吉堀駅
(江差線・よしぼり) 2009年5月
人跡乏しげな緑樹の渓流が、巌室の中の連綿とした明かり取り窓から知覚された。ここは通ったが昨夜の最終列車でのこと、こんな険しいところがあったのかと惹かれたが、あの漆黒の闇にここを通ったのかと思うと、おどろおどろしい心地になった。
さきほど湯ノ岱にて3時間ほど滞在し、入湯しているあいだ、この列車は日本海へ抜けて江差まで行き、こちらに帰っていくところを、湯ノ岱で拾った。通標を肩に掛ける黙りこくった駅員と、背中合わせでしだいに離れるようにしてホームで別れ、私は列車に乗り込み、今こうして車内に立って、靴底から振動を感じ取っている。お昼だが客は多くて、地の人と旅行客の半々だった。ふだん乗っている人は、年配でも若くても、相席して気負わず、首を傾けぼうっとしつつただ森の中を進むに任せているが、よそから来た人は車窓に顔を擦りつけ、龕から光の入る、黒ずんだ落石覆いを列車が進みゆくのに夢中になっていた。ふっと運転台の方へ視線を切り替えて、
「案外次の駅でも降りる人はいそうだな。」
分水嶺となる登りのきつい稲穂峠をなんとか坑口まで行き着き、古い隧道で抜けると汽車は安堵を漏らして河原と芽吹きの木々の無人地帯を下っていく。こんな何もないところでところで止まってしまったら大変だ、という気持ちが機関士や汽車にもありそうに思われ、「でも、だからといって速すぎても危険だ、ここは気を抜かずなるべく同じ調子で軽快に下ろう」と念じ、逃げすさっているみたいだった。
唐突に、吉堀です、と自動放送が出る。こんな近辺(きんぺん)に駅か、と誰しも思う。しかし角や縁(へり)の崩れた石の土台が遠くに見えはじめ、みるみる近づいていった。森は抜けてもう傍(そば)にあるだけで、光が差している。
列車がぴったり駅に吸いついても誰も動かず、雑談したり、窓を覗きこんだりしている。やっぱ誰も降りんか…でもこんなところで自分が降りたら間違いなく旅行者だと思われるな、と背後に人々の思いを感じつつ、けれども運転士は形式的な愛想であっさりと確認をし、前のドアからひとりで降りた。
ひんやり心地よい森の空気と、けれどもむなしい風に、すぐ心を巣食われていった。もうどこの駅でも見た待合室代わりの貨車はやはり腐蝕し、レールの上に、毫と動かぬよう固着されている。そこまではいいのだが、なぜか杉がその貨車を暗く取り囲むように育っていて、陰惨な様相を呈していた。
あたりは 芯から静かだがよそよそしく、森のざわめきと耳元の風音しかしない。
ここは目前に杉山の裾と水田があり、それが降りたときからやけに気にかかった。見えるのはそれらと、ほかはレールが谷地を行く先々で草の生えるままにした路盤ばかり、陽光は差しているのに、どうにも気味が悪い。
「へんだな、こんなにいやな感じがするのは。特にこれだという因子が見つからないが。」
そう考えると慌てて源泉を探そうとするばかりで、気持ち悪さを押しとどめられなかった。
かつての乗り場のレールはここで止まっている。留置線状態。
木古内方面を望む。この先は視界は広がるばかりで、渡島鶴岡を経て無事木古内へとたどり着く。
木製の階段。
フットワークってもう無くなってるよな…。
小山だが急な勾配だ。
湯ノ岱・江差方に見た構内。
神明までの間には稲穂峠という険しい峠がある。
このライトは点きそうだ。
とりあえず貨車の中に入ってみよう。でも中はどんななってるかわかったもんじゃないな。入ったとたん取り憑かれて悲鳴を上げることになったら、なんて思うのは、昨日の夜泊った別の貨車であったみたいに、アンモニアの匂いが立ち込め、鳥がいきなりドサバサ頭の上で羽ばたいたり、また別の貨車であったみたいに、誰も知らぬうち人が集(つど)ってゴミがいっぱい溜まっていたりしたことがあったからだった。
