鳴門岬―道の駅「うずしお」―四国一周紀行(自動車旅)
2022年4月
青年の思い出と大鳴門橋・鳴門海峡
福良湾を見渡した後、丘を縫うややこしい道をリスナーたちの案内に従って、この日最大の目的地、道の駅うずしおへと逢着した。ややもすると大鳴門橋を渡ってしまいかねないので、注意が必要だ。僕は車を走らせながら襟裳岬への道中のことを思い出していた。
細長い半島のような岬のやや高い丘の上に駐車場はあり、そのおかげで着いてすぐに海を望めた。風で上がってくる潮気に包まれるようで、僕は気分が高揚し、放送はそっちのけになったところがあった。
自分の周りを見ると、訪れていた人たちは十五から十八人くらいで、みなビュースポットで写真を撮っていた。僕はこの秘境感ある岬に、人造の優美な橋の架かっているのを見て、潮も、そして橋のやさしいブルークリームも、すべてが自分の膚になじんでいくようだった。
アンカレッジの近くまで下りていくと、阿波踊りの顔出しや演歌の演奏装置があって、僕の心は一人旅をはじめた二十ぐらいのころまで舞い戻った。こんなものをおもしろがる快活な青年時代を懐かしんだ。経済と政治が悪くなっても、当事者意識なんて持ちようがない時分だ。だって大人の世界がいったいどうなっているか、まだぼんやりしているくらいの年頃なのだから。
僕はしきりにそんなころにここに来たかったと語ったら、旅行というのはいつになって楽しめるものだ、と言われた。僕がもうあらゆる面の当事者とされる年齢まで達していることを、僕はここにいる間ぼやかされると同時に、後になって思い起こさせられることとなった。
僕はこの自然と調和した、80年代の構造物を心から愛した。鳴門岬の突端は残され、アンカレッジは淡い風色で立哨している。そのごく淡いブルーのトラス橋は、潮気の濃く早い鳴門海峡に対して奥ゆかしく、自然界の法則の美を、いたってごくしぜんに組み込みながら、向うに伸び渡っている。
その80年代の後、僕らはゆく末を見失ったように思う。というより、世界の情勢はあまりに変わりすぎていった。
大学の卒業や東京での一人立ち、キラキラした生活、そんなものをあこがれて正当化した結果、砂漠にない水を渇望するかのように、気を狂わすか、自分を殺していった人々はいよう。もう、そんな子供じみた発想はやめよう。顔出しや演歌発生装置が青年時代の旅の肖像だって?! なんだ、政治や経済について責任を負って果敢に行動する術がなかったかつての状態を密かに望んでいるだけじゃないか。
けれど、この鳴門の潮風に包まれて、僕は自分を責めることを思いつかなかった。ただ、やっと大学生活から解放され、旅していただけだ。親が子を養うことから解放されたいという思いも、わかる気がする。
なぜ何もかも一度きりなのだろうか。僕が同じ気持ちでこの鳴門岬を訪れることはもうないだろう。配信のこの雰囲気ももうないかもしれない。しかし、すべてはそんなものなのだ。だから―
リスナーのKからおあしをいただいて、淡路島バーガーをいただいた。ただ投げ銭は昨日もいただいたし、ちょっと悪いなと思っていた。けれど、どうしても味わってみてほしいということや、これまでの大学生活を想ってのことかもしれない…
たしかに立派な洋食ランチのプレートが一つになったようなバーガー。牛肉とトマトと玉ねぎのうまみが凝縮されて、ひとつだけで満足してしまう。鳴門海峡の潮風を浴びて、その風景を眺めながら食べるのは、やはり童心に帰ったかのようで、これまでのさまざまな思い出が重層的に広がり、僕はただ自分の魂だけが存在しているような気になった。
このほか、最近できた、淡路島の特産を扱ったおいしくておしゃれなものを並べたショップや、昔からのレストランもあった。いずれも入店して損がないようなところだ。特にそのみやげ屋はクラフトコーラの原液や特製カレー、玉ねぎチップスなど、どれも欲しいものばかりだった。地方についてはあれやこれや言われがちだが、大勢の人がこうして商品開発をして、産地のものを生かしているのを知れだけでも良かった。
鳴門岬を十分に堪能すると淡路島への気持ちも吹っ切れ、後ろ髪を引かれることもなく四国へと渡ることができた。