月ヶ瀬口駅

(関西本線・つきがせぐち) 2006年8月

夜の月ヶ瀬口駅

  伊賀上野でガラガラひどい音を立てて、交換待ちで停まっていた列車に入ると、夕刻にもかかわらず人は少なかった。座った目の前には、活動着を詰め込んだドラム型のエナメルバッグを床に置いた、ハーフパンツの男子高校生がねむるように静かに座っていた。車内の床は焦げ茶色で、ロングシートもくすんだ色で、窓にはカーテンが中途半端に閉じられている。そのカーテンの隙間から見える空は深い日暮れで、車内には薄暗い蛍光灯が灯っていた。
 「夏でも暮れはじめると早いな。もう8月だもんな。」
  気動車は折戸を畳んで山を縫っている。ときどき回転数を上げたり、落としたりで、ここからは見えない運転台で、人が考えて運転しているのが振動で全身に伝わってきていた。二つ先の月ヶ瀬口で降りたいと思っていた。が、この暗さではぎりぎりか、もう無理かという明るさだった。もうすぐ月ヶ瀬口に着く。どうしよう。迷う。
  ついに月ヶ瀬口に着いた。列車が停まってから心が決まって、私は2両目から急いで先頭のドアまで走った。運転士がこっち向いて待っている。さっきの上野の駅員と同じ、青と白のストライプのドレスシャツに白いズボンだった。きっぷを見せると、さっき別の駅で降りたときに私の切符を捌いたのだろうか、はい、と念を押すような、もしくは、はいはい、もうわかったよ、と極く微かに取れそうな応対をして、運転台に戻った。月ヶ瀬のホームに足を付けたときには、もうほとんど宵で、かろうじて空がなあんとなく青いぐらいだった。それで、「うわあ。」 半袖から突き出した腕をなでる風もひんやりしていた。灯りのともった気動車が去っていった。「今度また列車が、来るよね?」「来ないわけないだろう。終電じゃあるまいし。」「来る来る来る…」そう言い聞かせながら時刻表を見に、とりあえずぼんやり明るい駅舎に向う。厭な肌寒さを感じつつ読むと、やっぱりある。「まあ…これで何とかなるか…。」

奈良・天王寺・京都方面ホームにて、木津方。実際はもっと暗い。

駅舎内に侵入して。

やっぱり窓口はもう閉まっていた。長椅子が2つある。

京都方面ホームへの通路。

右下に夢絃峡への案内があったが、こんな夕闇で見ると百鬼夜行が思い浮かんだ。

月ヶ瀬口駅駅舎。寒冷地ではありえない造りだが、 ここの冬の寒さはかなりきびしい。

  ホームに戻った。あたりは、といってもかなり暗くてよくわからないがそれでも何とか空に明るみがあって見える。ともかくホームや線路はかなり高いところにあるらしくて、家々や、山々に囲まれたわずかな平地を高々と見下ろすようなところだった。そういえば日中に通ったとき、ここは気持ちよさそうなところだったっけ。

下りホーム入口付近にて。

下りホーム待合所。壁画がせめてもの救いだった。

ホームから見下ろした風景。

木津方面を望む。

天下の梅渓、月ヶ瀬梅林。この駅からはかなり遠い。ここは京都府だが、梅林は奈良県。

上りホーム待合所。

伊賀上野・亀山方面。近代らしさと堰堤の古さが同居している。

  扉なんかない東屋の風通しのよさを持った駅舎は、ちっとも駅舎らしくない。駅前に出ると自動販売機と電話ボックスだけが、薄暗くあかりをともしている。今日じゃない夏祭りの案内の看板が立てかけてあった。暗くて何とか判読できたが、読んでいる最中、寂寥感に襲われた。ひぐらしが二匹ほど、ひひ、と、かすかに鳴き、草の匂いとともに、小枝を折るような、みちっという、虫の鳴き声、動く音がした。木も叢も暗いが、いろんな生物がいっぱいに詰まっているようだった。

 

駅を前にして右手に入った様子。

独り寂しく燈る電話ボックス。

月ヶ瀬銘酒「月の寒梅」というのがあるそうだ。 この駅前商店は閉まっていたが、いつも営業しているのか不明。

駅前商店を左手にした駅前の様子。右手駅舎。 坂道のため店の前に段差ができているが、それが何となく観光地風(梅林は遠いが)。

あの坂を下っていくとホームから見えたか方の道に行きつく。

ここが駅前ロータリーとなっていた。路線バスもここまで入って来る。

駅への坂道。

すっかり暗くなった月ヶ瀬口駅。

月と月ヶ瀬口駅。

駅前の様子。

  駅前は二三の家がある。細い下り坂がゆるい輪を描き、さっき見下ろした平地に繋がっているらしかった。はじめ、よし下りていこう、と思い歩きはじめたが、まだ完全な夜ではないものの、山影は真っ暗で、やめた。「まあしかしなんと寂しいところだ。これは困った。」そう言って、ごまかす。

