徳田駅

(七尾線・とくだ) 2008年4月

夜の徳田駅

 

  すっかり夜になってから、徳田 というところで降りる。すると すさまじいほどの蛙の鳴き声だ。耳がおかしくなるほどで、本当に蛙かと疑ったほどだが、やはり蛙に違いなく、「もういい、わかったから、真っ暗であたりは見えないが、水田がいっぱいあるんだね」。同じドアからは十数人の人々が降りた。そのドアがたまたま 裏口と跨線橋に近かったのだった。真っ暗のホームのほんの一部が、一瞬賑わったときだった。この駅で温かかったのはこのときだけで、あとは急速に冷え込んでいった。少し向こうに車掌の姿が見える。しかしちらっと我々を見ただけで集札はせず、この日一日を振り返って、七尾線の集札はまちまちだと結論した。これから帰宅せんとする人々の塊や列が、駅舎の中や駅前でほぐれている最中、私は独り駅舎に入らず、その手前のホームに手持ちぶさたに立っていた。だって、ここから帰る家はないし。それにここは駅員など初めからいない、新しい駅舎だった。立っていると、やはり車の暗赤色のランプが見え、ドアの籠る音を響かせては、人々が立ち去っていく。それが落ち着いたころ、私も恐る恐る駅前に出たが、ともかく肌寒い。昼間の陽気からは想像できないものだった。

 

羽咋方面。たいへん肌寒かった。

もう少し明るく撮ったもの。羽咋方。

構内の様子。

改札口。

  そんな冷涼な空気の中、残っている人が一人いる。迎えの来る気配は、少しもない。四十前くらいで眼鏡をかけスーツ姿の落ち着いた人だが、純朴な感じだった。駅前は店などない集落で、駅舎は、ほかの家々と同じようにして、道に面していた。そして闇の冷たい空気の中、新しい街灯が路面と新緑の街路樹を照らしており、そんな中 二人して立っているのは変だったが、その人は私のことなど不審がらず、腕時計など見て、まじめに迎えを待っていた。駅を駅として使っている純な雰囲気が漂った。日中はすでに上着が疎ましい季節だったものの、こうも気温が下がれば着て来てよかったと思えそうなもので、その人の表情は暗闇の中、迎えも待っていることもあってか、表情が澄んでいた。
  私はトイレに入ってみたり、駅の中を観察したりして、その人に気を使った。トイレは特に手を洗うところがセンサー式で助かった。手を翳すと静かな駅に、勢いよく流水が迸る音が響く。ここもコミュニティハウスだから昔の体裁はない代わりに建物が新しく、待合室がどん、と広い。水銀灯が照明になっているから、これはちょっとしたホールだ。その壁に沿って、長椅子がいくつもある。これが目当てだった。
  ホームに出て、灯りついているうちにと、端の方まで行ってみたが、遠くにも店の灯りなどはやはり見つけられず、ともかく蛙がうるさかった。そして長袖の毛織物一枚では寒く、首を縮こめ、両腕を抱えた。初夏の夜特有のものだった。似た気候でも、たいてい秋なら用心しているのだが、温度場がのぼりになる経過に現れてしまうと、つい油断してしまう。しかしそれでもまだ、今夜のさらなる降温に不安を抱いていなかった。

  駅前に出てみると、さっきの人は消えている。数えきれないほどの蛙の声が重なる、横に流れている暗い集落だった。私は駅の掛時計を見て、待合室に入り、椅子に掛けて足を伸ばし、休憩しはじめた。しかしじっとしていると、どうも寒く、特に足が冷たくなってくる。終電まであと3時間くらいある。なんとかこれを切り抜けないといけない。退屈で、鞄の整理などをしたが、本など持ってきておらず、時間潰しは相当な苦痛になった。持ってきていても、寒さから落ち着いて読んでいられなさそうだ。もう五月ではあったが。

  駅に来る人はいない。列車が入っては、人が降りてくるばかりだった。しかし22時ごろ、駅前で車の音と中年女性の「ありがとう」という大きな声が響き、人恋しい私はほっとする。二人の五十くらいの女性が入って来た。少し声量を下げて にこやかにおしゃべりしていて、列車を待つようだ。こういうとき、ついさっき別れてきた人についての話をしそうなものだが、していなかった。意外と遅くまで列車あるんやね、と、鉄道の話題にちらっと触れ、ほかは特に評することもなく、あとは好きなことを好きなだけしゃべっていた。この方たちのおかげで駅が賑やかになった気がして、助れられた心地がした。しかし列車が着くと、しゃべりつつそのまま列車に乗ってゆき、声がしだいに消えていくかたちだった。寂しいものだ。車掌から駅舎の中がよく見える駅なので、上り下りとも列車がつくたんびに立ちあがって、駅の外に出たりした。心身ともにくたびれた。今度から、こういう待ち時間は甘く見ない方がいいなと、肩を落として苦りきった。

