夏の北陸海岸紀行-青春18きっぷを使って-

夏の北陸海岸紀行-青春18きっぷを使って-

はじめに

  この計画は約半年間温め続けたものだった。行きたくて仕方なかったはずなのだが、 青春18きっぷを用いて一人旅をするのは初めてなこともあって、 最終的な決心がどうしてもつかず、 切符の有効期限も迫った8月下旬になるまで出発の決断を遅らせていた。 切符を買ってからも、買うんじゃなかったとか、やはり転売しようかと考えたほどだった。 旅の途中でも、来てよかったとか、もうこんな馬鹿馬鹿しいことはやめようかと、 気持ちが二転三転して、自分の心境に自身が振り回されて疲れを感じたこともあった。 帰りなんかは自分にとって腹立たしい間違いを犯してしまい、 その列車の中でもうやめよう、と誓ったりもした…。 しかし帰途に着き、布団を敷き横になると、 また地図と時刻表のページを繰っている自分がいた。 日常生活に戻っても、ときどきぼうっとして、あの光景がよみがえっている。 どうやらじわりじわりと効果が現れているようだ。 やはり行ってよかったと思う。 そしてこれから次回のための計画をゆっくり立てていくことだろう。

  さすがは初めてのことだけはあって、 今回の旅行は失敗した部分もたくさんあった。その反省は最後に書きたい。 さて、はやく今回の旅行記を写真を交えて紹介してしまおう。 おおよそのルートは琵琶湖線を北上し、北陸本線を北上し、 親不知で下車、直江津で投宿、翌日は名立や鯨波に足を運び、 新潟駅まで行ってムーンライトえちごに乗り新宿まで、 あとは東海道本線をひたすら下るというもので、 2005年8月31日出発の2泊3日の行程だった。 この旅は車窓だけの旅行ではなく、 いくつかの目的地を定めて下車し、歩く旅でもあった。

旅行記紹介

出発の数日前から

  ムーンライトえちごの指定券を購入したが、帰って座席番号を見ると 車両の一番前の座席になっている。足が伸ばせないことや、 座席からモーターが近いことを思い出し、後日座席変更をしてもらおうと思ったが、 結局出発前にはできず、旅先で降りた駅でしてもらおうと思うも、 のばしのばしになり、最終的には座席変更はしなかった。
  また前日は、デジタルカメラのメモリーカード256MBを買い、 インターネットで天気予報を見て、一通り準備をし、 床に就くと、今回の計画に極度の不安を抱き、深く後悔しはじめた。

青春18きっぷ 青春18きっぷ。今回使用したのは2回目から4回目の部分。

新潟から新宿までの指定券 新潟から新宿までのムーンライトえちごの指定券。平日の9月1日なので310円。

メモリーカードと切符 出発前の机。

1日目

米原まで

  予定通りの時間に起床して、再びネットで天気予報をチェックした。 ちょうど自分が行くとこ行くとこ晴れ、となっている。

まだ薄暗い旅立ちの駅 夜明け前の駅。ここから旅を始めた。

  出発駅の有人改札はまだ閉じられていて、車内で入鋏してもらうことになった。 駅の改札ではんこを押してもらえる、と思い込んでいたため、 このできごとに早くも不安をおぼえる。
  この駅の上りの始発が5時45分発普通米原行きで、 この列車に乗り遅れると親不知に着くのが15時になってしまう。 13時には着きたいと思っていたから、この列車を逃すわけには行かない。 明け方の静かなホームには、真夏の日中のきつい日差しはまだなく、 あらわになった腕には少し肌寒さを感じたが、 ここの夏らしい湿った空気がまとわりついていた。 予定していた列車はホームにすうっと滑ってきた。 無事乗り遅れず乗り込むことができたが、 車掌のいる最後尾と、自分の乗り込んだ車両の間には運転台つきの車両があり、 列車内から車掌のところへ行けない。 もちろんできるだけ後ろの列車に乗って早くはんこを押して もらうことが必要なのはわかっていたが、 駅で最後尾の車両の停車位置に感じの悪そうな人がいたのでやめてしまった。 なんとか途中の駅で運転台を挟んで車両を移動し 車掌のところへはんこを押してもらいに行くと、 車掌は次の放送案内に焦りながら、どこまで行くかと訊いてきた。 なぜそんなことを尋ねられるのかわからず、親不知までと言ってしまった。 今振り返ると恥ずかしいが、そのときは、 車掌はすぐに、米原まで(ですね)と言われ、 このときになって質問の意味がわかり、失敗したと思った。 車掌は忙しかったため、いったん切符を預かり、 私が下車するまでに座席まで届けるつもりだったのだ。
  どんより雲が垂れ込めている平野を進み、米原で降りる。 この列車はここで切り離されて長浜行きと米原止まりとに分かれる。 少し時間があったので、駅へ降りて駅舎内を歩いた。 この駅に来たのはおよそ9か月ぶりだった。

