徳山駅―夜の徳山駅

(山陽本線・とくやま) 2011年5月

青のネオンサインの街と青の時代

山向こうは長門の青海波にさめざめ照らされて…

 暗くなるのを待って、四辻から乗った。そう、もう東へと転じている。今回の山陽の旅は新山口が西限なのだ。これから少しずつ、1000キロ離れた家へに向かうことになる。
 徳山で下車。こんばんも岩徳線の駅で寝る予定なので、その前にここで降りて食糧調達、そしてあのネオンサインの光っているのを見る予定だった。
 
 地方都市らしい地方都市というのは夜が早く、20時近くになると人もガクンと減る。静かで清らかな夜だ。

1番線ホーム
3番線ホーム

 ホームから各ホテルのネオンサインを眺め、本当ならこういうところに泊まるんだろうなと思う。宿泊するほどの出張のある仕事というのは魅惑的だ。生活と旅が密接な気がする。もっとも宿泊中は明日のことで気が気でないかもしれない。しかしホテルのコモディティや円卓での獺祭が、きっと癒してくれるだろう。
 ところで、緊張する舞台に立つ前夜に泊まるホテルほど、記憶に残らないものもない…食事も喉を通りづらいし、元から舞台に向いた人やその心構えを愛している人でもなければ、続けることは無理だろう。
 仕事というのは、とりもなおさず経験を積めばおおむね多くの人が当たれるものだけど、だからこそそれは貴重なものなのだろう。誰かにしかできないことなんて、やる方も、それを見ているだけの側も、あまり充実した感じがしないというものさ。

 僕はぶらりとホームを散策し、鉄道の夜の空気に当たった。かつては夜汽車も珍しくはなかった。しかしそれが絶えた今でも、そこはかとなくそんな雰囲気が漂っている。
 端の方はぼんやり蛍光灯が点り、浮かび出た白破線が国鉄然とし、閑散とした人模様で、何人かが暗闇の中で椅子に座し、ずっと先の列車待っていた。もう今の人は夜汽車があったことすら、忘れているかもしれない。

改札口も閑散とし…
かつての栄誉は微塵もない

 お昼に歩いた駅前をこうして夜になっても歩いていると、なんだか出張でこの山陽地方をウロウロしているような気がした。日中は徳山、そして新山口と渡り歩いたのだからそう感じるのも無理もない。ここ徳山では人模様以外は何もかもそのままに、夜闇に包まれ、肩腕に降温を感じた。
 駅前町はどこの地方都市もそうであるように、居酒屋が多く、ちらほらと屋台も出ていてびっくりした。

 転勤、というのはどんな感じのものなのだろう。だいたい数年で渡り歩いて経験を積むというが、そうなるとやはり夜は居酒屋での一杯が無上の愉しみになるのかもしれない。銀座町の看板が眩しい。
 「おれ東京の本社にいたんだけど、突然こっち行けって言われちゃって…」
 「何かしでかしたの?」
 「いいや?」
 新しい地で営業を開拓しないといけないのを思うと、甘美な感情は消えた。けれどもそのとき離人症のように自分をふと俯瞰してみると、それはきっと甘美な物語なのだろう。 
 そういえば左遷というのは、古来中国よりそんなに悪いものとはみなされていない。菅原道真だって……
 いったい何がよくて、よくないか、ちょっとわからなくなる、そんな夜の街だった。

駅前
駅前にはこんな風に屋台がちょこちょこ出てました
徳山駅駅舎その1.
撮影泣かせのネオンサインでした

 そして満を持して、いちばん見やすいところ、バスターミナルから、あの徳山駅のアサヒビールのネオンサインを拝んだ。古いバスターミナルにはまだ多くの人が待って、しょっちゅうバスが入って来ていた。パンチパーマの網かご抱えたおばさんはその様子を撮っている私のことをモノ好きみたいな感じて見ていた。が、しかし、僕が夜にここに来ることはもう2度とないだろう。一見ひまそうに見える僕だって、そんなに時間があるわけでもないし、転勤でしばらく山陽地方にいるわけでもない。そう、何もかも全部絵空事、空想なのだ!
 そう、これはただの旅行だ! それが証拠に、僕はもうここへは来ない。ただ、ネオンはきれいには撮れなかった。あたりは駅前にもかかわらず暗めで、ただ青い青い、あのアサヒビールのネオンサインだけが、観音開きみたいに青を閉じたり開いたりして、何度も何度も駅前と、あのおばさんの顔を青く青く照らしていた。斬られて静脈血を吹き出したみたいに、青く青く…顎の薄い皮膚に透けて見える生意気で腺病質な少女の血管のように、青く青く…

