宇都井駅―夜の宇都井駅
(三江線・うづい) 2011年7月
暗くなってから最終の浜原行に、式敷駅から乗った。最終といっても八時台である。車内の客は県境である香淀までで全員降り切った。学生の利用が数名あった。作木口からは島根県となる。ただ、江の川を挟んで右岸はすぐ広島県だ。
トンネル内を轟音を立てて走り飛ばす軽量な気動車に夜半、独りで乗っていると、だんたん怖くなってきた。國境出てすぐの作木口はとっぶりと暗く、闇が一層深いようだった。
江平、口羽、伊賀和志と停車していくが、駅を一つ過ぎるごとに、恐怖が増した。よりによって宇都井駅で降りるのだ。周りの風景からすると、突拍子もない高架駅である。
縮こまっていると、トンネルを抜けて高架を走りはじめたのが分かった。なんとなく音が静かで浮遊感があるのだ。たぶん振動から、足元に十分な土がないことが人間はわかるのだろう。
「うづいです」
の女声の放送を聞いて、降りる準備をする。ここで降りないと、三江線全駅来訪の予定は成立しない。隣の駅であってはだめなのである。
車内での改札を経て下車。嗚呼、この駅の近くに親しい親戚の家でもあれ物語になるのになぁ。しかしそう都合のよい話はない。だから創作するか、旅に徹するしかない。
きっとその家というのは、入ったらすぐ土間で、そして居間には囲炉裏が切ってあって、けれど夏だからそこは冷たい灰で、床は城に使ってあるみたいな分厚い板材でひんやり冷たく、ちょうど今頃は初めて文明の利器という李以蔵子が来たんだ樋ばかりに、空間に馴染まない形で冷蔵庫が置いてあるのだ。夏の夜は網戸だけで窓は開けっ放しで、蚊帳が吊ってあるに相違ない。

けれど現実は、暗くてなんたがよくわからない田舎の高架の無人駅にただ一人で、夜になってもなかなか降温しない熱帯夜の中、戦々恐々彷徨い歩くだけだ。
高架からは三角形の谷に点在する明かりが見えた。それは幽玄なLEDで、駅に降りた者を歓迎するものかと思ったが、何度も凝視した結果、それは単に外灯がそれっぽくたまたま並んだだけのものであると私は結論付けた。
ようはそれくらい画になるような集落なのだろう。にしても…歓迎の明かりではないとほかったとたん、急にこんなとある集落に降り立ったことに怖さを覚えた。
そもそも、あんなただの外灯の群れを歓迎の明かりなどと思うこと自体、もうすでに異常に心理だったのかもしれない。それは遭難者が、まったく無関係なものを救助だと錯覚する心理に近いように思えた。
何かたいそうなように思われるが、夏の夜の中国山地真っ只中、谷のこんな高いところにとどまっているのはありえないことで、それが異常な心理状態を催せしめたようである。しかも終列車で、全く見知らぬ地だ。


動画を撮るなんてこの当時は夢のまた夢の世界だった
メモリーカードの容量一気に食うので…

さて、高架上も明かりで照らされている範囲は十分探索したので、引き戸を引いて、中に入ろう。少しばかりの待合スペースを残して、あとは長い長い階段である。透明なガラスの入った引き戸はしっかりと閉じられている。虫が入ってくるから頼むから閉めておいてくれとのことだ。
そして、思い切って引き戸を引く。その瞬間、
「ダメだ! この駅では寝られない! ここはハズレだ!」
と心の中で叫んだ。
「ダメだダメだ、別を探さないといけない! 集落にバス停はないか。何か物置のようなものの犬走とか、そういうとこでもいいかもしれない!」
どうしてか、というと…ものすごい熱気なのだ! そして虫、虫、虫! なんか熱帯の哨塔の中のようである。
「こんなところで寝たら体じゅう虫だらけになるぞ、どうする?」
長椅子を眺めながら、しばらく考えた。座面はきれいだ。座布団もあり、時計、駅ノート、子供たちの書いた絵地図や案内もあり、人心地はする。しかし、この熱帯地方のような空気と虫たちの前では、ここで寝られるとの判断をすぐには下せなかった。引き戸を引いてみようと思った。虫が入るから戸を閉めておいてくれと書いてあるが、すでに蚊は入りまくりだ。こわごわ引き戸を引くと、少し涼しくなった。熱帯夜の人の空気ですら、涼しく感じられるのだ。入ってくる虫は多少増えた。しかし、仕方ない。
「夜間は消灯するだろう。それから本格的に引き戸を開ければ、ここでも寝られるかもしれない。」
飛び交う蚊の群れの中で、首元を手で払いながら、一人考えた。

