安岡駅
(山陰本線・やすおか) 2012年7月
山陰線の下関から小串は、北九州都市圏の余波を受け、朝は本数も多い。けれど無人駅ばかりで、しかも旅心地するような海の駅もないでもなかった。
Uが2年制の大学を出て勤めはじめて半年が経とうとしていた。髪の毛は後ろに引き絞って、リクルートスーツは長ズボンのものしか身に付けない。はじめは北九州エリアの企業を志望していたが、全部落ち、都市部から離れたささやかな会社の事務員としてなんとか就職することになった。ゆくゆくは鋼材の部品を覚えて、生産数の計画にも携われるように見込まれての採用だったが、先は遠く、今はまだ会社というものに慣れていく期間だった。
Uが思い描いていた北九州の中心でのアフターの夢はあっけなく霧消したが、Uはそれほどショックを受けなかった。ただ目の前にあるのは、いつだって何の変哲もない四角いコンクリートの無人駅なのだ。だから、それを受け入れるしかない。
Uにも確かに夢があったはずだが、こうして現実を見ると、夢を思い描くことなど実はさして重要なことではないように思える。
朝の忙しい時間帯に都市から離れ去る、逆向きの汽車に乗るのは、Uははじめは何とも思っていなかったが、半年もたって夏を迎えると、なんとも言いえない気持ちになることが多く、古くからの街並みがごちゃっと海辺までの短い間に続く車窓をただぼんやり眺めながら通勤することが多かった。
いつものように気動車を安岡という駅で降りると、凄まじい轟音に包まれながら、みんなとともにUはホームと地続きの改札口へと向かった。無人駅になって久しく、駅は駅として機能していなかった。少なくともUはそう捉えて久しかった。しかしその朝は同性の車掌がものすごい勢いで走ってきて、集札をしはじめたのだ。
Uは慌てふためくというより、なぜ?という顔をした。そしてそのまま車掌に捕まった。
「きっぷはお持ちないんですか?」
「はい」
車掌は負けん気強そうに、
「どちらから!」
「下関から…」
「770円です」
そうして小銭で払おうとしている間にも、大勢の人が二人をすり抜けていった。Uは自分だけが血祭りに上げられているかのようだった。
払い終わると車掌はくるっと転身してホイッスルを噴き上げ、後尾へと走り去った。
駅の向こうにはもうとっくに降りて町へと消えていく勤め人の後姿が目に入った。
駅前はおよそビジネスとは程遠い、ほんとに昔ながらの町で、ぎゅっと古い家屋が蝟集し、交差点は一灯式の信号がぶら下がり、古くて狭かった。
つとにUは、自分が誰だかわからなくなった。なぜ自分はここにいるのだろうか? そんなこともわからないくらい、個性がないんだろうか、と。
Uはそのまま心を鋼鉄のように冷たくして、自動的に出社することもできた。けれども今日は冷たくなろうとすればするほど、自分というものがこの街に強く浮かび上がってくるようだった。
会社には少し遅れるとだけ簡単にメールを送り、何も考えずに安岡の町を歩いてみることにした。自販機がある、飛び出し坊やがある、忙しそうに軽トラが走り飛ばす、しかしその後の長い静寂…自販機ひとつとっても、こんな狭い敷地を使ってお金儲けしようとしている人がいるということに気づき、Uはむしろ感心した。
Vは山陰線を乗り継いで各駅に10泊もして、まもなく下関につこうとする過程で、同じく安岡に降りた。まだ朝も早かったので、静かで、日の昇り始める明かりだけがやさしく町を包んでいた。ふだんはせわしなさそうな太い国道の或る交差点も、まったく流れがない。そんな時間に、安岡駅前と名札が付けられた信号を見上げると、なんともVは気持ちがよかった。信号は全色が偽灯して、何色が付いているのかわからない。仕事もない、やらないといけないこともない、自分の住まいの維持や、印鑑、通帳、手続き、申請、なにも必要のない10日間は、ただ自分がしたいと思ったことをする、Vにはそういう時間だった。
今にも街が起き出しそうな緊張感はある。けれど、そこにVは何の関係性も持っていない。たしかに旅がやりにくかったり、居心地が悪くなることはあるだろう。けれど、やはりその緊張の空間からは、Vは浮き立っているのだった。何の関係性もないけれど、ただ人が本来隠し持っている自由さみたいなところだけを共有して町を歩いている、Vにはそんな感じだった。
