浦安駅

(山陰本線・うらやす) 2012年7月

早朝の改札前。なにか呉線にありそうな感じ。
ここは間口二つ分の改札。
鳥取方。
 
 
 
変圧設備。直流電化であることがわかる。普通列車は気動車が来るけど。
 
 
静かな時間だった。
 
 
 
 
右トイレ。
 
 
 
八橋。米子方。
 
 
由良方に見た駅構内。
中国地方という感じ。
小手荷物運搬通路っぽい。
 
 
米子方。
駅裏の敷地はかなり広い。
3番線は廃止されている。
 
 
 
線内でも準主要駅の風格。
 
なんかほんと呉線ありそう。
 
駅裏。
 
鳥取方。次の駅はコナン駅の由良。
 
 
駅前がおもしろそう。
米子方に見た駅構内。我々が進む方向はこちらだ。
 
 
 
もと鉄道構内のせいでちょっと不思議な光景となっている。
 
 
 
 
 
うらめし、ではありません。
駅舎内にて。
典型的山陰線内の駅。 期待に反しない風景。
出改札。
 
 
 
静寂。
 
 
 
この扉はめったに閉められないだろう。 しかしよく考えると改札にも引き戸があるので、 西日本にしてはめずらしく駅舎内を戸じまれる仕様になっている。 (東日本ではふつう)
 
車寄せ。
よいですね。
 
駅前ビル。
 
浦安駅駅舎その1.
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民営化のころそのまま。
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陸橋入口。建物は「まなびタウンとうはく」。
なにか懐かしささえ感じる。
生涯学習センターだそうだ。ホテルかと思った。
 
敷地はとにかく広い。
 
 
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喫茶店梨花。
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駅前通り。
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駅前通りを歩いて。
朝パンを買うによさそう。
自販機がすごい。
駅方。
まっすぐ行けば海。
 
脇道。
まるで駅舎のよう。徳万公民館。
並木がきれいだった。
 
売地だそうです。
 
 
なんとなしだがかつては割合賑わっていた様子がうかがえる。
 
 
戦前の工場かな。
 
 
 
 
 
8.
日本海新聞て北陸だけかと思った。
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陸橋にて。
 
 
米子方。
鳥取方。にしても…裏手の旧鉄道用地はかなり広かったんだね。 これは主要駅レベルだろう。
駐輪場。
裏手のロータリー。
裏手一帯はなしの選果場となっていた。 とうぜん貨物輸送もかつてはしたわけで。
今は駐車場となっている。
 
 
鳥取と言えば20世紀なし。
 
 
 
 
 
なんか旧線跡みたい。
 
 
 
表にて。
 
駅庭。
1965年に整備したようだ。
 
 
 

八橋から

 ホームのだけのような築堤の駅には、日常であるようなぼんやり群青の夏の朝の空気がりーんと覆っている。静かに佇立せる私。潮風だけでなく、もう草の匂いもしてきていた。けれど鉄の塊の大きな顔面がライト灯して転がってくると、何かとんでもなくとくべつな朝に思えた。
 それはここの人の旅立ちかもしれなく、そう鳥取までの山陰線内でも大旅行に思えるというような、それと同時に、自分の或る旅の中のなにか貴重な朝でもあった。

運転士が運転台に向き直ったと同時に、空気音とともにドアが閉まる。赤い朝日と草原を窓に戴きながら、のったりのたり、おもい鉄の塊を転がしていく。
 現代というのは実は重量感を失った時代ともいえる。重力からの旅立ちの前夜なのであろうか。
 荷物の重さ、夏の猛暑、鉄塊たる気動車、轟音の冷房…。頭の中は時刻のデジタル数字が次々と変わっていく。
 男声肉声で「うらやす! ………うらやす、です!」(ガチャッ)
 男性ばかりの時代を少し思い出す。
 早朝にひと駅だけで降りるのはへんだが、「地名は海辺にふさわしいな」と同時に「ミッキーは?」などと思いながらホームに降り立った。
 朝いちの列車は送り込みも兼ねて気動車をいくつもつないでいて、轟音の脇ですぐ車掌か添乗がきっぷを求めてきた。恰幅のいい四十代で、気動車を動かすのに向いてそうだった。一瞥をくれてそのまますぐ列車は発車、もう日が昇りはじめている。

 あの車掌はこれから非番かそれともこれからなのか…こうして夏でも天気でも山陰線に列車を走らせているのか…しかし…自分は海や駅への想いが爆発しそうになっていて、なにかまた今日一日夢中になりはじめていた。駅は山陰というより、中国地方ふうだ。

 白いうろこ張りが鉄粉ですすけて、かすかにインバータの鳴る蛍光灯管が朝のしじまを彩る。
 たとえようのない静けさが中堅規模の構内を支配している。6時や7時ともなれば、学生らがどっと押し寄せるぞ、というような。
 裏手が梨の広い選果場で、容易に過去を推測できた。蓋し旧ヤードはそうとう広く、主要駅レベルだろう。こんな駅が今は眠りについているのかと思い、何か発掘した気分だった。今は駅としては山陰線のとある木造駅となっている。

 呉線にこんな感じの改札の駅あったよな、と思い出しながらラッチを出ると、間口から広々としたコンクリート舗装の駅前広場が見えていて、まさかこんな大きな駅だったのか、と。まるでむかしのどこかの市駅のようだ。これだけのものなのに、人も車も動いていないのはもちろん早朝だからだが、白昼でもさして変わらぬと思えた。よくこのまま息づいていたな、と感心しつつ、振り返ると、私の背にはあの臙脂色の石州瓦の駅が待ってくれていた。駅名の横に水色のラインがあって、海水浴の印象とマッチしていた。「これは…おそらく戦前の賑わいの敷地の取り方をそのまま変えずに…」。いや、それよりもっと前、山陰線全通前かもしれない。

 メインストリートを歩くと、かつては小さな商店がもうすこし犇めいたことが想像される。やぁ、○○さん、最近どうだい? と声を掛け合たような…。まっすぐ平らな道の先は海で、茫洋とした霞だ。
 深く考えるには山陰地方史を紐解かねばなるまい。もっといえば人々の気質も関係している可能性もある。浦安、八橋、大山口…線区には小駅ながら立派な設備を持つ駅が少なくないが、はたしてどれくらい活用されたのだろうか。浜村のように歌や伝説となって語り継がれているのは、わかりやすい方だろう。
 いずれにせよ、或る夏の朝にたどり着いた私の眼前には、地の名のように殷賑の浦は安らかに眠りにつくのみだった。