夏の北陸海岸紀行-18きっぷを使って-

旅行記のつづき

2日目のつづき

新潟駅へ-ムーンライトえちご待ち-

  3両編成の普通列車は、鯨波駅で私一人を拾って出発した。 背中が濡れて気持ち悪くてもたれられない。 とにかく冷房で乾かした。7分間停車する柏崎駅に着くと、 とりあえず列車を出て背中に風を当てた。15時22分発の越後線の列車が待機していて、 何人かがそちらに移っていった。折りたたみ自転車を黒い袋に入れている人たちが目立った。 予定では (列車に乗る時間はもう狂っているが)、越後線に乗ることにはなっていなかったので、 そのまま信越本線で通したが、後になってここでこれに乗り換えておけばよかったと思った。 そうすれば長岡駅で混雑した列車に乗り換えるのを避けられた。 それに柏崎から吉田までは一日8本ぐらいだからいい機会だったはずだ。 さっきの温浴施設といい、機転の利いた行動の取れなかったことが悔やまれる。

  信越本線の列車は再び私を乗せて柏崎を出発した。 田畑を抜け、山すそを抜け、中越地震の被害を受けた地域も通過していく。 途中、濡れた体が冷房で冷えてきて寒気した。 長岡に着いたので機械的に列車に乗り換える。長岡は新潟県で第2位の規模の都市。 学校の終わる時間とあって、ホームにもかなりの人がいた。 乗った列車の座席もほとんど埋められていたが、 立ち客は少なかったので開かないドアの近くに立ったら、 近くに座っている学生が携帯電話をいじっていて、 見られていると感じたのか、いやな顔をした。 旅行中けっこうこういう状況を目撃したり、体験したが、 この地域にはドア付近に立つという習慣はないのかもしれなかった。
  ロングシートの座席がようやくあいたので座った。 予想通り、次々と中高生たちが乗ってくる。 地理的なこともあって、中学生もJRを彼らの足としているらしい。 30分ぐらいか、大きな声で話される学生同士の会話は闊達だったが、 新津ぐらいから静かになり、17時17分、ようやく新潟へ到着した。

  新潟駅では「ムーンライトえちご」の出発時間23時35分まで待つことになっている。 ここでの待ち時間をもっと有効利用したかったが、 9月はほとんどの施設が6時台で閉館し、どうしようもなかった。 また、考えていた温泉もやめてしまった。 行っていれば、よい時間が過ごせたかもしれなかったのに…。 案内所で訊けばいいのだが、新潟駅に降り立ったときには、その気力がもうなくなっていた。 歩き回った後で約2時間も列車に乗ったことや、 体も気持ちよく乾きはじめていたこともあった。 とはいえ、気持ち悪いので着替えることにした。 駅前を歩き回ると、東側自由通路北口付近にトイレを見つけたので、 その個室ですばやく着替えることにした。 その途中、脱いだ服が床へ落ちてしまい、気が動転するものの、 落ちたのは洗面台で軽くこすり洗いし、絞って袋に詰めた。 こうしておくだけでも、服の状態や気分が変わる。 しかし据え置きされた液体石鹸の入れ物が空っぽで、 服は本当の水洗いになってしまい、ろくに手も洗えず気持ち悪いままになってしまった。 たとえ駅前とはいえ公衆トイレだから、石鹸のないことしかたなかった。
  トイレの横にある東側自由通路を通って駅に戻った。 コインロッカーに荷物を預けることを考えたが、 別にここから遠くに行くわけではないのに300円は無駄だと思ってやめてしまった。 しかし今思えば、これはけちるべきではなかった。 もし積極的に利用するなら、料金がかさみそうだから、 計画を立てるときにはあるていどはそのつもりをしておかないといけない。 このあと、この駅に来て最初に見かけた冷房の入った休憩所を探したが、 これがなかなか見つからず、迷ってしまった。 JR東日本のサイトから印刷して持ってきた新潟駅構内の地図を見ても、 どの店でも目印となりうるのに、店名などがいっさい書かれておらず、わかりにくかった。 宣伝になるから駄目なのだろうか。 東西の2つの自由通路と、2つの跨線橋、COCOLO東・本館、 新幹線改札口付近にある東西を行き来するのに便利な細い通路、 これらを把握する目印は、お店なので、必要な目印を取り去ってしまった地図のように感じた。 もちろん在来線改札付近なら、その地図でも何とかなるのだが…。 南口から外へ出てだだっ広い駐車場歩いてしまったり、 自由通路でダンボールの家を見つけたりでさんざん歩き回って、 やっとの思いで休憩所を見つけた。 冷房がよくきいていて、大きな画面のテレビが映り、席も割りと多く充実している。 これは「多機能型待合室『bananaステーション』」というのだと後で知った。 中にはラジオの放送局と、会員用のインターネットサービスがあった。

