四国一周紀行―自動車旅行
2022年4月
大学の卒業旅行ということで、僕は自動車にて四国一周を試みた。不可避を除いて下道だけ、そして宿泊は車内かネットカフェだ。僕にはいっこう金を使う娯楽に興味を持たなかった。サービスを金で買うなんて虚しいものである。つまりそういうのは、僕にとっては楽しくないどころか、不愉快ですらあるのだ。まあいい。そして僕はこの旅行中にいわゆるコロナに罹患した。よい経験であった。旅行中はずっとライブ配信をして、美しい風景から珍事まで、すべてをリスナーと分かち合った。
宇治川ラインを経て、枚方、京阪国道を経て、171(イナイチ)、猪名川、神戸…朝6時に出て、これだけで5時間くらいかかった。ふだんおもしろい道と愛でる宇治川ラインも、この先の大旅行の前には霞んで見えた。
途中、うっかり芦屋のライフに入ってしまったがため、駐車料金ですったもんだする。なんだコンビニ最高じゃないか! こんなことは言いたくないのだが…
しかし、須磨で海が見えると、がぜん僕の機嫌はよくなる。鉄道で来ても全く同じ展開だ。海の風景が好きで仕方ない人である。なぜかはわからない。赤茶けた石積みの須磨の道は、誰にとっても忘れられないものだ。そう、若い昔、ネガに焼き付いた記憶のように。
そこまでくれば、はじめの目的の舞子公園はほど近かった。付近の国道2号は道幅がさしてなく、左手の民家の連なりの向こうに海があるのを想った。
舞子公園
四月らしいきつい潮香に、めまいを覚えた。橋を渡る前にその橋を見る、ただそれがしたかっただけなんだ。旅行はその予定と準備こそが楽しい、みたいな、そんな感じである。砂が細かくて歩くたびに靴の中に入った。それもまた生きているということの証というものだろう。
明石海峡大橋はどちらかというと90年代風で、橋自身が、都市だ都市だ、そういっているかのようだった。そしてそれだけに対岸のこんもりとした淡路の緑の穏やかさが際立った。
明石海峡大橋と淡路SA
大歓声を上げながら明石海峡大橋を渡った。ずっと鉄道旅行だけをしていた僕にとっては、うれしくて仕方なかったわけだ。車いじりもはじめて、ETCやその他電装を自ら整えた。別に鉄道を捨てたわけじゃない。必要に迫られて、車に長時間乗らざるを得ない生活が何年も続き、あれやこれや直したりしているうちに、車のこともしだいに好きになっていった、そんな感じだ。それは恋愛感情のなかった夫婦が、長く寄り添った結果のようなものに近かった。
少し前の自分なら、公共交通、政府からの税搾取を極力避ける、そう唱えて、舞子駅で降り、舞子バスストップから淡路島に向かっただろう。そして、見晴らしの良いSAにて自動車旅行を満喫する人にまみれ、どうして自分はこんな生き苦しいのだろう、そんなことをつらつらと書き連ねていたかもしれない。
僕が鉄道にいったん見切りをつけたのは、僕が訪れるような路線ではもはや鉄道で旅行できるようなダイヤや旅客サービスを提供していない、と認識したからだ。別にコロナは関係ない。もっと前からだ。それも株の制度の変更に伴い、日本の会社が日本のためのを考えて動けなくなったからでもあろう。
とにかく、僕はどうにかこの問題―鉄道と自動車の対立―に、自分なりに折り合いをつけたということだ。
見晴らしの良い淡路SAはデートスポットだった。おしゃれな食事処もある。いかにも都人士が休日に仲間を連れて気晴らしするところで、実際にそんなホストふうのグループも見かけた。むろん人生とはそんなものかもしれない。ただ一つ確実に言えるのは―僕が表街道を歩いていない、ということだ。
僕はおしゃれレストランから遠く離れた場末、トイレの近くの揚げ物屋などが並ぶコーナーで、明石焼きを買って食った。まぁ僕はお金を使っても喜びを得られないタイプだ。しかしこれがさまざまな魚介の出汁が効いている感じで、なかなかにうまかった。
洲本市・大浜公園
その後、リスナーたちとともに淡路島の西海岸をドライブした。延々と南進するのだ。道はぽつぽつと店屋があるようなつまらないものだが、うみやまの間の道になると、かろうじて感官の触手が動いた。淡路島はぜんたいに丘陵地で、穏やかなのだ。途中たこせんべいの里のリクエストが強かったので、途中まで山を登ったが、やはり海がよいと僕は思って、引き返してしまった。山が苦手な人である。
