戸田小浜駅
(山陰本線・とだこはま) 2012年7月
私は逆戻りすることに子供のようにかぶりを振った。一般に、精神作用上よくないらしい。
駅名も告げられず、傷み切った汽車は夕暮れの海岸をゆっくりとゆっくりと蝸牛のように進む。古錆びたガラスが時間を歪ませ、夕日は達磨のようにつぶれていく。とてもではないがこの世とは思われない感覚につらまえられ、とてつもなく恐ろしいところに向かうようだった。
汽車は無間の死の等速運動を怠惰に繰り返している。たまにほわっとトンネルに入る。車窓は轟音とともにコンクリートを流し込まれ、列車を丸ごと、生き埋めにした。ある海辺の鉄道線の悲しい話であった。
生還し、駅が近づくと汽車はそのまま力を失い、止まる。その止まった駅が、また考えられぬくらいに廃れきった掘っ建て小屋だった。駅名すら告げられなかった。
客はほかに誰もいない。いたとしても、ちょっとニヒルに笑っているような、或いは酒缶を泥棒してきたような真面目さのような、そんな何ともつかぬ人たちだった。
私は不安でたまらない。時間は西へ西へと進むのに、夜明けに向かって都市に赴くような、そんな時差ぼけのようないやな感じであった。さんざ泣いて別れをちぎって舞い戻ることほど、バツの悪いこともない。私はなぜか殺される気さえしていた。県境をそう何度も行き来するものではない。
こんなところでただ現実だけを見て生きるのはむりだ。未知の世界が、すぐそこにあるようなのだった。
日の明るさがマッチの火を消すみたいにしゅんと萎びたころ、戸田小浜でむりやり引っ張られ、降ろされる。
もう空はぼんやり照る照る仄明るいだけ、たださざ波の音だけが、松影の丘を越えてくる。でも丘はひょいと越えられるようなもんじゃない。小径もあるが、虫が多い上もう暗く、行ったらもう二度と戻ってこれないだろう。
構内はとぼけたように広かった。けれど、とある集落の駅で、跨線橋からはセットのように駅前に建物が立ち並んだ。ここの人たちは駅を得て、どう思っているのだろう。
またこんな異様に寂しい駅で寝るのかと思うと、急に参った。気がどうかしそうなんだ。椅子さえ満足にない。そして虫だらけなのである。
とにかく何か食べたくなって、必死に歩き回るが、何もない。うそだろ、うそだろ、と、国道にまで出たが、本当に何もなかった。車もほとんど通らず、ただきれいな路面が一散に走り去って、ドライバーが一瞥をくれると後は高速で通過する、その信号機と共に、いま私は呆然と佇んでいる。
空は鬱血した褥瘡がひろがり、やがて、それは黒く腐敗しはじめた。鼻を近づけると潮の香りがアスファルトにまで縹渺としていて、そのにおいには軽い吐き気を催した。
何もない、というのは、自然のただ中、その道に於いて、他人のものとその生活しかない、ということでもある
それにしても信号機というのは不思議なものだ。
ドライバーが来るときだけ、特別明るくして、こっちだよこっちだよ、と言っているのである。
本当の話だよ。
そして誰も来ないときは、しょうがないなぁ、といわんばかりに、生きるための明滅という脈拍を打ちつづけているだけなんだ。
私は潮の香りからくる頭痛をこらえつつ、
「こんなところで突っ立ってひまじゃないの? ほんとうはさ、誰も来ないときは明かりをつけずにちょっと休んだりして、点滅の間隔がずれたりするんでしょ。」
「そうそう、それであわてて隣と合わせるの。何で知ってるのよ。でもやりがいがないわけじゃないの。必ずここは誰かが通るところだから。誰も見ない冷暗所のサーバのランプなんか想ってみなさいよ。かわいそうなものよ。でもね、お昼になったら休む間なんてないから、特別明るくするなんてしないで、ただ惰性で脈動させてるだけなのよ。」
「なるほど。昼も退屈なんだ。」
「あなた話のわかる人だね。今までここでそんなこと話しかけた人はいないわ。」
「きみらは無駄に明滅しているわけじゃない。へたしたら生物と通信の最も原始的な形態かもしれないんだ。ただ、人間は、化学物質でその伝達をおこなっているんだ。」
「へぇ、そこまでいってくれてうれしいな。電線づたいに、そんな話をした人がいるって聞いたことはあるけど、直接聞いたのははじめて。仲間にすぐ伝えるてみる。」
「どれくらい遠くまでつながってるの?」
「そうねぇ、海峡はむりだし、五十ヘルツの地域もむりね。以前、名古屋の信号機とやり取りしたことがあるわ。排ガスを浴びて、過労死寸前なんですって。」
「なんだいそりゃ」
「あと脊椎折られた子もいるわ。ダンプでね。」
「でも人と違って直るんだ。都会の方では矢印がたくさんついてると思うけど、どう違うの。格があるの?」
「矢印は静脈血を見せているだけなの。細いとこをよく見てみて。どくどく波うってるから。」
私は失笑して、