  やっと座れると思い、休憩した。しかし1時間ちょっと経つと寒くなり退屈になり、 そばを食べに行ったり、本屋を見たりして、また休憩所へ戻ってきた。 左手の窓からは駅構内が見えて、ちょっとした退屈しのぎになるが、それも見飽きてくる。 午後8時になると、鍵を持った人がやってきて時計をにらみ、 テレビをかなりぞんざいなやり方で遮蔽した。 たぶん何も知らない私のような人たちはさぞかし驚いたことだろう。 別にテレビが目的ではないので、そのまま座り続けた。 「ムーンライトえちご」が出るのは23時35分、あと3時間半もある。 そもそも夕方に駅に着いてなすすべもなくムーンライトえちごを待ち続けるなど、 とんでもない計画だった。

  COCOLOにマツモトキヨシが入店しているのは知っていたので、 買うなら休憩中だと考えていた液体石鹸を、そこへ買いに出た。 また、あれだけ体力を使ったので、ついでに何か食べておいた方がいいだろうと思った。 またもや自由通路を歩き、石鹸の買い物は済ませたのだが、 食欲はわかなかったから再び休憩室へ戻った。 この後、買い物しようと、また、退屈しのぎにと休憩室から出ては、 何もせずに戻る、そういうことを繰り返し、疲れ果て、 退屈は極みに達してもはや忍耐という次元になってきた。 そもそも夕方5時から夜の11時半まで新潟駅周辺で過ごすというのが難しい。 こういうときによく利用されるネットカフェは事前に調べたところ駅から遠かったし、 それにここまできてインターネットに漫画で過ごすというのも気が進まなかった。 喫茶店などで過ごしてもいいけど、長時間居座るのは苦手だった。 人が徐々に少なくなってきた。ときどき本を読んでひたすら待ち続ける。

  9時半ごろ、外へ出てみた。駅前の大通りを少し歩くと、 横田めぐみさんを探しています、という立派な看板が暗闇に浮かんだ。 それは警察署が出しているもので、道路標識みたいにしっかりポールで立てられていた。 夜更けの新潟に初めて来た自分に、見知らぬ土地に連れ去られた横田さんが重なった。 もちろん不安は比べ物にならない。 しかし、暗い中ぽうっと浮かび上がったその白い看板は、 寂しさを呼びかけているようでどきっとした。

新潟駅。上部には青い字で「新潟駅」と光っている。 夜の新潟駅。三脚なしなのでぼけた。脇に何かはさむといいのだが…。

  駅へ戻った。もう10時になった。改札前も人が少なくなっていた。 電光掲示板にはまだ普通列車しか表示されていないが、 もう少ししたら「急行きたぐに」が入線するので、 そのときは列車の中に入ってみようと考えた。 「ムーンライトえちご」の車内で飲む物を改札近くの売店で買って、 さっきの待合室で座っていると、「急行きたぐに」の案内が流れた。 数人の人が待合室を出て行った。中にはキャリーを引いている人もいた。 あれに乗れば東海道本線を乗り継がず早く帰れる、 もし乗るとしたらいくらかかるだろうかと考えたりした。