淡路島の中心、洲本市入ってほどなくいったところの大浜公園で休憩。白砂青松として改めて造られたような浜で、短い時間しか滞在しなかった。洲本にもやはり浜は必要だったのだろう。浜では高校の漕艇部の子らが奇声をあげて遊んだり、トレーニングしていたりした。
生石(おいし)公園 (紀望台・生石岬・由良要塞・生石鼻灯台)
大浜公園を出るといよいよ諭鶴羽山地を駆け上っていくことになる。
途中、立ち寄る予定をしていた生石鼻への分かれ道が表れたので、僕にしてはためらうことなく右折した。それくらいただならぬ雰囲気があったのだ。
道の頂上の駐車場に車を置いて散策すると、すぐに由良要塞がまみえた。レンガ積みのアーチ式倉庫である。サバゲーが好きな人には垂涎ものだろう。目標までを測量して大砲を打ち込む、もはや過去の戦術だが、かつては我が国も主体的に防衛していたのが実感でき、意を強うした。
そこから少し歩くと紀望台だ。文字通り、紀ノ國を望めるコンクリート製の展望台である。もう日が傾きはじめていて、泉南や紀州が遠くに霞んでいた。紀淡海峡は茫漠として寂しい感じだ。花はかろうじて残っていて、中学生くらいの子を連れた、駐車場の車からすると神戸から来たらしいおばさんとその知り合いらしきが、こんなええところないわぁと連呼していた。私が来たことに対しては気に入らなかったらしく、顔を嗔らしてしわくちゃに中央に寄せた。リスナーたちの声をスピーカーから出していた。
ここ生石公園は公園と言えど、灯台も要塞跡もある見どころ満載だ。自動車旅行の際には立ち寄っても損はないかもしれない。ただちよっと地味で、一人ならなんとなし怖い。けれどこれは諭鶴羽山地にはよくある、陰々とした感じである。
由良要塞の遊歩道をめぐっているうちに、雲のせいもあって薄明じみてきた。リスナーたちと、今日の晩御飯について話し合いながら、駐車場に向かった。マクドやコンビニは避けよう、とのことだ。
四月とあって肌寒くも心細いこの山の上をわれわれは早々にエンジンをかけて下りて行った。
再び諭鶴羽山地を登り返していくが、ここからは暗く細い山道だ。やがて電波も悪くなり、放送も途切れがちになった。つとに独りになるこの感覚は言い尽くせないものがあるが、慣れても来る。電波という見えないものを恃みに絶えずコミュニケーションを図っているのは、なんともいえぬ、使いよこしてはやらす和歌のやり取りのようだった。
途中、秘宝館で有名な水仙の里で休憩した。時間のせいか客がいないからか、全部閉め立てていて、路傍のドライブインの駐車スペースで休憩した感じだ標高はだいぶ上がっている。遠くに鈍色の海が見えて、まぁしかし諭鶴羽山地というのはほんとに寂しいところだ。中央構造体というのはたいていこういう鬱々とした雰囲気を湛えているものである。
ちゃりこ・淡路島モンキーセンター
諭鶴羽山地の海側に向かうため、道は山を越えるのだが、その淋しげな道中、食事処「ちゃりこ」の看板が定期的に現れて、私もリスナーたちもすっかり行きたくなってしまった。カレーがおいしいのだというし、あと何キロ、あと何キロ、と出てくるので、もはや珍しいもの見たさのリスナーや、原野を透かした僕は。もはや半狂乱だったといってよい。だってこんなろくすっぼ店もない道が延々と続くのだから、まさにの前にニンジンをぶら下げられていた気分である。淋しい山道だから、僕も人心地が欲しかったというのもある。
道中には一ばんのビュースポットがあり、ちょうど海を見下ろす急カーブ、つまりは諭鶴羽山地を超える分界点だ。斜面が大崩落しているとのことで、夜間運転に気を付けないと海抜百メートルから真っ逆さまに海にダイブすることになる。
海岸に下りてなお進むも、なかなか現れようとしないる「ちゃりこ」。半ば、通り過ぎたのではないか、と、疑っていると、かくして「ちゃりこ」は現れた、と、同時に、僕はひそかに失望の色を浮かべた。ロープが張られ、すでに営業を終了したのは、誰の目にも明らかだった。