  早々(はやばや)と駅に舞い戻り、屋根なし跨線橋に上がった。駅にいると気分はすぐれた。月ヶ瀬口、か。非常に淋しい感じがするな。そういえば、月ヶ瀬村ではいやな事件があったな。月は偶然にもくまなく出ていて、「月夜の月ヶ瀬口駅って、いいんじゃない」なんて、山あいの真っただ中の小高い駅にいながら思ってみる。
  しかし、残光は消え失せていて、もうすっかり夜になっていた。
  まったく知らない、初めて来た山の無人駅に、気付けば一人自分だけが立っていた。下方をたまに走る自動車のテールライトの赤黒かった。
 「初めてにしては冒険しすぎたのかな…。」
  割れるようなバイクの音が響き渡った。そのとたん自分がとんでもないことをしているのではないかと思え、さっと屈んで急いで時刻表を取り出し、上り下りどっちが早く着くんだ、遠回りでもいい、とにかく先に来た方に乗ろう! と跨線橋の足元の灯りを頼りにページをばさばさ繰った。
  幸い、遠回りではない上りが先に着くことになっていた。やっぱり夜の駅に降り立つなんて、変なことはしない方がいいな、と安心からもくるため息をついた。

 

跨線橋にて伊賀上野方面を望む。

 

上りホームの後ろ側。

 

跨線橋を下りて通路から見た駅舎。

 

 

駅名標。

月がはっきり出ていた。

亀山・鳥羽・名古屋方面だとある。こんなところで鳥羽といわれると夢広がる。

上りホームから見下ろした家々の様子。

 

なぜか清酒の看板があんなところで燈っていた。 飲み屋でもあるのだろうか。なさそうだが。

  見下ろす家々は明かりも漏れず、静まっている。さまざまな虫の音だけが、緑の臭さを含むむっと生ぬるい風に混ざって聞こえてきていた。ふっと、縁側の明るく燈った伊賀の田舎屋が思い浮かんだ。その縁側では、俗になりすぎない程に夏の風物詩の意匠があり、いやな中年女性の親戚が居座っている。その家の息子らしい、休暇中の大学生がその女に見つからぬように出かけようとすると、
 「どこへ行くの?」 素直とも、疑惑とも取れない口調の声が唐突に上がった。 彼は足を止めて口を閉じて少し鼻から息を出した。それからにこやかに振り向いて、
 「関西本線に乗ってきます。」
 「関西本線?   すぐ近くじゃない。」
 「そうなんです。」
 「どこへ行くの。」
  彼女は変に笑んでいる。何ともなさそうに、
 「駅です。」と答えると、
 「駅?」
  彼女はそう聞き返すように言ってからしばらくして、いやらしく笑った。 何か旅の感性に目覚めたみたいね、そう一人合点がいったようだった。 彼が立ち去り、門から出るころ、
 「駅へ行くんだってさあ」と彼女が後ろ向けて家の中に軽く嘲笑気味にしゃべっているのが聞こえて、彼は少なからず冗談混じりの殺意を覚えた。

  幾つかの駅に降り立ってみたが、つい調子に乗ってしまい最後は降りたとたん日が暮れ、月ヶ瀬口という、山々に囲われた中に浮かぶ大堰堤の駅で、夜を迎えた。あんな厭らしい縁側にさえ、帰りたくなる、旅とは何ともなさそうに家を離れて、怖い目にあって、何ともなかったように家に帰るというものなのだ、などと彼は思った。

  ─そういう物語が浮かんだ。この暗闇の集落の中のどこかに、そんな縁側があるのでないか。そんな「彼」がいるのではないか。都会の風を浴びて感化されて帰る「彼」、いっぽう、できるだけ素の体で蔑んだ家に帰らねばならない「彼」、そういう人が、この伊賀に、この夏も帰っているかもしれない。

  もっといえば、私の入ってもいい、そんな縁側が、あったらよいなと思った。実際にはそんなものは、どこにもないが。

木津・奈良方面。

駅舎、跨線橋、通路。

  腕時計をしょっちゅう見ている。半袖の産毛の腕も冷えてきた。まだか、まだか…。時刻通り気動車は来た。しかし乗車口に私は立っていなかった。乗車口に立つのが遅れると乗らないと思われるかもしれないと、動いている列車に沿って走りだして、やっと一両目の後ろのドアに行きついた。しかしなかなか開かない。このまま行ったらどうしようかと恐々とした。

  ドアが開く。すると招き入れられるようでほっとした。中に入ると灯りともす列車は山の闇夜に浮かび上がっていた。それは大堰堤に停まっているせいもあったかもしれなかった。座席に無造作に着くと、私は寝てしまおうとした。

伊賀上野にて。

 

  列車は伊賀上野どまりだった。上野に着き、乗り継ぎがあるかと思いホームに降り立ったら、やはりあるわけないようで、結局折り返して加茂行きとなる、今乗って来た列車に再び乗ることになった。月ヶ瀬口を再び通って帰ることになった。
  いろいろなことを含めて、無駄なことになった、と思った。冒険の終わりなんてこんなものか。つまらなさと、ほっとしたことで、頭が、ぼうっとする。だけれども、この先にあったものは見飽きた光の喧騒だった。夜の山の中で気動車で遊んだのがすでに懐かしく、貴重で、思い出になったようで、表情が緩んだ。

関西本線1 : おわり