米原駅の新幹線改札口 米原駅の新幹線改札口。向かいの弁当屋も開店したばかりだった。

富山まで

  大垣方面の列車と敦賀方面の列車が停車するホームに行って、 白地に青い線の入った417系の3両編成の前にしばしたたずんだ。 乗る列車は確かにこれだ。方向幕を見ると粗いLEDで「富山」と表示されてある。 ちょっと妙な改造に思えた。 ふと脇に声の荒い元気なおじいさんが現れて、 この列車を指差しながら自分の妻らしい人に向かって、
 「これで富山まで行く。そう、これで。」
  と決意のこもった口調で言い放っていた。どこか得意げだった。 それもそうだ。昔のこの急行型列車で、一つも駅を飛ばさず、 236キロも北陸本線を走るのだから。列車に乗り込むと、 だいたい1コンパートメントにつき1人か2人という割合で座席が埋められた。 登山者や旅行者もいた。例のおじいさんは後ろの方に乗っていたが、 話し声が自分の居るあたりまで聞こえてきていた。 ふと女性が何か困った様子で話しはじめた。
 「これ、なんで鳴らないのかしら。おかしいわね。電池切れかしら。 ちょっと見てくださらない? これ。」
 「どれ貸してみ? ……ほらぁ、ホールドになっとるだぎゃあ! ほらぁ。」
  名古屋から来たのだと思った。それにしても本当に名古屋の人は「ぎゃあ」 というのだと思った。しかしこの米原という駅には、 ほんとうにいろいろな方面から人が集まってくるのだなと思わされた。

米原駅のホーム 出発前の車窓から

  列車が出るころになると後ろのほうはやや静かになった。 発車前になって人が増えたということも関係していそうだった。 列車は静かに雲に覆われた湖北地域の寂しい駅に停車していく。 人はほとんど乗ってこなかった。
  いよいよ近江塩津に到着した。 あじかまの宿と呼ばれる駅舎と長いホームがある乗り換え駅だが無人駅 という特徴的な駅で、昨夏も訪れた思い入れの深い駅だ。 この駅を過ぎると次はもう福井県に入る。 滋賀から見れば、福井県は北陸地域の玄関であり、その名を聞くと、 あの独特の北陸の町のはじまりを想わせる。滋賀から福井に行くと、 同じ距離で違う地域に行くより、遠くのまったく違う町に行った気になれるのだ。 新疋田から北上するにつれてますます人が乗ってきた。北上し時間が経つにつれて 通勤通学列車に変容していくためだ。私の見える範囲にあるコンパートメントはどこも 完全に埋められ、ほかの座席もあいていないようだった。 武生駅、鯖江駅と停車するたびにホームの様子を窓から眺めると、 北陸に来たという思いが強くなった。ホームの白塗りの柱や、上屋から吊るされている、 さまざまな色を用いた明かりのともる広告看板が、北陸の駅の特徴を出しているからだろう。 こうして重い雲の深く垂れ込めた北陸本線を福井へ向かう。 この雲は、私の一人旅の始まりにあってふさわしい気がした。
福井駅に近づくにつれて車窓から中心部の様子が見えてきた。 感じの古い直方体のビルがほぼ同じ高さで立ち並んでいるのは福井市中心部の特徴だろう。 かつて私が地元を離れ初めて訪れた遠くの地が福井であり、 その後何度も訪れたこともあったが、最後に訪れてから4年近くたっていたため、 懐かしい思いで町の様子を眺めていた。 しかしかなりビル群の古そうな外観には驚いてしまった。 高架化されたことを思い出しつつ、福井駅に到着した。 窓から外を見ると、ステーションビルの取り壊された残骸とフェニックス通りが見えた。 ステーションビルはいい感じが出ていて、好感を持っていたが、 結局再訪することができなかった。遠いこの地に来て、母子でそこの飲食店に入った夜の、 遠い日のことをおぼろげに覚えている。 記憶にはこういう印象的な一シーンだけが鮮明に残っていることがあるものだ。