隠されたる男女の逢瀬

  夜(よ)も深まった23時ごろ、列車が到着し、また人が降りるが、二人の男女が、待合室に入り、腰かけはじめた。待合室はたいへん広いので、互いに少しも障りはなかった。私は待合室の一ばん奥に座り、その二人は出口に最も近いところに座ったから、互いの距離はこの室内でほとんど最大のものだった。二人は来たときほかの降車客に紛れていたせいか私にとっては気がついたら座っていたという感触だった。すでにほかの客はおらず、虫の鳴き声と二人の話し声が何となく聞こえる中、私は痛い足を揉んでいた。
  しかし、それから何十分経っても、二人は帰らない。もうそろそろ、今度こそもうそろそろだろう、と思って時間を読んでも、いっこう、その気配を全く見せない。しだいに首が真綿でつまり、苦しくなってきた。ここが暖かいならわかるが、季節外れに本当に寒いのだ。だからよくこんなところで長々と座ったまましゃべっていられるな、と怪訝にも目を瞠(みは)ったほどだった。
  二人が出口近くに座っているため、出ようと思っても出にくかった。出たら、行く当てなんてホームの待合室ぐらいしかないし、そこに自分の姿があれば、二人を嫌って避けたというのが、あまりにわかりやす過ぎる。また列車が到着する。とにかくこれをきっかけに出てみようと思うが、二人は今度こそ帰りそうな気がしたし、それにいざ自分が出ようと思ったら、列車が着いてちょっと経ってからになり、いかにも出る意義が相手にとって不審だった。とにかく、二人の前を通ろうとすると、二人して、じろり、と見上げられそうな恐怖があったのだ!
  その列車は去った。当然、二人は帰るわけもない。彼らはどうも大学生らしく、女が、塾か家庭教師かで教えている内容をわからず、男が手解きしているらしかった。内容は、三角比である。教え手が煮え切らない様子なのも、こちらの首を真綿で詰まらせた。
  彼らも私のことを、おかしい、と思っていたかもしれない、しかし、この寒い中二人で喃々とささやき合える恋人同士なのだから、離れた私のことなど意識し続けている様子はまったくなかった。でも、ひとたび彼らの横にある出口から出ようとするのを想像すると、あの恐怖が襲ってくるのである。男の視線は別にかまわないけど、女の視線が恐ろしい感じがした。この無人駅での逢引に、なんだか目障りなものが、それが何の楽しみもなさそうな一人の旅の者なんだから、通るときに、ふふ、と笑われそうだった。急にまさかりを振り下ろす、のではなく、熊のようになって振り上げたい気持に駆られたが、そんなことはできるわけもなく、独りでかすかに咳払いして、新たに沈思黙考を始める。すでに体も動かしづらくなっていて、呪縛だ。血流も悪くなって、寒い。