本当にこわごわ、闖入すると、風が入らないため、太陽に温められるだけ温められたらしく、上着がいる季節と噛み合わず、やたらむんとしている。さすがにここは鳥の巣にはなっていないみたいで、くさくないし、動物も棲んでいない。床音を立てて天井の低い中に思いきって入り内部をしっかり見回すと、なんだ、最もきれいな貨車だった。「こんなだったらゆうべはここで寝たらよかったかな」とふと思うが、それはすぐに打ち消す。この異様な、めそめそ泣くような淋しさや、底気味悪さでは到底、寝られない。でも夜はそういうものと同調して隠れるかもしれぬ。いやまてよ、昨日の夜ここを通ったときって、灯りってついてたっけ…。
「吉堀か。 吉とあると、かえっていいことがなかったなんて感じがすることもあるな。まあ、散策すれば気味悪く思ったことを申し訳なく思うかもしれない。気分を変えよう。」
中は良好。
出るときの光景。道内の駅では貨車内で待ち、
来た汽車に乗車するたびにこの光景を見ることになる。
旧車掌車で、頑丈さにかけては随一。
こちらからは入れなかった。
出入口はほとんど認知されていないような風態で、草と少しの杉の野放しだった。駅名表示もなければ案内板もない。すぐ近くに木造の店らしきがあり近づいたら廃墟だった。
「こんなところではさすがにな。でも、逆に考えれば以前は店をやっていけるほどだったということだが、にわかには信じられん。」 いちおう販売機は置いてあり、これにはもうびっくりした。
駅前の光景…。
気になる建物がある。
これだけの構造。
フェンスはばらばらちょんちょんになってる。
積雪のせいだろう。
吉堀駅駅舎。
どうにか表示板が見える程度。
吉堀駅。
何らかの設備がある木古内方の敷地。
目印のような木だなと思うと、
吉堀駅開業記念植樹だった。
昭和十年、吉田十三郎とある。こんなにきれいな状態で碑って残るのか。
あの建物や敷地は青函トンネル関係に使われているようだ
駅前から出よう。
駅前入口の様子。
稲穂峠、神明方。
木古内方。
吉堀駅その2. ちょうど左手の木の向こうに貨車がある。
その3. 初めて来た人はよもやここに駅があるとは思わないだろう。
あちらが吉堀の集落。
季節や天気はよく、そこそこは巡り歩いた。ここは稲穂峠と瓜谷への道別れで、駅はそのことと、ここ瓜谷の集落を意識してできた駅らしかった。家屋がありつぶさに観察していくが、廃屋が多く、現住らしきのものも、今はどんんな感じかなのかわからなかった。
秣を包んだロールベールが、せまい山あいの敷地に転がり、代わりに小さなサイロが打ち毀されていた。やがて谷底平野に爽やかな水田が広がり、遠くの方で耕運機の音がぶうんぶうんと響いてくる。道南といえどもこんなところに広い水田は珍しいなと不思議だった。こんなふうに、人の仕事はすみずみに見えるのに、人や住まいの感触は少ない山里だった。
「そうか、駅の気持ち悪さは廃に由来していたか。」と少々廃村じみたところに背を向け、足早に駅へと踵を返した。「原因がわかれば何でもないさ」。
木古内川を渡る。立派な橋が架かっているが、これができる前はどんなだったのだろうと思う。
どうしようもないほどの森。
瓜谷付近。
左手の谷に入ると新瓜谷。
瓜谷の集落。
これはサイロで作ったのかな。
駅へ。
人は住んでない。
駅。