  「きたぐに」の寝台車両の前へ行くと、30代の男性が方向幕を撮っていて、 そのあとは中へ入り次々とカーテンを開け撮影をしていった。 すでに撮影するポイントを決めていて、かなり手際よく撮影していたが、 なかなか終わらない。その人が写り込むのを避けるため、 寝台車内の撮影ができなかったが、別に気にしなくてもよかったものだ。

  変わりゆく方向幕を見ていると、意外なものもあっておもしろかった。 この「きたぐに」の見学はここでムーンライトえちごを待っている人たちにとっての ちょっとしたイベントになるかもしれない。 客車A寝台は1両、電車三段式の寝台車は4両連結されていて、 その上段と中段は、通年では寝台料金の中でもっとも値段の低い5250円となっている。 急行料金は、終着の大阪 (6:49着) まで乗るなら201km以上だから1260円。 新潟から魚津までおおよそ210kmで特急料金が2880円だから、 急行料金というのは相当低い。 この列車はなぜだか自分としては、一応は押さえておきたい、 経験として乗っておきたい列車、という位置づけだ。

「急行きたぐに」の方向幕 きたぐにの方向幕。やはりこれは自然と押さえてしまうポイントとなっている。

「急行きたぐに」の洗面所 5両目の電車三段式車両の洗面所。ホテル並? 液体石鹸もしっかり充填されていた。

夜の新潟駅ホーム きたぐにが出て。

 きたぐにが出てからは、そのまま、そのホームで待つことにした。 ホームの長椅子には、山帰りの4,50代ぐらいの男女が10人ほどかたまって、 にこやかに談笑していた。座りきれず椅子の周りに仲間が何人か立っている。 その談笑の輪の脇のほうを歩いていた仲間の女性の一人が、 近くに立っていた、缶ビールを手にしているもう一人の仲間の男性を見て尋ねた。
 「あら、もう飲むの?」
 「あっちではもうやってますよ。」
  ちらっとにぎやかな長椅子のほうに視線を向けた。
 「私は乗ってから飲もうと思ってたんだけど。」
  と、尋ねた人は笑って言った。
  その昔、京都駅から出る普通・柘植行きに、 ちくわとビールを持って入る仕事帰りの男性たちを 向かいの雑踏のホームから見た人が、あんなことをやってみたい、 と私に言ったことがあるのを思い出した。 というのも、柘植行きは特急列車専用ホームの0番線から出るのだが、 そこは、向かいにある上り東海道本線のホームの雑踏とは趣を異にしていたのだった。 惹かれるのもむべなるかなである。
  きたぐにやムーンライトえちごの停車するこのホーム、 ここもそんな風に今、見つめられているのだろうかと思った。 いま新潟駅の1番線には、いたずらに乗る列車を遅らせている人もいて、 長椅子はそんな人たちで少しまばらに埋められている。

ムーンライトえちごの方向幕 ムーンライトえちごが入線。 はじめは女性専用車両の方向幕を撮ってしまったかと思った。 横にいた人も、私と同じように方向幕を撮影していた。

  23時を回って、夜も深くなってきたところ、ムーンライトえちごが入線してきてくれた。 長すぎる退屈もすっかり消えて、心は蘇った。 やはり夜行列車はいつでも心がすがすがしくなる。 自分で指定券を再度確認して、席に着く。車内はまだ人の出入りが激しい。 窓から先ほど見ていた長椅子のある1番線を見る。 なんとなくうれしい。とにかくいかにして快適に過ごすかを考える。 まず靴下を替えて、必要なものをサブバックに移して、 リュックを網棚に上げる。スリにも注意してサブバックの配置を窓側にして、 もち手を足に引っ掛けた。リクライニングはあまり深くできず、 楽ではなかった。また座席番号が1で、妻面の壁に当たり、足が伸ばせない。 しかし2席に1人の割合だったので、横の席も使えて助かった。
  すぐ前に扉があり、開け閉めが激しいからうるさく感じた。 次回からはここに座らないようにしよう。 斜め後ろには欧米系の金髪の女性と男性が座っている。 女性が下は黒のスパッツ一丁になってリラックスしているのが、 倒した座席の隙間から見えてしまい、目が合わないように注意した。

