っている。
  家庭菜園行きの団体旅行の一行から離れて、独り三木駅へ向かうのには、気持ちよさそうに布が泳いでいるという見方より、それを手にする前の垢のない気持ちの方が、よりふさわしく、また、開放感を誘うものだった。

三木駅へ

県道にて、加古川方。

  三木駅はやはり列車で降りたく、下車するつもりをしていたが予定がくるったため、もう高木駅から歩いた。どうせ三木からの帰りは乗るし、それに何より、好きに歩けるよろこびに憑りつかれていた。駅間をすいすい歩ける錯覚を楽しめるのも、つまらない停留所を増やしてくれたおかげだった。

三木方面に歩いて。トラックが多かった。 鋳物を運搬しているのかもしれない。

都会的な川、というより水路だろうか。

こんなのでも橋梁。

 

  高木駅を離れて歩き続けると、はっきりと市街めいてきた。三木駅は外れにあるといえども、やはり市街余波の流れを汲んでいるようである。しだいに信号も増え、自動車も繁くなり、果てには右手に山が迫って来て、もうここは市街へ急ぐばかりという感じだ。 この三木山は森林公園やホースランドなどが造られる休暇的なものだが、三木市街を南に衛る故郷の山ともなっているのだろう。その緑の下り降る残滓で窮屈な道路に、福井と地名を付けた信号があって、福井がこんな南にあればよいのにと思われた。
  ここを左折だ。地図を見以て入り込むと、駅のありそうな雰囲気はまったくない。また間違いか。しかしおそるおそる進むと、なんだか車検センターみたいで、長い石の土台に車が何台か載っかっているのである。確かにプラットホームみたいだが、駅の雰囲気はまったくない。おかしいなと思いつつもそこを回り込むと、あった、離れたところに三木駅駅舎。
  急に初夏特有の歓びの生暖かさに包まれた。見つけた三木駅が緑霞みの向こうになった。思い出の完成も近かった。

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