  福井駅を出ると、いかにも前線を通過したといった感じで、がらりと天気が変わった。 列車は厚い雲の崖を遠ざけ、どんどん晴れ空の下へと入っていく。 長距離の普通列車の旅で味わう、こんなふうな天気の変わりようは、 なんともいえない、とてもうれしいものだった。 あらためて見回すと、車内はすいていて、 外は太陽の光に包まれたのどかな風景に変わっていた。 米原から1時間37分。 列車はある区間によってその列車の役割が変わるというより、 時間の上に走っているがためにその時間的な変化を受けるという思いを持った。 のどかのな風景もいつしか森に変わって、牛ノ谷駅に停車。 列車は大きく右に傾いて停車している。峠になんとかこしらえた駅だろうか。 左側に座っているから、私に見えるのは木立と緑豊かな蔦ばかりだった。 やがて再び列車は平野を走った。もう曇り空を見ることはなかった。 峠、平野、峠、平野…。列車は一駅ごとに停車しながら、 北陸の私の知らない街を走り、窓に映し出してくれる。 途中トイレに行ったところ、そこには古いけれども割と広い洗面台があった。 ここで女性は化粧するのかもしれない。 座席に戻ってからは、持って来た地図を再び見ながら車窓を見て楽しんだ。 窓からは並走する国道8号線、北陸街道が見えた。盛夏は過ぎたといえども、 日差しはきつい。しかし車内は冷房がよく利いているため、 外の風景には親しみさえ覚えた。 列車は石動、小松、そして美川、と、どんどん東進し、 天気も変えて、遠いところへ私を運んでゆく。

  16分間停車する金沢駅に着いた。 なぜか都市に着くと遠いところへ来た気持ちが少し薄れる。 それは都市と都市を直接つなぐ交通が発達していることが潜在的に影響していると思う。 金沢駅ではいったんホームへ降りて構内を見学してみることにした。
  金沢駅はあわただしい時間ももう過ぎて、 人も多くなく、何かに急かされるような感じはなかった。 やや暗めの高架駅で、屋根の下にホームがいくつか並んでいた。 横壁の窓から差し込む光が印象に残っている。 階段を下りると中二階で、どこか高級感がありきらびやかだった。 さらに階段を下りると改札口だったが、時間も16分と短いから出なかった。
  この金沢駅で1時間5分待つと、この駅始発で直江津行きの普通列車に乗れるのだが、 その列車は富山駅に30分間停車する。 しかし乗ってきたこの富山止まりの列車に再び乗れば、 富山駅では次の列車まで1時間半あり、富山駅でゆっくり休める。 そのため、金沢駅では乗ってきた列車に再び乗るよう計画していた。