しかし駅に近づくと、また言いようのない寂しさに包まれた。お昼なのに、気候も申し分ないのに。─ まあ、こんな駅で、ちょっとお茶でもしようか。せっかくこんなところに置いてあるんだし、と、疑わしくもある自動販売機で飲み物を買い、貨車に入って上ノ国で買った食糧を取り出す。なんか気温がぬくくなりすぎて、疲れた。日較差の大きい時期だな。ここは気味は悪いけどまだ待合室が清潔だからいいものだ、と、軽食をすます。
こんな駅に食べ物を置くと生気が注入されたように思える。
駅ノートを開いてみた。ほとんど書いてない。その中の古い一つに、学校に行くつもりだったのに、間違えてこっちに来ちゃった、慌ててこんなところで降りたけど、何だろうこの寂寥感は…、と中学生が記してあるのを見つけた。私はノートをいきなりばしゃんと閉じて 「やっぱりな」。 すぐ立って外へ出た。
つむじ風に叢は靡き、深泥の水面はにわかに漣立ち、一片の雲に日が隠さるると初夏は嘘の如くになり、体は冷感に冒され、草木はそれから絶え間なく騒ぎたてる。背筋に一本つららの入ったのを感じつつ、
「そんな、何でもかでも気味が悪いと言うものではないさ。だいたいここの人はどう思うかね。ほらあの山裾には、田圃があるじゃないか。人の為したる業だ。」
黄土の水面を見つめた。 もっと広いところはあるのになぜこのような狭い一角にまで入って耕したのだろう。また、そうして人が入ったのは確かなのに、人が入ったようには見えない瞬間がふと見つかる。じっと水面を見つめる。そしておそらくそれは、 入った人そのものもまた、自然であったからだったのであろう。適地とわかれば、このような隙間でも拓き、獣に踏み入られれば瞋りながらも直し、悲しいことあっても投げ捨てず、そしてやがて、その人は亡くなった。放り棄てることにならぬよう、滅ぼされぬよう自然と絡み合っているうちに、無名のものとなり、埋没してゆく。その名誉がどれほどのものかは、こういう営みというものの無性格、没我、非人称、空漠、無限から慮られ、それは気高い在り方に感ぜられはじめた。しかしその裏に、人としての根源的な寂しさや、ときに味わわされるむなしさ、どうしようもなさがないといえず、それらをこの風景が寂寥や寂漠という形に変えて、ここに降り立ったものの根底を突き、轟かしているらしかった。「結局、都市でも同じものが現れているかもしれないな。」 しかし、あらゆる人とのかかわりを持てる場や、名を成す土壌において、自分であるということを捨てられ、無名でいられるということが、めずるべきことに思えてくると、いまだ誰でもなく、また誰ともなりえぬこと対して、静かなる法悦を覚えはじめてきた。土の一粒子、木の葉を翻す風、取るに足らぬ笹の一葉、水面の波紋、それらと溶け合えると、もはや寂しさは感じない。あらゆる充足心に襲われ、ふうっとレールに吸い込まれていくようだった。体の中に淵が刻まれ、眼前が暗くなって深まりきる、するとふうと背中に、廃屋から鬼気が迫って、慄え上がり、目を剥いて振り返った。
冷たい森の激しいざわめき、葉を鳴らす風とともに雲は流れ、陽が差してくると水面がまぶしくなった。我に返り、急に自分がどこにいるのかわからなくなる。いずこともつかぬ、なんともあるともない風景。それで改めて停車場にいたことを自覚するが、そのことに救われず、ここが本当に停車場なのかという疑いは消えてくれなかった。ここに停車場がある以上この小景は、道もまた同様であるように、かならず旅というものの途中に、旅人の前に立たされることからは逃れられぬという規約を負っている。にもかかわらず、ここでは駅による場所と自己の規定を外され、かつはじめて元にそれが戻ってくれなかった。雲間から出でしいずかたの日光も翳りを消さず、触りえぬ物体というものを形作った。
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