「なんだいそりゃ、インバータでもあるまいし。もう駅に戻るわ。」
すると、信号機は黄色いハンカチをいつもよりちょっと早く振って、バイバイしてくれた。
植物や信号機というのは、たいてい優しいものだ。なぜなら、彼らは動けないからである。
もう空腹すぎて頭がおかしいのだろうか。
あのセットのような駅前に戻るが、めずらしく何一つとして前向きに考えられない。またいつものようにコーラを買って栄養源にするしかない。自販機はほんとに朴念仁だ。ヴゥンとうなって、ボトルを投げつけてくる。話しかけると延々と話す爺さんであることが多いから、私は交感できないふりをしているんだ。これも本当だ。飲み物を買うたびに話しかけるやつは店でもいまい。にしても…こんなものばかり飲んでいては体がボロクズになるな。
駅舎内は狭く、椅子に座っていると外から丸見えなり、虫が通り放題だった。もちろん蜘蛛もあちこちに巣を構えていて、天井の立派な濃い木目が霞んで見えた。
集会場に改装された駅務室では、老人たちが酒盛りをしている。一体どこに食糧やら酒があるのだろう。あんまり長くつづいたら、と、ちょっと気にする。
宴のたけなわを迎えて暗くなると、彼らは機嫌よさそうに大きな声を掛け合って転がり出て車に分乗、黒川さんはこっちのったらええが!なんていうすったもんだの後は、ただ素直に、赤黒い光とガソリンのにおいだけが残った。
にもかかわらず私は猜疑を深め、ずっとずっと虫の鳴き音に耳を澄ませる。気がおかしくなるくらいに。
「本当か?本当か? かすかに足音が聞こえないか?」
やがて本当に誰もいなくなったのを知った。
あの人たちはきっと地域に長年貢献してきた人たちなんだろな。そして今夜はその中でのささやかな楽しみだったんだ。何も悲劇が起こらず無事終わったことを静かに喜ぶ。
ああいう人たちは、けっこうこういうささやかな催しが楽しみなんだよ。それでよいではないか。私はどこの地域にも貢献していないのだからさ。こんな虫だらけの建物は、罰として私にふさわしい気がした。
水を湿したタオルで拭いて、ホームをぶらぶら歩いて体を冷やしきった。
暇を持て余して、ホームの軒端の電灯の近くを、独り言いいながらあっちやこっちや歩いていると、
誰か二十数歳の男子二人がしゃべりながらやってきた。しかし、一人が私の姿を一毫も視界に入れるや彼らは踵を返した。なんとなし道の通りがけに思えた。
その後一本の列車が来た後、彼のうち一人が再び姿を現した。中に入ってきて、不機嫌そうに唾した。
どうも彼らは二人でただ語らいたかったらしかった。それに気づいたのはだいぶ後だ。
彼らは二度とやってこない。空の黒さが静まりきって、駅名標もわたしに知らん顔、勝手にすればと。おかしいなと時計を見ると、誰もが寝静まる時間になっていた。
みんな降参したのだ。私はここの王になった。
そう、誰も来なくなって、見放された空間の王に。「ばかがなにかやってら」
いや自分はなるべくホームに避けていた。それに誰がいたっていいじゃない。
いや、わかるよ。しかし君は心の中で、棍棒で私を殴ったじゃない。
友人とこんなところで語らうのは、きっと楽しいだろうな。それは独占というより、自己表現の練習として舞台を借り切っているんだ。駅や車内、喫茶店でしゃべるっていうのは、そういうことなんだ。
だから人は、お外でしゃべるのが、好きである。
さてさて王になったはいいが寝るところがない。恐ろしい心地しかしないが、JAのポーチのタイル張りにシュラフを広げた。人間はある程度の細菌や雑菌、害虫は問題ない、十円玉をなめてさえよいという、医学生になったばかりの友人Sが意気揚々とそう主張するのを思い出していた。医学科では免疫を奇跡として扱っているようだ。
それに何よりも、自分の体にも何の欠陥もなかった。欠陥や痛みがなさ過ぎて、むしろ自分で痛めつけていた。どれだけ傷めつけても、体はこたえなかった。私は自分を持てあましていた。
唯一の懸念は新聞配達。
「どうなるか知らんが…」
最後まで悩んだけど、ここで寝ると決めた。
不思議なもので、そう決めたら寝れなくはない。シュラフに入って横になるというのは、かなり強い身体的記号らしい。ちなみにシュラフは必要。これがないと寝に来ているのだという意味を自分に対して持たせることができない。
コオロギの鳴き音が水平に伝わってきて、ちょっと異様だ。地べたで寝ているんだ。
五夜目。つまり屋外で一夜を過ごすのは、当たり前になっていた。
三時過ぎか、バイクが間近に迫り、JAのポストに新聞が投げ入れられる。私は体を硬くしてそのままでいた。彼は少し思案しているようだった。
客観的に考えたら、びっくりしただろう。けれど、眠らなければならない身となっては、もうただ、そのままにしてくれるだけで最高の親切なのだった。