金沢駅駅名標と乗ってきた列車 乗ってきた列車。向かいにはサンダーバードが停車していた。

列車の最後尾 列車の最後尾。左の窓からは金沢駅裏口が見えた。 ホームにはキオスクとそば屋もある。

階段踊り場 改札口 金沢駅の駅舎内は乗り場と違って明るくきらきらしていた。

金沢駅ホーム ホームへ戻るとサンダーバードがいなかったので、 乗り場の様子がよく見取ることができた。

  金沢を出て、倶利伽羅峠駅に到着。また峠にさしかかった。 左側に座っていたため、駅舎の様子がわからない。 気になる駅だったので、次回降り立ってみたいと思った。 しかし地図を見ると、駅から史跡倶利伽羅峠までは歩いていくには少し遠いようだ。
しばらくするといつ間にか乗ってきた、 同じ車両の先頭部分のロングシートの前にあるつり革にぶら下がりながら 大きな声で「先輩」と話をする若者のがいて、しゃべり声が耳障りになってきた。 つり革にぶら下がって体をくねらせている…。 また停車のたびに先輩と一緒に座れるコンパートメントを探すべく 3両の車両を行き来するので私は落ち着くことができない。 今度は音楽をかけはじめた。 私は車両の真中より後ろよりに座っていて、それでもよく聞こえたのだから かなり音量が上がっていただろう。 どの車両もロングシートしか空いていないことは予想できたが、 富山駅まであと少しということや、車窓を見るにも疲れてきたこと、 そして高岡駅で6分間停車するということもあって、 高岡駅に着いたときに、一旦列車を出て足を伸ばし、その後戻るついでに移動することにした。 このように、より過ごしやすい環境に移動したりするのは、ときどき億劫になるのだが、 成功すると、やはり快適で、妙な達成感がある。 なおこの列車は、高岡駅で後続のサンダーバード3号と待ち合わせするのだという。

  高岡駅のホームに降りると、 ホームも構内もとても広いのに、ほとんど人がいない、ということに驚かされた。 そしてその構内がまた、なんとも言えない古めかしい、懐かしいものだった。 ここは一体どんなところなのだろうか、と不思議な思いがした。 ホームを少しばかり歩いてみると、いろんな色の特急乗車口の吊り下げ札が並び、 長旅の実感が胸に突き上げてきた。長い距離を歩んできただけでなく、 時間をも遡っていたのだった。高さに時間の進む速さを取ったとすると、 この旅は長い滑り台を滑るようなものでもあった。

高岡駅のホーム 高岡駅。どのホームにもほとんど人の気配はなかった。

高岡駅駅名標。食都・氷見の宣伝板。 氷見は食都として宣伝しているようだ。

  待ち合わせた特急に乗っても、 富山駅に着くのはこの普通列車より10分早いだけだった。 そんな特急列車の発車ののち、私は列車の方に戻り、 さっき乗っていた車両より一つ後ろの車両のロングシートに座った。 列車は再び出発した。富山まであと数駅なのは知っていたが、 あと20分というのは知らなかった。 退屈したので持って来た本を読むことにした。

  富山駅に着いた。1時間19分休憩できるこの駅を待ち望んでいた。 大昔に来たきりで、懐かしさも期待していた。 お昼時で、どのホームにも人は少なかったが、改札口を出たコンコースは、 混雑さえしていた。大きなザックを背負った、 本場アルプスに近いところから来たような風貌の人もいた。 そんなコンコースを足早に抜け、駅舎の外へ出た。

富山駅駅名標 富山港線の岩瀬浜が乗り換えに案内されている。

富山駅ホーム  

富山駅の地下通路 お昼なので人がいない。

駅前の様子 ここに来たのは13年前。なんとなく親しみが持てる駅前だった。

駅舎を向かって左から JR富山駅と掲げられた薄い桃色の駅舎正面  

ガラスが多く用いられたビル  

富山地方鉄道の駅舎 改札口 富山地方鉄道の駅舎と改札口。

  私にとっては、残暑といえば夏の疲れ果てた重苦しい湿度のことがすぐに頭に浮かぶが、 この日の富山はまだすがすがしい夏の盛りで、日がかんかんに照りつけていた。 しかし今思えば自分の住んでいる地域と湿度が違うのだった。 横断歩道を渡り駅前の大通りを歩き回ったり、 駅前に戻って見て回っているとそれがよくわかった。 富山駅前に来たのは13年ぶりだったが、ほとんど憶えてなくて、 知らない街を初めて見たのと同じだった。 時間は思いのほか速く過ぎ、 次に乗る電車に乗り込まなければならない時間になった。 昼食は計画では親不知ピアパークでとることにしていた。 富山駅に戻るとき、駅舎の入り口で黒のスーツに身を固めた やくざの集団に出会ったことは忘れがたい。 なおこの日は8月31日で、翌日からは越中風のおわら盆が始まるため、 明日からは富山駅利用者全員に整理券を受け取ってもらうという放送が流れていた。 これは時刻表にも書いてあったが、出立の日を決めたときはこのことを忘れていて、 万一一日ずれていたら恐ろしい混雑に巻き込まれていたかもしれなかった。 駅前では桃と白色を基調とした舞台も設定されている最中で、宣伝ポスターも頻繁に見かけた。 時刻表の臨時列車を見ると、特急おわら2号 (運転日9月2日から4日) がおもしろい。 越中八尾を深夜1時11分に出て、朝の6時29分に大阪に着くことになっている。 全車座席の夜行特急だ。