ここは寝られるような駅ではない、と

座布団、時計、駅ノート、観光地図は定番ですね

そりゃこのどえらい湿度ではそうもなるだろう
とにかく、下まで降りてみよう。消灯してからではできなくなる。
そして階段を降りようとしたそのときだった。ドッダダダダダッ! と音を立てて、おっきなネズミが飛び出した! 心臓の凍り付いて、凝然とする。
「やっばりここでは無理だ! 下まで行ってどこか探そう!」
落ち着きを取り戻して、初めの踊りまで移動したそのときだ、ドッサバサバサバサバサッと音を立てて、二羽のハトが飛び出した!
なんなんなんなんだここは! そうか!」と。ここは夜間、野生動物ののねぐらになっていたのだ! ますますこんなとこじゃ寝れないじゃん…
階段室のコンクリートは新しい感じだった。けれどところとごろ剥落して、手すりの意匠も古く、本当はだいぶ古いんだなぁと思った。ため息つきながら、脚をガクガクいわせつつ、逃げるように階段を駆け降りていった。頭上に何か動物かおっかぶさってきても何時でもはねのけられるように、頭をかがめて、手をで庇いながら、降り切った。


いったい何段あったのだろうか。自分には長い長い階段だった。外に転げ落ちるように出ると、あたりは涼しかった。外には何もなく、ただの高架下で、ひとこごちするものは皆無だった。自販機すらない。絶望した。降りてきた建物を見ると、5階建てくらいの団地の、階段部分だけみたいな感じだった。
とにかくあたりは暗い。トイレや水場を探すとあるにはあったが、真っ暗で利用できず。スイッチもない。あぁ水汲んどいてよかったと。トイレに入れないので、その辺で用を足した。しょうがない。しかし手は洗いたい。ペットに汲んできた水を使うとしよう。朝はどうする? 起きなきゃいけない時間はまだ暗い。消灯もしてるぞ。ということは明日はホームで手洗いするしかないな。しょうがない。
「そういうのはモラルに反すると思うのだがね。」
「じゃあどうするんだよ! カピバラとか野ネズミとか、ハトとかが棲みついてるあそこで寝なきゃいけないんだぞ! おまけに熱帯地方みたいになってて、蚊の培養室みたいになってるあそこで寝るんだぞ! そんなところで寝て起きて、階段室を、真っ暗な階段室を下りていくとかできるわけねーだろ!」
「駅で寝ることがそもそも間違いなのじゃないかね」
「だからこの旅そのものがすでにアン・モラルなんだよ。定義そのものがそうなんだ。仕様がそうなんだから仕方ないだろ。」
そういうや否や急にイライラしてきて、ふいに相手の側頭部を思いっきり殴りつけた。
いいのだ。所詮、この世は暴力の支配する世界だ。それが巧妙に見えない形になっているだけだ。マスコミから政府から、警察まで、揃いも揃ってそうなっている。何が法だ、法を肩に暴力をふるいつづけているだけである。


とはいえ…ほか寝るところないかなと探す。ちょっと集落を歩いてみた。なにせ石見の民家というのは、どこも伝統的で美しく、それこそ夜に見たらその古民家を利用して民泊でも営んでいるのかと見えるほどなので、どこもよそからの人を受け入れるように見えてしまう。それくらい石見はゆるやかなところだということだが、ダメだ! これはもはやちょっとおかしい人の思考である。よく見てみろ、と。あくまで個人宅の玄関であり、ちゃんと表札がかかっている。そう、そんな都合の良いことがあるわけないのだ。ここは遍路道でもない。とにかく、無駄なものは何もなく、この辺はしっかりしてるなと。というか、天空の駅とか、三江線とか騒いで有名になっていると思い込んでいるのは、あくまでその界隈だけじゃないのか? それをあたかも全国的にこんな時間でも訪れてよく歓迎もされると考えるのはどうかしている。