  いったい今後どうなるのだろう、と、思い出したようにまた鞄の整理や、足を揉んだりして疲れきっていると(結局、靴が悪かった)、ふと男だけが待合室を出ていった。飲み物を買ったようだ。彼は戻って女に渡した後、こちらに向かってきた。しかし私はそっちを見ないようにした。これよかったらどうぞ、と缶飲料を渡してきて、びっくりした。知らぬ人に飲み物を買ってあげるというのが考えられなかった。それに自分よりも彼らは年下だと見えていたし、近づいてきた彼を見ても、見当外れではなかったから、厭な気持ちにもなった。それで仕方なく、年少になりきって、いや、どうもありがとうございます、とたいそう恐縮して受け取る。歳は関係ないという考えはあるかもしれなかった。でも奢られてはそうもいかなかった。
  ところで、彼はこんなことをした後、元の席に戻って、彼女とさっきと変わらず喋っているので、困ってしまった。もういいわ、ともかくここを出よう、と、貰ったものを持ちつつ、出口まで歩き、二人のところまで行き、意外だという口調は隠さぬまま、またお礼を言って、そして去ろうとすると、「どこに向かうの?」と訊ねてきた。立て続けに、「もしかして、まさか、ここで寝るの?!」と、目を大きくする。女も顔を上げて、でも私を見たくなさそうに、私の胸辺りを見ている。見透かされた私は硬直しながら目を見開き、その男の首を、突然絞めだした。
  嘘だ。彼だ。彼こそが首を絞めているんだ。私の首を! その問いかけという、麻縄をほどいておくれ。どうやってほどいたかというと、「次の七尾行きに乗ります」と笑顔でほどく。すると、「七尾行きまだ来ないの?!」 私は、一瞬、おまえが来てからすでに七尾行きは何本か到着しておろうが、しゃべってて気づかなかったのか、と血管が浮いたものの、「次のに乗ります」と爽やかに立ち去った。外に出てから、まさかあの訊問、皮肉じゃないだろうな。でも…あの問いには、思い返すと、同情めいたものが籠っていた。こんなに列車が遅らされて、寒い中待たされていたの、という眼差しが入り混じっていた。能登は優しや、か。しかし裏切った感触はなかった。なぜなら、こうなったらもう、こんなときのために当てを付けといた七尾の寝られるカフェに行ってもいいと思ったからだった。初めての駅寝にあたって、無人駅でこんな夜な夜な男女の語り合いがあるとは思わなかった。「こんな使い方もあったか」。 私は上りホームに移動し、待合室に入って、戸を閉め立てた。調べでは、ここには据え付け長椅子があったのだが、はるばる徳田に来てみればその待合室は撤去れ、硬い個人掛け椅子の入った待合室が新設されていたのだった。中は小さい虫が蛍光灯の下(もと)、群がりながら飛んでいて、顔に当たってうっとおしい。椅子にかけて、前傾姿勢を取る。いつまで経っても窮屈だ。こうしないと向こうの駅舎に居る彼らの座った後姿が見え、彼が振りむいてすぐ目が合いそうなのだった。だって、どんな表情したらいいかわからない。現に私が、もう窮屈でたまらなくなって、窓の向こうを思い切って直視すると、なんと男の方がホームに出ていて、こっちを見ていた。私は気持ち悪くて視線を外す。戸を引く音がして彼が再び中に戻った予想できると、私はもらった缶飲料を、窓辺の虫溜まりの上に、高く積み上げた。

突然の解放

  ともかく、七尾には行かないことに決めた。ここで退散したら、いつまで経っても駅寝に挑むことはないと思えた。所詮、公共物の占有で、かつて迫害の気持ち抱かなかったわけではないことを、やり終えてけりをつけよう。
  終列車、下り七尾行きが入った。私は待合室の壁に身を潜めている。笛が鳴り響き、列車は動きだした。深夜0時半だった。また窓から向こうを見やる、すると、彼らはまだ居る、しかし、これは予想していた。あなた方こそ この駅で寝るんじゃないのか。だからあんなことを訊いたのではないか。寝るんならそれでいいから早く寝ようよ。疲れた。
  終列車が出てから、ちょくちょく窓から窺ったが、ずっといるつもりらしいので、私ももうこうしてしゃがんだまま、寝ようと思いはじめる。現に眠くなってきた。
  突然、向こうの駅舎の戸を勢いよく引く音が響き、男の大きな声で、初めの方は聞き取れなかったが相手の彼女に話しかける感じで「…警察に通報する」と、笑ったような冗談めかしたような言い終わり方で、慌てるようにして外に出て、車の戸を開け、あっという間に発進させて去った。その台詞を訊いて、さすがに固まった。いや、別にかまわないが、なんで通報するのに車に乗ったんだろうかと思った。警察でも来てくれるなら安心だわ、などと本気で安堵し、私はついに、待合室を出る。外の空気が気持ちいい。しかしあの台詞については、熟考させられた。彼を不安にしないようにと私が身を隠したにもかかわらず七尾行きに乗らなかったことを知ったのだろうか。すると、彼は裏切られたと思って、いじわるしたくなったかもしれない。でも、どう考えても見つかっていないはずだ。私はこんな仮説を立てた。男は女に夢中で、終列車の出たことに気付かなかった。気付くとそれから30分も経っていた。それで、このまま居たら、近所の人たちが通報する、と、言って、慌てて出ていった…。もっとも、単に 彼らが帰り際に、私のいる待合室をちょっと遠くから窺って、私の姿の片鱗を見つけたので、そう大きな声で脅しの冗談を言って、去ったのかもしれなかった。しかしは私は最初の説を支持した。でもどっちにしろ、解放されたのだ。力が抜けた。きっと彼は、これから彼女を送り届けるのだろう。ここぐらいしか二人きりで居られる場所がなかったようだ。そして彼女は家に帰ると、終電で帰って来たの、家の者に嘘を言うんだ。私も、そこそこには見透かした。ふん、と気取ったが、とにかくあれ以上邪魔しなくてよかったとは本心から思った。二人の大切な場らしかった。徳田駅はただの新様式の木造駅ではない。誰かにとっておきの場所を供していた。