ムーンライトえちごの座席の様子 先頭の座席の様子。

洗面所 洗面所。石鹸がちゃんと入っていた。

  いよいよ発車。新潟駅のホームの蛍光灯が点々と流れていった。 数分後、車掌が切符を切りに来た。 この車両で最初に車内改札を受けたのが自分。 その次は隣の列の人だったが、まったく切符を持っていない人だった。 車掌はかなり丁寧な対応で、とりあえず禁煙車両希望でないことを確認した上で、 確実にあいている喫煙車両にその人を移した。
  夜の車窓はおもしろくないことに数分で気がついて、眠り始めることにした。
  減光されて、12時過ぎぐらいに寝入ったと思う。車掌も静かに扉を閉めていた。

夜の東三条駅 車窓から東三条駅を。

3日目

新宿駅で

  4時30分ぐらいに目覚めて、そのまま起きた。 列車は山手線に入る前から相当減速しており、時間を稼いでいるかのようだった。 日が昇りきっていない薄青い空の下、人もまばらな目黒のホームなどを過ぎていった。
  5時10分に新宿駅に到着。 ここで5時18分発の山手線の列車に乗って東京 (5時48分) まで行き、 6時7分発の快速沼津行きに乗ればよかったのだが、 それを思いつかず、6時40分新宿発の快速平塚行き乗ることにしていた。 東海道本線を下るのにこんなまずい列車を選んでいた。 そういうわけで、ここで1時間半、時間をつぶした。

新宿駅のホーム 向こうのホームは既に満員電車が入線してきていた。

  新宿駅は改装中で、印刷してきた構内の地図とはまったく異なっていた。 その地図に「アルプスの広場」と表記されているところがあって、 行く前は、どんな雰囲気のところなんだろう、きっと癒しの空間に違いない、 と想像を膨らませていた。そしていま地図を見ると確かに自分は「アルプスの広場」 にいるはずなのだが、それらしい広場ではない。 どうやら工事のおかけで見る影もなかったようだ。そのアルプスの広場あたりから、 中央本線へのホームへの上がり階段があるので、そんな風に名づけられたのかもしれない。 その季節になると縦長のリュックを背負った本格的な登山者たちが 整列していたりするのだろうか。

新宿駅 工事中のコンコース。このあたりは人もまばらで、空港へ行く人などの旅行者だった。 なお、ちょうど私が立って撮影している地点がアルプスの広場だと思う。 右手の青白い光の壁はその面影だろうか。

  当然椅子などもなく、することもないので、外へ出歩くことにした。 新宿南口から広い階段を降りて、大きな道路に出た。 旅行者の恰好なので、早朝の見知らぬ都会を歩くのは緊張した。 駅から離れないように左に折れて歩くとマクドナルドへの道案内の看板が見えたので、 そこへ行って朝食をとることにした。
  指示に従って歩いていくと、高架橋の下をくぐり、 明かりのともる看板を店先に出しているビルが並ぶ、細い道を行く。 何となくあまりよいところを歩いていないな、と感じながらも到着した。 とにかく新宿駅もその周辺も工事だらけだった。 席につき、食べ始めるもなかなか落ち着くことができない。 ほんとうはここでゆっくり時間をつぶすのがいいはずなのだが…。 数席となりの人は勉強していて、別のボックス席では10人近い、 ここが地元と思われる若い男女がにぎやかに談笑していて、 アスキーアートはかわいい、などと女の人が言っていた。
  食べ終わるとさっそく店を出てしまった。 駅の最寄の出入り口は新南口だった。すぐそこへ入っていった。 とりあえずグリーン券を買おうと思って、窓口を覗きに行くと、 開くのは6時からだったので、それまで新南口付近のコンコースで待つことになった。 ほんとうは駅構内の自販機で買えるそうなのだが、このときは知らなかった。
  みどりの窓口が開くと同時に、熱海までと言わず平塚までと言って、 グリーン券を買った(950円)。 どちらまででも料金は同じだが、これで熱海までグリーン車で移動するのは なんだか気持ち悪い。実はここからが失敗の連続である。 しかしこうして必要な切符を買ったら余裕ができて、 新宿駅の周辺をデッキから眺めていた。眺めていただけだった。 むっと密集した雑居ビル群、その麓を見下ろすと、 ダンボールを敷いての生活者が起きて活動しはじめていた。 甲州陸橋も少し歩いた。まだ人もまばらで、 それだけに日中の人出が想われた。