親不知駅へ

  12時28分富山発直江津行きの列車は、さっき書いたように金沢発であり、 富山を出る時間が迫っていたこともあり、すでに座席はほぼ埋められていたが、 私はデッキに立つのを待ち望んでいたのだ。 列車は富山を出ていったん北に進路を取り、それからまた東へ進んでいく。 滑川のあたりでは、おもしろそうな石がごろごろした、 澄んだ水の流れる川が海に注いでいる光景がときどき窓から広がった。 このような川の様子も富山を越えれば見られなくなる。 男子高校生たちがデッキに座り込んでいたが、入善駅に停まる前になると、 入善って人いっぱい乗ってきたっけ? と友人に訊ね、 相手が頷くと面倒そうに立ち上がって一緒に客室内へと入っていった。 入善ではその戸口からは誰も乗って来ず、何人かの高校生が降りただけだった。 泊までは高校生が乗り降りしていたが、その後はそれも少なくなった。 そして親不知駅に近づくにつれてなぜか心臓が高鳴る。 ホームに入線するときにはほとんど恍惚状態だった。 数駅前のことはもう覚えていない。
  富山から約1時間、米原からおよそ7時間… 列車は13時27分に私をようやく親不知駅へ運び、 列車の短いタラップが、緊張で足元の揺らめく私をホームへ突き飛ばした。 踏み切りの音が聞こえる、海の近いにおいがする、 そしてホームを一気に眺め回すと、降りたのは自分ひとりだけ、 緊張状態が一気に高まり、茫然としたまま列車を見送る。 列車が去るとホームの市振側の先端付近が保線されていることに気づく。 しかし駅舎には誰もいない。 夏山がすぐ近くまで迫り蝉の鳴き声が白い静かな駅舎に染み渡っている。 駅舎の中が少し暗いため、改札口から見える明るい海と高架橋は映画館のスクリーンの ようだった。ホームや駅舎の写真を撮った。電池が切れたので駅舎内の長いすに座り 新しい電池を装填した。

ホームから見た海 ホームから。

駅舎内 駅舎内。

駅舎内 なんとダイヤル式の黒電話が置いてあった。

親不知駅正面  

映画館のスクリーンのような光景 改札口  

水色地に白色の駅名表示 夏は涼しさ、冬は厳しい親不知をよく表している。

  駅舎の深い回廊には、自転車が合わせて十数台置かれてあった。 朝置かれて夕刻まで持ち主に取りに来られない自転車たち。 今は真昼なんだなあと思った。真夏の真昼だ。
  駅舎を出ると鄙びた旧道に出る。 出た正面には山が切り立っていて、そこに観光名所案内の大きな看板や 路線バスの古びた停留所があった。

自転車と踏み切り  

旧道の東を望む 旧道を東へ。

観光案内板 駅前の線路側。駅前は山側にも海側にもちょっとした駐車スペースがあるが、 山側のものはバスのためのものだ。ちょうど私の立っているところがバス停にあたる。

駅前の旧道 旧道を西へ。

親不知ピアパークへ

駅名標と海 駅を離れた。

  いよいよ親不知ピアパークへ向かうため旧道を西へ歩きはじめた。 左には切り立った山の斜面、 右には難所を悠々と跨ぐ人工の巨大な建築物と自然の海という対比、 太陽の照りつける旧道は所々赤茶けた融雪パイプが真ん中に走り、 その道には人っ子一人歩いていない。 まったく見知らぬ道を登っていく。道が緩めの上り坂になっているため、 坂の頂上を過ぎるまで先が見えない。夏の午後の太陽が道をかんかんに熱くしたため、 坂の頂上は揺らいで見える。