海辺の町というのはたいがい海岸に沿う道は幾本もあっても海に出る道はややこしいことが多い。そんなことに気付きながら、Uは無理やり駅からまっすぐ歩こうとしていた。
やがて何百年来といった様相の漁村がとつぜん出現し、鉄道はおろか、車の音すら聞こえない、ただ海風が松屋灌木を抜ける、ざわめきだけが聞こえる空間に、Uは包まれた。それは賽の河原のようで、砂の墓場のようでもあった。
古民家は砂にまみれ、トタンは海風に今にも引きはがされそうだ。トタンどころか、藁束を積んだ家もあって、何時代がわからない風景だったが、Uは何も感じず、ただそのままにそれらさまざまの意匠を受け取った。そしてそのまま浜辺まで出て、大きな石に腰を下ろした。こんな誰もいないようなところだが、遠く離れて、Vが立ったまま海を眺めているのを見つけた。しかしUは何も感じなかった。
VはUがここに来るだろうことに、駅から出たときから気付いていた。それはVの旅人としての勘だ。なんとなく行き先が同じ人はわかるのである。たとえその人がスーツ姿であり何であれ…
Vは横目でUを視界に入れると、なんともいえない微妙な笑みを辛うじてたたえて波打ち際を歩いてUのもとに近づきはじめた。VはUの横顔を見ると、自分とは合わず、嫌われて突っぱねられるのがわかった。しかしそれでも二メートルくらいまで近づいて、
「とんでもないところですね」
と、Vは声をかけた。
Uは横目でにらんでしばらく何も言わなかった。Uはさっさと塵を払って帰ろうかと思った。
けれどしばらくしてからUは、
「別にそんな変わったところはないと思いますけど!」
Uは相手をしてしまった自分がいやになって、立ち上がろうとした。
Vは、ここは度胸だと思って、
「そっちに帰ったって、もう何もありませんよ。ここはそちらにとっては、二百年前の世界なんだから。」
Uは気持ち悪そうにVを見た。Vの格好はサンダルにボロボロのTシャツに半丈のズボンだから、Vにそんなことを言われるとそんな気もした。けれど、Uはそういう現実離れした世界設定が嫌いだった。もしそうでなかったら、どうしてUは無理してでも就職しただろうか?
Uはさげすんだように、
「本当にそんなことを考えているんですか?」
そこでVは海風にかき消されないように大声で、
「ただ波に任せるだけです。その空気、雰囲気にたまには任せてみるだけです。どうせ見たいものしか人間は見ません。だったらその前提に立って、見たいものを見る振りをしつづける。夢って、楽しい世界です。」
Uは何かしゃべろうとすると、口の中に砂が入った。気が付くと、顔中、細かい砂が張り付いていた。UとVの間は砂嵐で、互いの姿が見えにくくなった。ただなんとなく誰かと結ばれて、この村で一生を過ごした昔の或る夫婦の様子が、とつぜんUの脳裏に焼き付いた。砂嵐がひどく、苦しくなったUは目をスーツの袖で抑えて立ち上がって、わめきながら山側へと戻ろうとした。パンプスが砂浜に埋まり、何度も転んでは悲鳴を上げた。
Vは体じゅう砂だらけになっても、そのまま立ちすくんで、にび色の海を眺めていた。しかしその目も砂で埋まっていった。
Uが目が覚めると、砂嵐は止んでいて、指先だけがアスファルトに届いていた。あの時代遅れな不思議な漁村もどこにもない。立ち上がって砂払って慌てて腕時計を見ると、もう昼過ぎだった。立ちあがろうとしたとき、ふとUは思い出して浜辺をざっと見渡した。人の姿がそのまま砂に埋もれたような形が見て気分が悪くなった。けれどそれは単に人の形に似た砂の形かもしれなかった。
Uはそのままの姿で出社した。けれど意外なほど、誰もたいしてUを気に掛けなかった。きれいに砂が払えていたのだろうか、それともこの砂は自分だけに見えているんだろうかと思った。
薄桃じみた宵の口、帰りの列車を安岡駅でUは待っていた。もちろん券売機で切符は買った。ただ自分が心地よく流されている感じがした。待っている間、めずらしくスカイプで家族としゃべったり、飲み物を買って待っていると、向うのホームに入選してきた古い列車の何枚ものガラスが琥珀色にきらめいていた。