苫小牧駅
(室蘭本線・とまこまい) 2010年9月
夜の苫小牧駅
白老などの中堅の駅を経、苫小牧郊外へと入る。途中駅では女子高生の利用がしばしば見られた。こうして乗り通すと、森―長万部―東室蘭の区間とは違い、利用も旅というより気軽な感じだった。
19時半ごろ苫小牧に終着。さすが都市だけあって降りていった人も多く、人もホームにいなくはない。とにかく肌寒く、がくがく震える。寒流で海風が冷たいようだった。
ホームで待つ若い一人の女の子に、線路沿いの道路にいる男子グループが「がんばれよ!」声をかけている。
「おれもがんばったから!」
仲間内で、「お前はがんばってないだろ」。
「○○ならすぐ取れるよ」
その子もまんざらではなさそうに、愛(かな)しそうにあま酸っぱく微笑み、うなずく。
「また連絡するから。」
「え?」
「遊びに行くから。」
一人で自動車免許の合宿に行くようであった。
こんな青春があるものかと思う。与せなかったことを歯がゆく思うところまでさえいかない。そういうイメージが元からなかった。いったいあのグループの中にいる気持ちや、そこに立つ声援を受ける子の気持ちとは一体どんなものなのだろうか。仲間や友人とは一体何なのだろうか。
風はあたかも冬のように芯から冷たい。これがおれの期待した苫小牧か、と思った。救いになるはずのホテルのネオンサインがいくつか見えているが、宿泊はしないとかいう歪んだポリシーを既に持っていたため、今宵も寝る駅をこれから探していくことになる。寒くても駅なんかなくても暖かい思いのできるのを目の当たりにし、どうにも苦しい気持ちになってきていた。鉄道員すら彼らの味方をする。そんな私は仮構だと決めつける。そうして罪に非ざる孤独の罪を以って公衆の面前で非難を浴びつつ処刑されることを私は望んでいた。
この都市で文化の風を蚕食しつつ食糧を徴発するため橋上にあがると、少し気が楽になった。待ち客はずらりと座っている。夜の苫小牧をうろついたが、タクシーもホテルも、食べるところも十分だろう。本屋に立ち寄っていると、黙って網を巡らせはじめた。閉店である。こういうぶしつけらしさは北海道らしいところだなと思いつつ、すぐに離れる。中にはまだ客がいた。 しだいに居場所のなくなっていくのを感じつつ、もうそんな時間か、と、ロッテリアに入った。久々の高カロリー食なのを感じる。食べながら寝る駅を記憶と想像で絞っていく。「沼ノ端は新しくなってどうかわからない。美々か植苗かだが、利用者僅少で有名な美々はともかく、植苗なら何とかなるんじゃないか。」 しかし椅子は期待ではなかった。しかし実は、国縫みたいに一人掛けでも寝られないことはない。
店を出る。まもなく21時だから街は寝静まっている。その後自分の足取りが消えていくのを感じる。暗がりで並ぶタクシーの運転手は、生身のレコーダーだ。 宿泊とするという概念がないというのは恐ろしいものだな、と思う。つまりホテルというものが目の前にあっても、存在しないのだ。そういうとき私は街に、都市機能に、もといって社会システムに、それらよって疎外されたように感じないではなかった。 21時ごろ、札幌行きに乗る。この方面の終電、その一本前である。今行きもしないのに、苫小牧から普通列車で新千歳空港に直接行けないのは毎度ながら不便だなと思う。ホテルのネオン街を後にし、自分が狂人ではないかと疑いつつも、自分の決めた道を突き進む。