植苗駅
(千歳線・うえなえ) 2010年9月
朝というのは不思議なもので、すべてのものを浄化してしまう。夜の虫や森のうごめきはいつしか収まり、かわって鳥が高らかに鳴きしきる。朝日がきれいでまぶしくって、木々の葉末はみずみずしくも滴を湛える。あれほど不衛生に思えた駅も、消毒されるようになぜか思える。人は直感的に太陽光による殺菌作用を知っているとでもいうのであろうか。
「こんなにこの駅って爽やかだったっけ」
昨晩は温度も湿度も高かったせいもあるだろう。
ともかく、もう道東への旅行など続行不能かと思っていたが、いなむしろ、それどころかまだまだこれから、と言われているようだし、何よりも朝日を見て、昨晩のことはすっかり忘れてしまった、つまり、もう、前しか見えないのだ。そこには振り返ることを知らない、青春があった。
踏みしめる土の素朴さが清潔に捉えられて不思議だった。夜に来て何もなかったことに内心恨み、蔑んでさえいたくらいだというのに! そう、北海道には北海道の過ごし方があるのだ。夜にいくら何でもこんなところで寝るもんじゃない。みんな丈夫な二重窓の家で過ごしているじゃない?
辺りは何もないといっても、本当にそうなのだが、それを表現するのが却って難しい。歩いたとしても何もないのだが、とにかくホームから見渡す原野の名残のような風景に旅人は感嘆せずにはいらない。じつはこの新千歳空港の近くは意外に穴場である。なるほど植苗とはよく言ったものだ、遮るもののない一大耕作地になっている。そこに朝日が輝きつつ、くゆらいで昇って、空気を光らしている。こんなところでは何を支えに、標(しるべ)にして生きていけばいいのかわからないが、何か熱い文学を打ち立てるようにと試されている気もする。がちがち震えるほど手が冷たい。しかし日中には暑くなりさえするのが直感でわかる。
今日はとある天気な日、駅前広場の土くれ踏んでなんとなく駅に向かって歩いてくる子を思い浮かべる。その辺の牧場も何も珍しいと感得せぬ、また、都市郊外の恵庭などではなく、こんな外れであっても何とも思わない、そんな子を。
凍れる日は凍らぬよう対処する、天気の良い日はこんなふうに運動靴で歩く、そんなつまらない子の魅力を探し当てようとする私。
植苗という開拓らしい地の名も、倭人のような、そうでないような微妙な感じだった。そこから何か生まれそうで、依然不活性の状態、私は今ここに漂う霧のその生成の瞬間のような、精妙な現象を見んとしているかのようだった。
もしかすると、北海道というのはそういうものなのかもしれない。そうしてまだ見ぬ道東の文化に期待を寄せる。
朝日とともに初めて植苗というところが私を迎えてくれたような気がしつつ、札幌の通勤列車に乗る。跨線橋のクモを思い出し、ここも私も忘れ去られた感があるのでないかと危惧する。電車だが、デッキがあり、クロスシートで距離も走るからやはり汽車らしい感じだった。