新南口 新南口から甲州陸橋を 新南口と付近の風景。

甲州陸橋 甲州陸橋とビル群。

新南口からビル群を見る 密集するビル群ビルがすごく密集していた。

東海道本線を下る-熱海へ-

  長いホームを端まで歩き、グリーン車両の来るところまで行って待った。
  列車が来て2階に乗りこんだら、紳士ばかりが乗っていて威圧された。 ロングシートでも座れればまだいいのだが、つり革には耐えうる力はもうない。 車内改札を受けて、天井のダイオードを赤から緑にしてもらった。 グリーン券情報の入ったSUICAを天井のパネルにタッチするとライトが赤から緑に変わり、 改札の手間を省いているのだという。窓にロールの目隠しがついているが、 あれがないとホームの人たちの視線の熱さを避けられない。 2階は静かで、その造りや走行音の感じが新幹線を思い出させた。 平塚に近づくにつれて周りに人がいなくなった。

グリーン車内を後方から グリーン席を横から
快速のグリーン車両。

  平塚に着いた。中高生と通勤の人々でごった返している。 平塚という名前にはもはや無味乾燥なものしか感じられず、当地の人には申し訳なかった。 すぐに次のグリーン車つき普通列車がやってきた。 値段としては熱海まで950円のグリーン券で乗れるのだが、 平塚までと書いてあるから不安に思いながらグリーン車両を探していると、 時間切れで、列車は出た。東京駅から沼津行きに乗っていれば、 こんな愚かしいことにはならなかっただろう。
  こうして、次に来た普通列車に乗り、小田原までの20分間つり革にぶら下がった。 この列車にもグリーン車両があるはずなのだが…。 書いていてこれが自分自身だとは信じたくなくなってきた。 小田原でロングシートに座り、特急が遅れたため根府川駅で待ち合わせの停車時間が 5分より延長された。ここで降りて休もうとも考えたが、結局しなかった。 乗っていて体がとにかくしんどい。 列車を乗り継ぎの旅の3日目はこんな感じで悲惨さを極めた。 熱海駅に着くと、乗り継がず、改札を出て、駅前で休んだ。

熱海駅駅前 熱海駅駅前。時計と駅名表示が離れている。

熱海駅の北側の斜面 斜面に建物がたくさん建っている。眺望が良いのだろうか。

熱海駅前ロータリー このロータリーの奥にはホテルと旅館がひしめき合っていた。

  駅前は建物のせいか、夏なのにやけに日陰がちだった。 ロータリーの脇に入ると昔ながらの土産物街があり、 こんなところをゆるやかな気持ちで歩いてみたかったと思った。 東海のあこがれである。しかしこの心境からすると、 それも到底かなわないことであった。 すぐ近くのファミリーマートでパンを買って、 日陰にある木のレンガ囲いに腰掛けて食べた。 そういう人がほかにもいた。   熱海の海も見なかった。食べ終わると、 しっかり休憩できたぞと自分に言い聞かせ、 いやに人の多いコンコースから改札を抜け、再びホームへと向かった。