駅舎の待合室の入口。

立派な造りだ。

亡霊

  駅舎に戻った。やはり誰もいない。駅前は虫の声がしりしりしているだけだった。洗面所で支度を調えて、寝る椅子を検討。ホーム側の椅子は、誰かが入って来たときにすぐ目に留まる上、駅前側の窓からも見えそうだった。駅前側の椅子は窓があるのだから外から見えるが、見にくい位置の椅子があったため、そこに決定。駅舎の中は真っ白なライトが煌々と照っている。電気代がかかっていそうだ。このときはシュラフを持ってきておらず、下に敷くシートだけだった。嬉々として、それじゃ、おやすみ。ふだん駅の天井なんか、真下から見上げないから、天井に何か変なものがないか、急に気になって観察しだしたりした。
  着るものがもの足りなくてうすら寒かったが、建物の中だからどうもないと考えていた。それより両脚がそれぞれ外側に向いてしまい、不安定だ。仰向けでしか寝られない、硬い寝床ではよくあることだった。しかししだいに寒くなってきて、体温が上がってきているのを感じた。寝ている顔ながらも、難しい顔をしていた。
  でも疲れていたせいか、すぐに寝入ることはできた。

  女の声で、
 「ねえ、なんでこんなところで寝てるの?」
  と言うのが、顔の上で聞こえる。
  すると別の女が、
 「仕方ないじゃなーい。だって。」
  と応じたので、私はびっくりし、しまった、誰か来て自分が眺められている、と、がばっという音を心の中で聞きつつ、ハッ、と目を見開いた。 どこにいる、さっきしゃべっていた女たち、どこ? どこだ?! 室内に目を走らせる。しかしどこにもいない。しかも天井が変だ。寝たときと違う。そう、電気が消えている。 ただホームへの出入口あたりだけ蛍光灯がついていて、その光がわずかに待合室の奥まで差し込んでいた。そして向こうの下りホームの待合室だけは電気がついているのが見えた。また、気付くと、奥歯がカチカチカチカチ鳴るほど歯の根がまったく合わず、体が震えていた。このやり方で寝るには、気温が下がり過ぎたのだ。
  ともかく 「夢か…なんだ夢か、夢だよな。はぁ、でも、だめだ。ここにはもうおれなくなった。」
  ここはお昼や、灯りがついておれば、和やかなコミュニティハウスだが、消灯されると、夜の学校の小体育館に独りになった気がするようなところだった。自分で両腕を抱えながら、「いやな夢を見た。よほど気にしていたんだ。初めてだから仕方ない。しかし今ここで一晩過ごすより選択の余地はない。ともかくここを出て、ホームの待合室に行こう。まだ灯りがついている。いつか消えるかもしれないが、猶予のあるところの方がいい。一人掛け椅子しかないが、それでも構わない。」
  私は暗黒の跨線橋を独りで渡りながら、「だいたいここは北陸なんだからまだ気温は低いに決まってるじゃないか。それに家でだって自分は夜、毛布にくるまっていただろう。忘れたか。初夏の陽気にだまされたな。」 階段を降り、煌々と明かり照る、小さい虫の舞う待合室に、ほっとした表情で入って、戸を少しだけ、閉めた。「とにかくここで寝よう。寝ないと明日に差し障る。」 すると、突然待合室の灯りが落ちた。自分が入った瞬間に、電気が切れたのだ。「誰だ!」 身ぶるいが止まらず、頭の中が真っ白になった。そして自分が入ったのを誰かが見て、電気を消したんだと思い、口を閉じ、鼻呼吸荒く、目を丸くしながら震えつつ、待合室の中から辺りを見回した。しかしやがて、肚が冷え込むほど冷徹に、鋭い眼差しで待合室の中や、外の様相を見て分析できるようになった。すると、ホームの街灯も消えていて、どうも町の管轄である駅舎の電気が先に消えて、時間を違えて、JRの管轄の電気が消えたらしいのだった。それはそうだよな。誰が人を怖がらせるためにこんな面倒くさいことをするもんか。さあ、寝るぞ。電気が消えても、なおも虫は群がっていたが、しだいに沈静化していった。横になろうとするとき、最も怖かったが、横になると十数秒後には心も少しだけ落ち着いた。どうしたって真っ暗なんだから反って諦めもついた。また目も慣れてきて、外のほんのわずかな街灯の光が弱々しいながらも灯りとして捉えられるようになった。それに空間が狭いだけあって、駅舎より気休め程度には暖かい。しかしお尻ごとに分けてある椅子だから、やはり寝ると背中や足首が痛い。