旧道を進む  

歌外波小学校 歌外波 (うたとなみ) 小学校。

  山あいのおばあちゃんの家へ向かう小学生が自分に乗り憑った。 その子は以前から何度も両親に自動車で連れて来てもらったことはあるが、 今回は初めて自分ひとりで列車に乗ってやってきたという子だ。 車に乗っているときは風景も早く流れてしまい細かい部分は知らぬままで、 座高も低いため首がだるくなり窓から外を見続けるのをやめてしまうことが多かった。 帰りはおばあちゃんがしつこく引き止めるため夜遅くになり 帰りの車の窓からは外がよく見えない。 しかし家の周りを散歩で連れられたりして何となく周辺の土地鑑があるように思われたし、 地形的がはっきりしていてわかりやすいが不安には変わりない、そう感じている子だった。

  歩いていると左の崖の上に小学校があり、 坂なった入口の前に歌外波小学校と彫られた御影石があった。 歌外波 (うたとなみ) 小学校は130年の歴史をもつ小学校で、 この地区の人たちが代々通った学校だ。 閉校の年度にも、数少ない一年生を受け入れ、 毎年しているように小学校自慢の桜の木の下でお花見をして、 ほかの年となんら変わることなく新入生を温かく迎え入れたそうだ。 閉校は2005年、ちょうど今年の春のことだった。

  この歌地区にまだ子供がたくさんいたころ、親不知高架橋もなく、 親不知ピアパークもなく、このあたりの眼前には歌外波海水浴場があっただけかもしれない。 そこではたくさんの子供たちが夏に海水浴を楽しんだだろう。 小学校にプールはいらなかったかもしれない。 学校から帰ったらすぐに海へ入り、夏休みもしょっちゅう海へ、 そしてときにはすぐ後ろに迫る山へ、遊びまくったのかもしれない。 ときには台風の恐怖もあっただろう。 恐ろしい暴風雨に部屋の隅で縮こまったかもしれない。 今はこうして人影すらない真昼間、列車も自動車道も通過、通過で、 人の出入りなんて昔から変わっていない気がした。 しかしそれは、夏の昼間の、穏やかで安定している時間の流れのもたらす 考えなのかもしれない。静かに何かが変化しているのだろう。
  ここでもやはり子供は減ったのかもしれない。 よく考えると高架橋はかつて子供たちの遊び場だった海水浴場に陰をつくり、 便利な洋上の親不知インターチェンジもできて、あっという間に もっと別の地域の大きな都市へ出られるようになった。 もし私がここに生まれたなら、この高架橋を見て、 もっと華やかなところへ行ける希望をやはり持ったのかもしれない。 レールは確かにはるか向こうまでつながっているけど、駅には特急が止まらない、 高架橋上では高速で自動車が走り抜けてどこか別の都市へゆく。
 「自分も大都会へ出てみたい。大学進学や職業選択のこともあるし…。 それにいつも自分の町ばかり通過されて、通過されて… 高架橋の下だけ時間の流れが違うみたいだ。 自動車の免許を取ったら、いつでもここを出られる、 そしていつでもすぐに戻ってこれる。」と。
  私はこのふるさとにどのくらい戻ってくるだろうか。

旧道を振り返って 振り返って北陸自動車道と国道8号線を見る 旧道を振り返ってみると…。

旧道との合流地点 旧道との合流地点を望んで。

  旧道を進み、ちょっとしたピークを過ぎると、 途中左手により見晴らしの利く道がついている。 三世代の道路を海と共に眺めるにはもってこいだろう。 しかし旧道を振り返るだけでも、難所であることはよく理解できた。
  旧道が下り切ると、国道8号線との合流地点に出た。 脇へ入れば民宿が数件ある集落に行く着く。 本当はこういう所を歩いてみたいのだが、 今は予定していた親不知ピアパークを優先することにした。
  親不知ピアパークはいわば海辺のドライブインだが、 自動車以外で来る人も見込まれて造られたようだ。 私はとにかく海辺に行きたかったので、今は海さえあれば十分だった。