タクシーが数限りなく集まっています
都会的…
地下駐車場
営業時間は午前7時から午後10時までと短い
今は9時台なのでもうすぐ閉業です
銀座1丁目
こんな幅広の横断歩道のある都市なんだな

 僕は完全にはそのネオンサインを写しの残すことはできなかった。ただ徳山の人は、少なくとも一度くらいはあの青い光を浴びたことだろう。そうして私の顔も青く青く、照らされていたのだった。

 得心しきった僕はしばらくバスターミナルに佇んで疲れをとった。関西や東京への夜行バスが止まるところで、それに乗れば僕は家にすぐに帰りつける、そんなバス乗り場だ。例のパンチパーマというよりかは天然の巻き毛の女人は、なかなかバスに乗らないなと思っていると、夜行に乗るようだ。夜な夜なあの青い光に間歇的に照らされながら夜行バスに乗り込むその様子はね何か深い事情でもありそうに見えるものだった。
 一人暮らしする息子に会いに行くのかも知れないし、親の世話をしに行くのかもしれない。インターンかもしれず、面接やもしれぬ。ただの旅行というのは、なんだかいなさそうだった。奇特な旅をしている自分が全部持って行っている、そんな気もする。

 その後、すこしだけ歩いた。闇に沈んだ大時代的なアーケードの商店街は無尽蔵にあり、然れども様々な居酒屋がサイン灯す…  横断歩道の上には自転車と歩行者の意匠の入った青い標識が灯り、その下の方は照明になってさらさらと赤い火が落ちていた。  ふと、都会的だな、と。  東京の下町ふうなところを夜に歩いたとき、何気ないサインがやけにお洒落に見えたことがあった。やがてそれは地方のさまざまな星や月明り、ランプなどの記憶をそれぞれが持ち寄って精一杯ここで表現しようとしたものだとわかり、地方の様々な人々の追憶を見た気がした。    ここ徳山もそうなのだろう。山向こうの長門からやって来て、ここに地歩を築いた人もいるかもしれない。あの青のネオンは、さめざめ青い青海波の長門の海かと、僕は思った。  ここ徳山は東京の地名が多いことで知られる。山口から東京に移った人も多く、そのUターンもあるから、双方を懐かしんでこんなことが起こったと想像を愉しんだ。いずれにせよ、山口というその歴史ゆえに、生みの親という感じもするから、どちらが先という話もないような気もする。往々にして時代の感性というのは一致しやすいものだ。

青の時代

 岩徳線で駅寝するときに食べるものをローソンで買い、最終までだいぶ時間があるので僕は駅ビルの2階に上がって、長い休憩に入ることにした。簡単な図書館と行政サービスなどが一体化した、古い駅ビルを活用したフロアだ。古めかしい階段を非常灯に照らされて上がると、そこにはお昼とは全く違う光景が繰り広げられていた。

 暖色灯の満ち溢れるそこは制服のまま高校生が集まり、静かに勉強していたのだ! もちろんただ列車を待っているらしき人もいる。彼女らはときおり隣の友達に静かに話し、問うたりしている。みな、おしなべてしずかに勉強している。参考書とノートを広げて、この忘れ去られた古いフロアでほとんどの人に気づかれることなく、家で集中できない事情を抱えながら、夜遅くまで勉学に精励していた。中には誰とも口を利かず黙々と書している女子や、難関大の赤本を広げてるいる男子もいる。
 僕は思わず、「これが山口か!」と。誇りと真面目さと、世間体と… 焦燥を背負いながら、気になる周りも気にしてはいられず、不乱の不動心を、僕は目のあたりにした。
 
 昔の日本はどこもこんな感じだったのかもしれないなぁ、と。しかし行き過ぎた管理教育と偏差値主義は崩壊し、90年代に消えたという。
 それでもいわゆる受験によく出てくるという型は、それを通過した人たちの間では青春の表象として、世代を越えて記憶に定着しているらしく、たとえ多少の教育の変化を含みつつも、違う世代との数少ない共通項として存在しているようだ。そう、それが縦令時代遅れな知識題としても、或いは解方としても…
 それでも型通りの問いや解方、成語が数を減らしつつも今も残っているのは、それがやはりある程度は必要だからだろう。