何が欲しかったのか? 自販機、かな… いや湧き水でもいい。とにかく、喉が渇くのだ。500mlのペットボトルがいくつあっても足りないくらいだった。
駅の階段入口をよく見る。寝られそうなところはどこにもない。やはりベストは、あの最上階の長いすだろう。
激しい虫の鳴き声の中、蚊の飛び交う中を突っ切り、階段を上りはじめる。さっき降りてきたときよりも気持ちは落ち着いていた。不思議なことに、もう動物の逃げ出す音はしなかった。たぶんさっきので全部逃げたんだろう。

上がりきって、むわんとした熱帯室に戻ってきた。にしても…直方体の建物でコンクリート造りとなるとその最上階の蓄熱のたまり方は半端ない。もはや凄惨ともいうべきだろう。各踊り場は窓ではなく、柵と金網だったから風は入るはずなのだが、やはりこれは日中の蓄熱と考えなければならないだろう。
仕方なく寝支度をはじめるが、その瞬間、また、ここで寝るのをやめようかと思いはじめた。どう考えても暑すぎる。それから虫が凄い。寝るにあたっては消して衛生的とはいいがたい。シュラフにもぐり込んでしまえば気にならものなのだが、この暑さでそんなことしたら死んでしまうだろう。シュラフに脚から腰まで突っ込んで、椅子に腰かけたままうつらうつらすることも考えた。しかしそれは暑いだけだし、やがて消灯も迎える。はたして正気で座っていられるだろうか? 疲れもとれず、明日の旅程もこなせそうにない。シートを敷いても、ホームは苔の生えたアスファルトでダメだ。それに大概はムカデやアリなどが寄ってくる。
待合室で呆然と佇立しつつ考え、引き戸を少しばかし開けた。少しだけ空気が入れ替わって、どうにか寝れるかなと思った。
時刻はまだ八時台。けれどもやることもないし、寝るしかない。
シュラフに体を入れると、やはり急に周りのことが気にならなくなった。駅寝でシュラフは必須アイテムだ。

ごろんと横になった。この瞬間はいつも幸福だ。蚊さえ寄って来なければの話だ。寝転んで数分とたたずに何匹もの蚊が襲い掛かってくる。しかしシュラフをかぶると暑くて仕方ない。何度も何度も払いのけながら、消灯を待つ。消灯すれば、虫も多少ましになるだろうと。引き戸ももっと大きく開けられる。はっきりいって、蚊取り線香は必須である。でないと拷問でしかない。
多少は蚊に食われるのを許した。もうどうしようもなかった。それでも蚊が止まっているのをほっておくのは気持ち悪いことだ。
顔を横向けて寝ていると、ふと、消灯していることに気が付いた。真っ暗の中、多少開けられた引き戸からは谷全体の虫の鳴き音が響き入り、蚊も少しは落ち着いたように思えた。自分の前の空間は、誰も知らない宇都井駅かもしれなかった。ただ自分の身体だけが、この駅にあり、そしてこの中国山地のまっただ中にあり、旅しながら、駅を渡り歩きいている、そういう自分だけがこの空間にいた。虫たちとともに暮らす、とか、そんなことは言わない。そう、この蚊さえいなければ、どれだけか快適だったことだろう。
引き戸をもう少し大きく開いた。電気も消えているし、これで大きな蛾も入ってこないだろう。そしてシュラフから脚を投げ出した。もう暑くて我慢ならなかった。
喉が渇くと、少なくなってぬるくなったコーラを飲んだ。なくなったら寝ながらカバンから水道水を汲んだペットから水分補給した。そういう文化的なことをしないと精神がもたなかった。
脚を投げ出しても蚊が来ないなと。これはよかったと、そのままにして寝た。しかしそれはただ、脚というのは蚊が止まっても気づきにくいというだけのことだったのだ。そして翌朝、地獄を見ることになる。
最終から45分くらいして消灯した。
夜九時とあって全然眠られない。疲れているが、疲れすぎて眠れないのだ。食事の量も運動量に比しては無に等しい。ただただ、体がずっと起き続けているような状態。蚊は首元にしきりにやって来て、手で払いのけるという運動を私に延々とさせつづけた。それだけでももう気が狂いそうになる。ほんとに蚊さえいなければ、夜の静かな宇都井駅での駅寝を堪能できたのにと。けれど蚊取り線香の煙で地元住民を不安にさせたり、殺虫剤をまきまくったところで寝るというのも、気が進まなかった。虫よけスプレーは、ほとんど効果がなかった。たぶん、人間の発するエネルギー、香力の方が大きいのだろう。
まんじりともせず、ときどき顔にかけていたシュラフを思いっきりはだけたり、寝返りを打った。
気が付くともう二時過ぎだった。四時半には起きるから、もうそんなには寝てもいられない。けれど一ばん眠い自分だった。外の気温も下がり、逆に体温は上がっているように感じられた。けれども思うようには眠れなかった。しかし、それから少しは寝入った気がする。気がするだけで、ほとんど起きていたかもしれない。
夜を通じて人の足音は一度もしなかった。人の来る気配もない。このタワーを明朝上り下りするのを日課にしているお爺さんなどもいなんったというわけだ。いそうなだけに、割と警戒していたのだが…いや、出合い頭で警戒するのはあっちか…