東海道本線を下る

  なお、私の今回の旅行はここでほぼ終わっている。 まださらに下って帰らなければならないのになぜ…。 それは、もうこの後はほとんど気力が残っておらず、 何も考えぬまま、運ばれていったからだ、といえばおおげさだが、 もう疲れ果ててしまい、ひいては飽き疲れてしまっていたのだった。

  熱海駅のホームに上ると、多くの人たちでごった返していた。
  豊橋行きに乗った。これは後ろ4両を静岡で切り離す列車だった。 何度も女性の声でその放送があったのだが、 何を言っているの全くかわからなかった。 ほかの人たちもわからなかったらしい。というのは…。 私の座っていたコンパートメントに、 豊橋まで行く予定の若い3人グループが、あとから座って来たのだが、 どうしても仲間内で座りたいらしく、まるまるひとつ空いたコンパートメントを探していた。 彼らはピザポテトを回して食べながら、 駅に着いたらどうやって愛知万博に行くのかわからない、 着いたら電話して聞こう、電話すりゃわかるでしょ、というようなことを話していた。 彼らがいっさいの予定を立てず18きっぷ片手に愛知万博に行くのは まず間違いがなかった。これは請合ってもいい。 やはり会話しにくかったのか、そのグループのうちの1人が別の車両を偵察してきて、 まるごと空いているシルバーシートのコンパートメントを見つけたとの報告がもたらされ、 その3人はそこへ移動していった。 しかし、そこも後ろ4両の座席には変わりなかったので、 静岡に着き、前の車両に移動して行かなけれはならなくなったとき、 彼らは「もう最悪!」と叫びながら、移動していった。 というわけで、あの例の車内放送が他の人もまったく聞き取れていなかったと わかったわけだったが、私はというと、 彼らが消えてからの8.9回目の放送の後でやっと内容がわかり、 富士駅で一旦ホームへ降りて、後ろから5両目の車両に移動したのだった。 一旦ホームへ出なければならないのは、その5両目の車両が運転台つきだからだ。 私が移動してきたその車両には小さな時刻表を持った人もいて、 同じ18きっぷの旅行者だと思った。さすが切り離しを知っているだけはある。 車窓は由比あたりで、高速道路と太平洋が見え、明るい海をちらっと見ることができた。 今となっては、次回はこの明るい太平洋をゆっくり見たい、と思えるが、 そのときは横たえる骸 (むくろ) だった。

  豊橋からは新快速の大垣行きに乗った。座れずに立つ。 一駅一駅乗り越える思いで耐え忍んだ。 名古屋で座ったが眠ってしまい、大垣に着いたのに気づかず、 目覚めたら逆方向の穂積駅に向かっていた。 降りる駅で乗り越してしまうよりずっとたちが悪く、 このときは心底自分を呪い尽くした。もしかして帰ることができないのか、と思ったりした。 このときだった、もうこりごり、二度とはできない、と思ったのは。 また、自分は車窓を追求できないと悟ったのもこのときだった。

  大垣から米原までは山裾を縫い、国道と併走し、 いかにも関所越えらしくておもしろかったが、 日が窓から差し込みまぶしかったので遮光してしまった。 米原には新快速待ちの旅行者がたくさんいて、プラットホームの駅弁屋も繁盛していた。 新快速が到着。皆どやどやと乗り込み、ほとんど座席が埋められた。 車窓は見ず、どんよりしながら前の背もたればかり眺めて 2日前に旅を始めた駅に転げ落ちた。 埃っぽい熱気、いつもの構内放送、帰宅する人々…。 見慣れた駅の夕日がやたら自分をおそろしく映し出すようだったので、 足に力を搾り出して足早に駅を去った。