 僕は予備校に"監禁"されていたとき、"変な先輩"のことを思い出した。その先輩は寮に何年もいるヌシという噂で、ほんとは順番に務める部屋長を独占し、新入りの部屋仲間に今では問われないような古臭い問題を満載した謎テキスト(何度もコピーされてかなり読みづらくなっている)を渡し、それを解かせて添削してダメ出ししまくっているという、どうしようもない人のことだ。
 添削されてさっさと進学すべきはアンタだろうに、と誰もが心の中で突っ込んでいたが、その無精ひげで油ぎった頭髪という異様の風貌と、医学部を志望(死亡?)しているという立場故に、誰も何も言い出せなかった。彼が部屋長を独占しているのは、部屋仲間を選べるからだろう。
 
 僕が九都大に滑り込んで、就職もほどほどに出奔して旅に出てしまったのは、予備校時代から続く勉強に次ぐ勉強のせいだ。予備校もボロボロの建物だったし、九大もそんな感じで、何か建物というか権威というか、そんな亡霊にずっとつままれているような、そんな青春時代? だった。

 僕もこんな風に再び勉強して、もうちょっとマシな生活をしないといけないかもしれない。鉄道員にお目こぼしをしてもらうようなことでは…

 僕は都合2時間もそこでウトウトした。まるで夢見心地のようだった。高額な学費の塾の整った自習室や自分だけ集中できるの部屋を求めることもなく、こんな風に人知れずクリプトン球の明かりと青の駅前の夜景を前にしながら、カバンと筆箱を置いて、書を広げ、四方僅か数十センチは自分の落ち着く空間のように勉強しているのを見ると、彼らはどこでもやっていけるような気がして、僕もうかうかしていられなくなった。
 僕は予定通り、明後日、山陽を後にし、近畿へ帰るよ。だから明日はまだ旅だ。帰ったら、アレとアレとをしないと…そうして完全に今は旅だとモードを切り替えることができた。

 予備校時代や大学時代なんて忘れよう。現実社会と結びついた目標のない勉強なんて、ただの趣味だ。そういう目標は決して圧迫ではない。現実時間に自分をすっぽりと落とし込むための、一つの社会的ギミックなのだ。だから要は、貴方は社会に生きるのか、それともそうでないかということなのだ。別にどちらでもよい。どちらかを熱望したとしても、叶えられないこともある。そうなったら、それはそれ、それだけの話だ。

 僕は酔客が寿司折りを提げるみたいに、ローソンで買ったざる蕎麦を提げて、離れがたいあのフロアを離れ、のんびり気動車を待った。なぜなら今は旅の最中だからだ。僕の旅は標準とはだいぶかけ離れているが、充足感は半端ない。また彼らのことを思い出す。応援というのは、こういうことを言うのかもしれない。どこかで互いに影響を受け合っているのだ。

駅構内に入って

 山口の凄さを反芻しながら、ボロボロの気動車を待った。ポロいほど若々しいのは、なぜだろう? ハイティーンな鉄道旅行者がボロを追いかけるのは、そんな環境でも逞しく生活をこなせることの現れでもあり、その逞しさの無意識のアピールかもしれないし、或いは新しいNウォームま毛布よりも古い揺り籠といった、原緒的なものかもしれないし、本当は世代を越えて時代とその表象を共有したいという隠れた思いからかもしない。
 老爺ほど最新のプリウスと仕立てのスーツを愛す、けれどかなりイったオヤジだって旧車を愛す、愛したら愛したで懐古趣味とイわれる、けれどそう言われるのはたぶん誤りだろう。引き継ぐものと捨てる者がおり、価値観の軸がめいめい違っており、そうした総体として、複雑系の巨大な循環モデルはバランスとをとっているのであり、その巨大な洗濯渦の中でセレンディピティがあり、互いに影響を受け合い、矯正し、修正しているのだ。

 徳山からは東に僕は帰って行く。ちょうど駅寝しやすい駅の連なる岩徳線が、ここ徳山から岩国の間にまたがっている。もう三日もこの辺りをうろついているせいか、気動車に乗るとき僕は不審に思われている気もする。しかし仮にそうだったとしても、もう、帰るのだから。
 岩徳線の列車に乗るのは、もう色褪せた行動に思えた。繰り返し乗って降りて…今朝下りた周防花岡も、ただそのままに闇夜のうちに閉ざされているだけだ。時間が変われば、駅の人模様も変わる。自分が訪れたときとてもいい雰囲気でも、夜に列車で通りがかると、まったく別の様相を呈していることもある。