しかし納得のいかないリスナーたちは店主のであろう車もあるし、白熱灯も一つ灯っているので、開いているのではないか、といって譲らない。僕はリスナーに、次のもっとおもしろいところをめざそう、と、なだめた。
海岸線を走っている途中で日は暮れた。小暗い濃紺の空は行燈のようにぼんやりと灯っている。どこかでリスナーさんがしきりに勧めてくれていた「沼島(ぬしま)」への渡船場が現れる。ディープな目的地は、次回にしようか。この灘のまちは諭鶴羽山の裏側一帯の中心的なところかもしれない。自販機が何台かある。
福良
すでに真っ暗だが、どうにかこうにか、かつて四国と淡路をつないだ福良の港町に我々は滑り込んだ。チェーンの飲食店などなく、いくつかの個人店やスナックがあるような街だ。しかしローソンはあった。いったんそこに入って小休止する。僕としてはそこで食事を済ましてしまいたいくらいだったが、リスナーたちはそれを許さず、道中からの提案、「まりも」という普通の古い民家の建物のラーメン屋を目指すことになった。とにかく変な店に行かせたいらしい。
ラーメンならこれもまた外れはあるまいと、僕もまあ乗り気だったのだが、福良の昔の商店街の脇道にあり、見つけるのに本当苦労して、かなりに苛立った。車に乗ってから、僕は本当に歩かなくなった。健康にはひどく悪い上、車で行きづらいところへでもなんとか車で行こうとするのでタチが悪い。
「まりも」は閉まっていた。僕は怒髪天を衝くというか、そんな気分で、腹もへっていたので怒り狂いながら再びローソンへと戻った。それでもリスナーたちはコンビニで済ますことをよしとしない。がっかりした、なんて抜かすので、僕も根負けしてしまって、
「よし、今夜はコンビニやチェーン店ではいっさい食事しない」と肚をくくった。僕は腹がすいていて、そして目の前にコンビニがある…なぜわざわざこんな苦労をしているかと思った。
次の提案としては「鼓亭」だ。うどん屋というので、乗り気ではなかったが揚げ物などもあるとのことで、俄然行く気も沸いてきた。再び僕はコンビニから車を出した。
20時前、鼓亭は、かくして開いていた。投げ銭をいただいて、1000円近いカツ玉を食った。かつ丼とうどんである。こんな夜更けのどこぞやとも知らぬ街で、アツアツの食事が取れて、僕は感激していた。儲かりさえすればいい、そう考えない人の方が圧倒的多数だから、この社会は成り立っているともいえる。いわば、"成功者"だなんてせいぜい担がれているだけなんだとさえいえるんだ。
店は広く、旧蔵を一部利用してあって興味深かった。きっと星野あたりならこんな物件を見つけた暁には得意気になって洒落たカフェにでもしてしまうのだろう。
道の駅「福良」
道の駅、だ、なんていうのは、鉄道の駅巡りをしていた僕としてはばかばかしくて憚れるのだが、自動車旅行では避けられないし、そもそも、もともと自治体がそれに近い形で運営していたのを道の駅として選定してもらったというパターンもあるので、あまり細かいことは言わない。それに、かつての公共交通システムとの絡みがあることもある。
道の駅福良に入ると、もう21時を回っているというのに二十台くらいは駐まっていた。みんな車中泊らしい。
カーテンを引き回し、有頂天で僕は準備をし、ちょうど修学旅行の就寝前の談笑や語らいのようなことを、放送でおこなった。僕は学部後の進路は決めていない。自分の人生を見せられなくて、なんだか申し訳ない気持ちがないではなかった。
就寝後、トイレに起きた。外は風が強く、ソフトクリームなどの幟がバタバタしている。実はこの旗の音というのは、なんとも気持ち悪いものだが、駅寝の経験が豊富だから、すぐに慣れる。おそらく、夜にはためく旗というのは、何らかの合図のようで、原始の脳が覚醒するのだろう。
停泊中の船はただ僕のためだけにライトアップされていた。
車に戻ろうとすると、赤色灯をともさずパトカーが入ってきた。面倒なので、しばらく身を潜めた。事件も少なそうだから、穏やかな警邏だ。
仰向けになりながら、まだ四国にすら渡っていないことを考えると、ずいぶんと気の長い旅だなと思った。