  大型トラックがほんの数台行き交う昼の国道8号を渡り、高架橋をくぐると、 道は海岸線に並行するためにカーブしピアパークの駐車場に行き着く。 8月31日といえども、もっと賑わっていると思っていたのだが、駐車場はがらがらで、 海岸に繰り出しているのは10人ぐらいだった。 このように人ごみに揉まれずに済んだことは良かった。 そして、広がる海に抱かれるべく早足で浜へ向かった。 浜のはじまる少し手前のコンクリートの段には夏の盛りに楽しんだであろう 打ち上げ花火の残骸がごろごろ放置されてあった。

親不知ピアパークの海  

  13時43分、念願の海へ到着。寄せては砕ける波を延々と追ったり、 水平線を眺め続けたり、おもしろい石がごろごろしているので、 気に入るのを探してみたり、海へ投げ込んだり。 周りの人も思い思いにおもしろそうな石やヒスイの原石を探していた。 波が石を洗うのを見続けていると、恐ろしいぐらいの長い時間の流れを感じることができた。

波1  

波2  

波3  

海 このあたりの夏の海の彼方の空は、 たいていこんなふうに少し淀んでいる。

  親不知漁港に行こうと思い、市振側へ歩ききってみたが、 唐突に工事用フェンスに阻まれてしまった。 その向こうは人の数十倍もある巨大なテトラポッドを積み上げている最中で、 立ち入り禁止らしく、入ることはできなかった。ちゃんと監視している人も居た。 また、ピアパークの青海側の端は海水浴場になっているのだが、 もう海水浴をしている人もいないかと思い、行かなかった。 そこは高架橋の陰になっていて、ちょっと変わった感じの海水浴場のようだ。 帰りに旧道からちらっと覗くと、一つか二つ、ビーチパラソルが立っていた。 その海水浴場近くの海岸の大階段がめちゃめちゃに崩落していた。 漁港の改修といい、地震だろうか、波浪だろうか。

崩れた石段

白い二階建ての建物。2階はガラス張りになっている。 レストラン漁火。

  海を離れてヒスイの博物館に行った。入場無料の小さな博物館で、 照明が落とされた品のある館内には貴重なヒスイやその工芸品が飾られていた。 また中に天険親不知のジオラマがあった。 無料だがきっちりしていて、館内も広すぎずほんとうにちょうど良かった。 見終わった後、隣の建物のレストラン漁火で食事。 入口付近で10代後半から20代前半の年若い女性3人ぐらいが 物干し竿に雑巾を巻きつけたものを持ち、 二階レストランの海側の大きな窓ガラスを 下からホースで水をかけながら楽しげに拭き洗っていた。 この町のいちばんの若い女性たちのようであった。
  この建物は2階がレストランで3階が展望台になっている。 展望台に行ってからレストランに入った。 模型の見本を置いていないのがまたいい。 メニューはやや少なめだったが、こういうのも迷わなくてよかった。 外から見たとき、誰も入っていないようだったので、入るのを少しためらっていたのだが、 やはり中に客は一人もいなかった。あとはレジ兼ホールスタッフが一人で、 やはり先ほど窓を洗っていた人たちとほぼ同年代の女性だった。 窓から少し離れた席に着き、風景を独り占めして、 この辺に台風が来たときは景色はどう変わるのだろうと考えながら食事した。 後で知ったのだがこのレストランにはお座敷も用意されているという。 食事が終わりレジに行くと、たいへん丁寧な対応をされてとても印象に残った。 親不知は高級ホテルの林立するようなグレードのある観光地ではないし、 海水浴客も減っていく時代で、ここへ来る前は、 観光業は少しずつ衰えているのかもしれないと思っていたが、 この日は全体的な雰囲気から町のとりはからいといものを感じることができた。 この親不知ピアパークも青海町が建てたものだった。 青海町は広く、しかも今回は天険親不知も見ておらず、 町のほんの一部しか見ていないのだが、 こんなふうに感じられて良かった。なお青海町は能生町とともに、 2005年3月に糸魚川市と合併した。ピアパークへ入る道のゲートにかかっていた看板に 青海町の「町」が消されていてなんとなくさびしかった。
  ここ親不知ピアパークにはレストランと小さな博物館以外にも施設があって、 売店やほかの食事処、子供の遊び場などが高架下に入っていた。 おさかなセンターでは新鮮らしい海産物が売られていて、 浜焼きも食べられた。行ってみると楽しそうなところだ。 店の前では一人、トラックの運転手が魚にかぶりついていた。 駐車場にはトラックが何台か停まってあり、格好の休憩所らしい。 それにしても、こんないいところで休憩する運転手の気持ちはどんなだろう。 ただもう疲れて休めるならどこでもいいと思う一方、 できたらここで、と思いそうなところだった。   以下、親不知ピアパークの施設を写真で簡単に紹介したい。

