通津駅
(山陽本線・つづ) 2011年5月
天気のいいお昼の岩国から、ボロボロの電車に乗って西を目指した。まちも風景もどんどん鄙びて、西じみて、西へ西へと落ち延びていく感じだった。太陽はイタリアのように明るく、しかし罅割れた日のかけらが燦々と降り注ぐ、爛熟しきった解放感があった。
列車は、老体たるモーターに鞭打つように全速力で駆け抜け、しかし特急の飛ばすような小駅にもしっかりと停車した。やがて乱暴な走行音のさなか、
「ツギハ…ツヅ…ツヅ デス!」
次か、と身構える。おれは通津駅に降りに来たんだ。ただ降りるためだ。ちょっと、恥ずかしい。でも、そのためだけにいまおれは降りようとしている。どうか、なぜここで降りるかを車掌は詮索してないでほしい。彼はなんと想定するだろうか? バイト帰りの大学生? いや、地元山陽地方のささやかな大学に行っていたが、いとも簡単にやめてしまって、親と住むのも肩身が狭く、岩国でバイトをし始めたけど、思いのほか仕事はなく。早くに上がることになってしまい、これから通津駅の近くの最寄りの実家に帰るのだ、そんなふうに想定するだろうか。それとも、酔狂な旅行者? そうだ! その通りだ。山陽の小さく美しい海の近い駅を一つ一つ下りる、贅沢な旅行者さ。車掌は「いいなぁ」と思うだろう。いや、全然よくない。もはやこっちは何かに取り憑かれたようになってるんだから。
列車は乱暴に走り去った。遠くに消えゆく最後尾で、車掌はこちらに向き直る。こうして私は彼らとは別れ去った。
緑の屋根の変わった小駅が私を波音とともにいざなってくれている。木造の改札口にはお昼だというのに蛍光灯が一つだけ灯り、改札は昼休みのようだった。
私は汽車時代ふうの長大なプラット・ホームを味わった後、跨線橋に上がり、海と集落を見渡す。夏にこんなところにポロリと降りたのが唯一の海の思い出だとしたら、チョット不満だろう。せいぜいうっかりここを選んでしまったとしたら、お父さんは「ちぇっ、シケたところだなぁ」と舌打ちしつつ、とりあえずビールを開けて、つまみを食らって、夜には民宿の畳の部屋でテレビをつけ、地方のコマーシャルを鑑賞するしかなさそうだ。
けれど彼はその一か月後、帰り着いた地元で秋風に煽られ、
「なんだかんだいってあそこよかったよなぁ!」
と言うのだ。そうに決まっている。不満も不平も、実は思い出と愛情だ。高級ホテルだけが人生だとはとても思えない。でもきっと彼は次は信州の高いホテルを選ぶのだろう。それもまた人生である。なぜなら人生はたいてい選択できるのだから。
そんな想像の話は置いておこう。別にここは海水浴場があるわけでもない。ただ、ここより岩国側にある通津美ヶ浦は干潟で美しいところだ。
今着まだ初夏。シーズンにはまだほど遠いが、さわやかな吊架と新緑のにおいが鼻の襞をくすぐり、僕に冷たいヨーグルトアイスをずっと味わわせてくれているかのようだった。
暗がりの駅舎内は商店を営んでいるばあちゃんちみたないな感じで、涼やかだった。外はまるで長い眠りから光が目覚めたかのように乱反射している。改札口から見えるホームは山肌の擁壁で、毎年の蝉の声か染み入っていそうだった。声の波長が、やがては構造物を揺るがすこともあるだろうか。我々はいつかは分解され、もう二度と、同じには合成されえない。
小さな木造舎と分かれ、歩き旅をはじめるが、昭和なタクシー会社を経るとすぐに国道2号に出る。この辺りは漁港で、先ほど触れたように、海岸なら東へ戻る感じだ。
途中、ベトナム人の一行とすれ違った。近くには工場があり、近くにみんなで住んでいるのだろう。意外とここは故郷の風土に近いかもしれない。
岩国で昼食を取り損ねたこともあって、近くのスーパーまで歩いて、食糧を調達。さすが海辺とあって、魚介は豊富だ。高速道が発達しても、この点だけはどうにもならないようである。
涼やかな駅舎内でひとときの休息。貨物が通過するたびに大きな電子音が鳴り、黄色い幕が灯る。山陽だなぁ…
数々の駅がある中で、僕は今この駅でぽつねんとしている。五月の平日は、誰も旅人が来ない。みんな仕事に勤しんでいる様子が目に浮かぶが、東京で忙しく働くことも、もはやこんな旅と対比されるような魅力あるものとも言えなくなってきている。花金といわれ、仕事を終わらせた金曜の晩には寝台車に乗って旅に出る、そんなことももうありえないことになった。
では一体何を思い浮かべればよいのだろうか? それは…ただ、いずれにせよ、今の僕にはこの場所が与えられ、生かされ、僕はこの中で、旅と人生をもう一度組み直す、緩やかなす時間を与えられている。そういうことなのだと思う。