  駅寝は大変だと思される。でも越えたい一線だとも感じつつあった。人から身を隠し、およそ誰も立ち入ろうなどと思わない漆黒の駅の闇に、自身を溶かし込む。溶かされてはだめで、この暗い中、魂の宿っているのをつねに進んで実感できる。明日は行こうと思ってなかなか行けなかった、念願ののと鉄道じゃないか。それによく思い返せば、宿屋は楽ではなかった。列車で来て、たいてい夜遅めに宿に入り、それから追い立てられるように家でやっているのと同じことをこなし、まだ眠い朝まだきに出て駅から列車に乗る。数回の経験して気付いたが、そういう使い方をするなら、宿は向いていなかった、もっとも、信念上、または土地柄ゆえ、それ以外の夜を越える方法が考えられない場合、宿しかないが。また、予定を立てていて、宿のないこの地点でとどまれれば楽に予定が立つのにと思う瞬間はたくさんあった。ただ今回の旅程では、隣駅七尾に宿もあるので、そうでもなく、駅寝の有用性は最初に挙げたものだけだった。それでも大きいが。

  待合室の背後に農道があったらしくて、軽トラックが走って来た。中が見えるのではないかと気に掛かったが、見えればそれまでの話だった。灯りがないんだから、見えても何か物体があるぐらいにしか見えなかっただろう。それより、こんな深夜に、誰か病気なのかと考えたりした。新聞にはまだまだ早かった。
  また向こうにある駅舎の前の道路に、一台自動車が停まり、こちらに来るかもしれないと怯えたが、自動販売機の音が響かせただけで、去っていった。ドライブ、かとも思うが、これはたぶん仕事関係だろうという感じがした。それにみんな旅行してるわけじゃないし。

  不快な目覚めをして腕時計を見ると4時になっていた。最後に見た時刻が2時台だったので、大きく見積もって2時間眠れたことになる。九州での経験上、2時間寝られればよいとわかっていたので、ほっとした。そして外を見ると、なんと、群青色になっているのだ。どれほど歓喜したことか。4時半起床の予定だったので、もう起きることにした。さっそく戸を引き、冷たい外に出て、空見上げ、ほら見ろ、朝が来た、なんて真剣に心の中で怒鳴った。とにかくスズメの鳴き声がやかましいほどだ。まあなんて忠実に早起きなんてしょう。この駅周辺で起きているのは雀と私だけだがな。獰猛な性質らしいながら、今日はうって変わって、何だか、いとおしいじゃないか。しかしこれで一夜乗り越えた。不快なほどうすら寒いが、日が出ればまた暑いぐらいになるさ。快適を求め、着替えを済まし、荷物下げて駅舎に向かった。さすがに周りの人家に足音の気を使う。しかしどの家も空き屋かと思うぐらい静かで暗い。しかし必ずや、家人が寝ているのだ。そう、見えるようになってわかったが、一面の田圃はなく、駅前は特に民家ばかりで、裏手は山林だった。待合室はその山林の間近であった。こんな寂しいところでよく寝られたよな、と驚くほどだが、それは、夜の帳の魔法のおかげだったのだろう。

  駅舎もまだ電気は点いておらず、ちょっと気味悪さを呈しているが、建物が新しいだけましであった。トイレは入ると自動で点いた。手に水を触れさせて出てくると、身勝手にも、いやあ、おはよう、という心境だ。まだ空は明るくないが、駅構内をぼんやり見たり、駅の周囲を観察したりした。

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