柳井港駅
(山陽本線・やないみなと) 2011年5月
この日最後の駅、柳井港に降り立った。夕方は薄雲がかかり、湿度が上がってきていたが、初夏だからこれは仕方なかった。まだ高気圧は夏のようには強くないのだ…
なんだかなぁと思いつつも、今降り立たないと、次降りるのはいつやらと思うと、下車するる気力を得られた。
なんとうか、典型的な"昔乗り換えでにぎわった駅"である。端の方は植栽がボウボウで、構内は立派な三線構造だが片方にはフェンスがして乗り場が廃止されており、人は自分以外、誰もいない。立っているはただ松山フェリーを案内する看板くらいである。
駅前の方からおっちゃんとおばちゃんのやたらデカい声が聞こえてきている。なんか町の電気屋さんが待ち合わせしているらしい…
はて、いまの時代、この駅でフェリーに乗り換える人はいるのだろうかと思うくらいの廃れっぷりだけど、ここから松山に行けるのはほんとに便利な話で、いつか利用してみたいルートだ。
ほかのホームにも降りたけど、どうにもこうにも味気ない駅と化していた。無人駅にはやたらポスターを貼りたがるのに、この駅にはその一枚すらない…いったい何があったというのか…端っこの3番線ホームはなぜか古い待合所が2つもある。設備としては贅沢?
駅舎へは渡り廊下で、横の路盤が高いから貨物の通過時はびっくりするような音がする。そういうのは四国の佃駅とよく似ている。
まぁこの回廊はおもしろいよなぁと思いつつ、駅舎に闖入。
駅舎もやはり静かなものだった。むろんヤンキーがたむろしているよりかはありがたい。廃は廃らしく、気品をもって静かにたたずんで…いや、廃というのは過ぎ去った時代のことで、それなら気品高く静かにその時間を過ごしてほしいというのが私の思いである。
けれど利用者が増えてバキバキに新しい駅舎に変わって、商売気を出されるのもいやだ…
そう、僕は過去の栄光のかけらを集めたいだけなんだ。いままで残ってくれてありがとう、そう思っている。
とはいえ、船の時刻表を見ると深夜1時から22時まで2時間おきに出航していて、今でもなかなかの大動脈である。だふんカーフェリーとしての利用は多いのだろう。
蠣色の釉薬タイルにまるで松山の蜜柑のようなオレンジの駅名表示を目に焼き付けた後、駅旅をはじめた。なんと歩いてすぐのところにポートビルがあるという。けれど、いったいどれがそれなのかまったくわからない。実はその建物はすでに見えていたのだが、まったく気づかないほどのものだった。
柳井ポートビルはもうボロボロで、古めかしくも臙脂色の陸屋根枠を戴いていた。けれどものすごくおもしろいものが残っていそうな建物。これは行くしかない!
あたりには大衆食堂を名乗った店や弁当店があり、なんともいえない懐かしさである。きょうび大衆食堂という表示もほとんど見なくなってしまった。きっと仕事を終えて船に乗って故郷に帰る前に、こういうところで食事を済ませて、乗船までの時間をつぶすのだろう。実直な生活が垣間見えた気がした。
昔のプールサイドみたいな正方形の敷石を歩き、ばーちゃんの家の前たない植木だらけの歩道を歩いて、ビルの中へ。まぁきっとこれらの植物や花々は歓迎を表しているのだ。とてもありがたいことである。
中は期待通り、出札も待合も昔のままで、山口の郷土銘菓を売っていた。人は誰もおらず、シーンとしている。たまによそ行の仕立ての装いのおばちゃんが入ってきて、時刻を確認していることがあった。タクシーから人がおりて男性がちょっと時刻を確認してきます、と、この建物に入っていくのも見かけた。いずれにせよ、乗るのか乗らないのか、なんだかよくわからない感じだった。船の気配もなかった。
昔の運転免許センターのようなビニール屋根のオレンジ色は、何か昭和の旅の祝祭感を催している。今日最後の駅とあって私もかなりダレているが、空模様も暖湿気の流入を許し、だらしない薄曇りとなっていた。ポートビルの前はトレーラーを何台も斜めに駐められるほどだだっ広いが、そんなものは一台もない。あちこちに掲出されている"松山"という輝かしい地名は、ぼんやりと霞んだ幻のように思えた。
売店や食堂か周辺には多いけど、それがあたかも必要欠くべからざるめもののように存在するのが少し不思議に見えた。私はもうそんな実直で人の温かみのある旅を忘れはててしまったのかなぁ? 例えば船に乗る前に食事を済ませようと食堂に入り、そこで簡単な世間話をして時を過ごすといったような? いや、どだい無理な話である。これこれの年齢にはこれこれをする、そんなものはもうとうに壊れてしまっているし。そもそも話すことなんてないんじゃなかろうか? せいぜい、いや、今は学生で、旅に来ました、くらいが無難なくらい。これ以上の話は世間話以上のものになってしまう。つまり、私は世間や社会には、もう生きていない…
けれどデータによる旅というのがあってもいいと思う。何よりも2000年代以降のデジタル時代になって驚きをもって迎えられたのは、そうしたデータによる個人旅行の公開が可能になったという点だ。
しかし昭和なポートビルを眼前にすると、この種の旅の貧しさや歪みというものを見せつけられる。データや情報という点で豊かになった分、それ以外のところはだいぶ等閑に付されている。むろん豊貧というのは全体では等量であるから、所詮ないものを惜しんでいるに過ぎない。
旅は旅らしく、というのがいちばんいいけど、交通の古代遺跡にかつての人の温かみを読み取る旅というのも、私には必要なものだった。そもそも私たちははあまりにも昔のことを知らなさすぎる。自分の生きている間のできごとさえ、忘れていることがあるくらいだ。
帰り着いた駅舎の中でゆっくりくつろいだ。ときおり貨物が轟然と走り、柳井港の駅名標を揺らしていく。駅前に軽バン駐めて腕組みして人を待っていた電気屋のオヤジはついに帰ってしまった。しだいに日は暮れ、暗くなり、この駅の賑わいを一度も見ることができず………夕方になったら、船の時刻が近づいたら……そんなふうに、ちょっと私は待っていたところがあった。
けれど誰一人として人はやって来ない。やがて、こんなところでじっとしているのが怖くなり、寂しくもなり、急いで次の列車に乗り込んで、この駅を後にした。