徳山駅―駅前
(山陽本線・とくやま) 2011年5月
徳山駅前に来てまず見たかったのは言わずもがなのアサヒビールのネオン広告だろう。これが徳山駅のすべてと言っても過言ではない。見かけとしては民衆駅の代表、みたいな顔をしている。しかし内部にもうほとんど店はなく、概観だけだ。
こんな巨大な商標広告が受け入れられていた時代は、もはや過ぎ去った。
徳山は初夏の薄曇りだったが、天気予報上は晴れになりそうな感じだ。けれど薄曇りも濃くなると、これは天気判断としても曇りである。けれど中国地方の有力諸都市を巡るこの魅力ある旅程はキチキチで、ここでもあまり時間が取っていなかったくらいだった。
駅前は昔懐かしいスタイルで、改修前の福山駅のロータリーに似ている。そういえば、以前は福山と徳山がよくごっちゃになったなぁと。どちらも都市の構造は似ている気がする。
歩いていると、いくつもある大きな木立が印象的だった。ここが完成してからの時間というものを、その姿そのものでよく物語ってくれている。
徳山駅といえば…
夜になったら見に来ようと思う
ずっと見たかった徳山駅駅舎の概観を集中的に視た。タイルから、駅名表示から…いろいろ写真を見ても、判然としなかったのだ。感想としては実にそつなく作られているだけだった。けれど不思議なもので、徳山駅の駅舎というのは、いつもそのイメージがうすぼんやりとしてしまう。アサヒビールの広告を取っ払ったら、これほどにまで思い出しづらい外観の駅ビルもまたとないだろう。そのせいで青いネオンの広告塔は余計に引き立って見えるし、ぼんやりした建物の外観を引き締めている。
何かただの目的使用物としての、下手したら消費財としての建築なのに拘り過ぎじゃないかと思うが、それは、実は日本における日本人の観光対象とは、実は戦後復興と高度経済成長だったというのが真相のように思える。そんなことに着目して日本を巡る外国人もいないかろう。
アーケードが走るいくつもの徳山駅前の商店街もまた見ものだった。アコム、レイク、武富士、モビットなど消費者金融の多さが目に付くが、そんなに使う人いるのかと…閉まってる店も多いけど、細々と町とともに生きている店もまだまだ多そうだった。町を生かすのは、店側というよりも使う人側の問題なのだろう。
商店街を巡って駅前に近づいてアサヒビールの広告が見えると安心した。共通して受け入れられるものがなくなっていく時代だが、駅というのは日本でも変わっていないようだ。我々もいつかは 車を捨てる時代が来るかもしれない。効率だけ追究したら、前しか見なくなった、駐められないところは見向きもしなくなった、駐められても歩かなきゃいけないところは避けるようになった、足萎えの人でなくても、そういう人は多い。
もしかしてクルマの最も正しい使い方というのは、スポーツカーに乗って高速を走るといったような、走りに徹することなのかもしれない。
そんなわけで長らく最も注目されているのは、パークアンドライドだろう。クルマにも乗れ、鉄道にも乗れ、歩くこともある。1960年代にできた徳山地下駐車場は地下道が水漏れし、地下信号機は焼け付きで、何か廃墟感が漂っていたが、基本的に頑張っている石造りは好きだ。
さ、駅ビルに上がってみよう。牡蠣色の壁タイルに臙脂色の床という60~70年代風のお化けのような階段を経てね2階へ。驚いたことに、そこは多くの徳山市民の集う、行政センターになっていた。
センターは母子が多く、この徳山で地に足をつけて生活している人々の姿が生々しく、僕には身につまされるものがあった。駅直結というのは便利だ。にしても…こんなふうに劣化に耐えきった駅ビルも最大限に活用されていて、少し感銘を受けた。もっと驚いたのは、図書コーナーでは男性たちが勉強したり、いろんな新聞を読んだりしていることだった。やはり山口だなぁと。明治維新後、今に至るまで支配者層を輩出しつづけただけはある。けれど租界としての巨大な岩国基地や、長きにわたって政治を独占しづけてきたことによる綻びがしばしば指摘されている。
3階は会議室や市の人が勤めてる感じの部屋があって、ちょっとお堅い感じだった。広い喫茶・軽食店があり、おばーさんが1人でコーヒー飲んで休憩していた。やはりこんなとこで食う割高なサンドイッチはうまいだろう。
僕はこの3階から駅前を眺めて、見納めとした。花時計と木立と、渦巻きみたいな地下駐車場の入口のあるスタイルは、今でもそんなに古いものではなかった。
4階もあるが、封鎖されている。かつては遊戯場だったそうだ。
明確な対比