湯里駅
(山陰本線・ゆさと) 2012年7月
湯里はちょっと現実的な駅である。山の中で、まじめな感じだ。こんなところに降りるのはもったいない気もする。名前のような温泉の話も聞かず。
気動車が煤煙吐いてノッチを上げ走り去ると、強いみどりのにおいが鼻を突き、ミンミンゼミのすぐれた借景。こんなにも立体的な蝉という虫たちだけが織りなすホワイトノイズもそうない。しかし音だけ取り出してもそれはただリアルなだけだろう。山があって、こんな蝉の背景音があって、そして、何よりも私がここにいる、わたくしはたいへん貴重なパラダイムにいま居合わせているように感じる。
かなり遠くに走行音はひびき、すぐに、ややさみしく、いわゆるなんもないところだと感じる。
どこか目標としている場所までの経過地のように思った。どんな旅でも、こんな瞬間があるものだ。それを私は流れの時間からドロップアウトすることで、意識的ではなく、肉体的に止めているんだ。けれど私の中で時間はまだ動いている!
下車は、鉄道時間の織りなすランドスケープに対する微分的行為である。微分すれば、微分した世界がまたそこに広がる。ある特定の値を駅は持ちえ、新たな関数をも持ち合わせている。
そんな思想も吹き飛ぶ。時間がなくて、私の眼は湯里駅を捉えようとのりばを歩く。ア、イマ、エキニキテル、エキニキテル、イキテル、イキテル、山陰を渡り歩こうとしている、一人の魂が…
私は何日も前の柴山駅のことを思い出していた。あそこもこんなふうに蝉が鳴きしきっていたっけ。けれどここは新しい道路が気持ちよさそうにカーブするのが見えるばかりであった。
新築の駅舎はそれでも文化を考え、木造に臙脂の石州瓦を積んで、クラシカルに駅名を掲出している。中は生成りの杉板張りで、杉の匂いがかなり強い。そしてトイレがメインのように佇んでいる。やはりちょっと寂しいが、人の想いというものはやはりあって、ただ私は郷土の幾千の人々に舐められた視線の積み上げにまみえなかったことを悔いた。私はまだ少(わか)く、先人の足跡に安らぎたい。私の足跡が石垣の一塁だなんて…早くして親になった感じであろうか。
新道に降りてみるが、車なんかほとんど通らない。離れて高規格道もできている。 駅を見上げて、もう少し人々の心をくみ取ろうとする。 戻ると、急に軽トラが坂道上って乗りつけ、作業ズボンの爺さんが私に一瞥をくれると、トイレへと駆け込んでいった。そうこうしてるうちに反対列車が来て、湯里は折戸の向こうになった。