そのままたいして眠られず、朝四時過ぎ、あきらめて起床。目覚ましは四時半だった。この目覚ましの鳴るより前に起きることほどイヤなものはない。起きるのはいつも始発の二時間前くらいには起きるようにしている。寝床を片付けるのにちょっと時間がかかるし、ここは階段の上り下りもあるので、早い目だ。
空はうすぼんやり明るくて、子供のころ、夏だというのに胃痛で、早くに一人目が覚めてヒグラシの鳴き声におびえていたときのことをかすかに思い出す。しかし胃痛なんていうのはそのころだけで、以後内臓を痛めたことはなかった。医師は精神的なものだと言った。
全然眠れなかったが、一日動けるか心配にはならなかった。尾関山でも大して寝れなかったけど、ちゃんと動けた。たぶん興奮物質が分泌され続けていて、体はなんぼでも動くのだろう。それくらいに駅旅に脳を刺激されつづけていた。
理由はわからない。やるだけやり切った後、何が見えるのかもわからない。ただ、突き動かされるままだ。



性能のいいLEDライトが出てくるのは、もっと後の時代になってからです
階段は降りる気も起きないくらい真っ暗で、もう少し明るくなるのを待つことにする。手を洗ったのり、寝床をある程度片付けたり、ホームを歩いたり、またしばらく寝そべったりしているうちに時間は過ぎていった。鞄の中の整理は暗くてできなかった。心配なのは電池の持ちだけだ。単三で動くコンデジを愛用していて、エネループを30本くらい持ってきていた。駅旅では゛充電できないから、この方法しかなかった。専用電池式としてはIXYを持ってきていた。毎年のモデルチャンジごとに専用電池が変わる時代だったので、専用電池式のカメラが本当に嫌だった。電池の型が毎年変わるんだからそれを多数買い込むという発想も持てなかった。しすかしそれはコンデジ全盛期で、まさに 発展途上だったから仕方なかったことなのかもしれない。
様々な技術やデバイスはやがてはプラトーを迎える。貴方の青年時代、何が発展途上だっただろうか? きっとそれが、貴方の青春のアイテムになっていたに違いない。
旅はコンデジでなければならなかった。なぜか? 特に駅では、さっさと撮り終えないといないからだった。そして画質よりも、ほんとに何か心に興感の呼び起されたときに撮っておく、そういう心象風景のメモのように僕は使っていた。それは重く威圧感のある一眼では全くなしえないことだった。
そんなふうに連続的に撮ることは無駄かもしれないと思っていた。しかしそうした行為の先にもたらされるものは何か、見てみたいと痛切にも思ってもいた。