おわりに

  これで北陸海岸紀行は終わり。 近畿から富山、親不知、糸魚川、直江津、そして青海川、鯨波、新潟。 ムーンライトえちごで新宿まで行き、東海道を下って近畿へ。 初めにしては大きすぎた旅だったが、 のちのちの旅の方向性を探るとてもいいきっかけになった。

  反省としてこの旅行記を書き起こし読んでみると、 2日目の午後から3日目の最後まで、かなりひどい旅をしている。 その引き金となったのは、 新宿駅でムーンライトえちごに最短で接続する普通列車を 予定を立てるときに見逃していたこと、 そして当日そこで平塚までのグリーン券を買ってしまったことだった。 この二つこそが苦行のはじまりになったのだった。 それ以外には、もっと途中下車して休まなかったこと、 十分に昼食を取らなかったこと…。

  新宿駅での間違いは、適当にしか調べていなかったからだった。 慣れていないことも重く響いた。 なおグリーン券はみどりの窓口だけではなく 駅構内の自販機で買えると後で知った。 だからわざわざ窓口に行かなくてもよかった。 車内でも買えるが、今回の場合もしそうしていたら、 950円ところが1200円になる。 本来的にグリーン車が必要な人にとっては、たいして差がないのかもしれない。
  途中下車ができなかったのは、予定に含まれておらず不安に思ったからだった。 やはり、この辺は経験がものをいうのかなと思わされた。 別にその駅に惹かれなくても、もういい加減このあたりで休憩しないとつらい、 と思うぐらいの事態になったら、体を休めるためにも降りればよかった。 夏なので暖房が必要なわけでもないし、冷たい飲み物でも飲んで、足を動かして 気分転換するなどの方法があった。 乗車時間を2日目から勘定すると、東海道を下っているときには、 すでに10時間を越えていた。でもこれだけの乗車が続くなら、 やはり予定を立てるときに、ちゃんと休憩時間をとっておくべきだった。
  一人旅ではなぜか食事をいい加減にしてしまう。 3日目の昼食は熱海駅前のベンチでコンビニエンスストアで買った パンをかじるというものだった。列車に揺れ通され、熱海で投げ出され、 そしてコンビニのパン、それでは駄目だった。

  先に挙げた失態を差し引いたとしても、 今回の旅は、車窓の旅は自分に向いていないのではないか、と悟る旅にもなった。 行く前は、車窓だけの追求もしたかったから、 目的地のある旅と、車窓の旅を組み合わせて予定を立てたのだった。 目的地は、親不知駅と親不知ピアパーク、投宿する直江津の街、 そして青海川駅と、青海川駅から鯨波駅の間の景勝地だった。 車窓の旅としては、発駅から親不知まで、鯨波から新潟、そして東海道を下ることだった。 今回、私は駅や目的地に行ってそこをじっくり見るという旅の方が向いていると 思ったのは、ほかにも降りたいという気持ちがあるのに、 そう予定を立てていないからできない、 という状況にはまってしまうことが多々あったから。 しかしこの後、ほぼ完全に下車派だと気付くのはもう少し後になってからだった。
  しかし最も大きな理由は、乗り鉄とも呼ばれうる車窓の旅が、 目的地に着くまでには避けられない車窓を延長したものとは違う、 と気付いたことによる。目的地への移動の際に味わった車窓の魅力を、 もっと長い時間味わおうと思い、こんな計画を立てていたのだった。 それで特に下車駅を予定していない乗りっぱなしの2日目以降は、 車窓にも興味がわかず、ほとんど列車に身をまかせっきりとなった。

  今後は車窓だけを追求した旅をしないだろうけれど、 いろいろな人が楽しそうに紹介してくれたことをこうして実現できてよかったと思った。 やってみないとわからなかったし、散々だったが後になってみれば、 東海道で得られたイメージにすら日常を救われることもあった。
  いろいろ知って、どんな都市においても列車を乗りまわしたいものだ。 そして近いうちにまた北陸に踏み出したい。 親不知の白波が小石にとけ込む音が、まだ耳に残っている。

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