ゴーカート 子供の乗り物コーナー。1回200円。

レストピア レストピア・売店・食事・休憩所。

おさかなセンター おさかなセンター。新鮮な浜焼きが食べられる。 トラックの運転手がかぶりついていた。

亀 ピアパークのシンボル的存在の青銅のウミガメ「ミリオン」。

糸魚川を経て直江津へ

親不知ピアパーク全景 帰り際に振り返って。

  レストランからの晴れやかな景色とテーブルをあとにした。 時計を見ると15時前だった。 次の列車は15時33分と16時10分、そして16時51分とある。 はじめの1本は糸魚川止まりで、あとは直江津止まりだ。 計画では最初の2本のどちらかにに乗って直江津へ向かう予定であった。 この町の集落などいろいろ見たいものがあったが、15時33分の列車も近いし、 重い荷物がこたえはじめたのか、もうここを引き上げることに決めてしまった。
  駅に向かっている途中、時刻が徐々に迫ってきて、旧道を小走りした。 こんなところに来てまで列車に間に合うように走るなんて、なんとせつないことだろう。 しかし、同時に地元の人が少ない列車を逃すまいと走るときの気持と二重写しになった。

旧道との合流点 合流点を振り返って  

旧道を親不知駅へ向かって 駅は見えかけているのだが、意外と距離があり、走ることになった。

駅名標 駅に着いて。

ホームの古い案内板 ぱりっと割れてしまいそうだ。

  駅に到着。やはり自分以外誰もいなかった。
  ホームに入ってしばらく親不知高架橋と海を眺めた。 昔のここの風景を想像しながら。 これができたために白い砂浜が消失してしまったのだが、 海の見える駅は多くとも、 これだれ鮮やかな自然と人工造形物の対比を味わえる駅は少ない。 高架橋が自然に溶け込む彫刻のようだった。

  仮に私がここで出生しどこか別の地域の都会に生活を移したとしても、 やがてはやはりここへしばしば帰ってきてしまうだろう。 再び生活をここに移すのではないにしろ、 里山も浜辺もない砂漠、あるのは大通りの並木と人工池という街に倦みつかれて、 お盆や正月でもないのに、ここへやって来る。 静かな夜に親不知インターチェンジを降り、実家へ上がり、 少し休んで散歩すると、旧道からは伸び行く自動車道が見渡せる。 コンクリート打ち放しの橋脚と自動車のライトの帯に都会を思い出し、 ふと鼻息を交えて少し笑ってしまう。 「また向こうに戻るさ、で、またここに戻るさ。」 自動車のライトの帯は、ここと都心部をつないでいるのだ。

  しばらくして列車がやってきて、乗り込んだ。 この列車はもともとは寝台列車で、改造され普通列車として使われているものだった。 デッキ付きでコンパートメントも狭く窮屈かもしれないが、 こんな趣深い列車が普段使う列車だと、 毎日の列車移動中にも、何か遠く昔のものがふと垣間見えそうだ。
  乗客は不気味なほどわずかだった。 トンネルに入ると、黄色っぽくなった蛍光灯が、カーテンや朱のモケットを照らした。 まだこんな列車の走っていることを誰も知らないうちに、 自分がふとここに巡り合わせたという気がした。 大海原がちらっと見えた。親不知・子不知を越えた海だ。 もうすっかり遠い海に抜け出してしまったという気がした。

列車内 朱のモケットにチェックのカーテン。カーテンがいい。

車窓から大海原を望む 車窓より。

  15時43分、ほどなくして糸魚川に着いた。親不知から二駅目だった。 この列車に乗った場合、糸魚川駅の改札を出て駅前を見て回る予定だった。 ホームでは高校生たちが次の列車を待っていた。
  次の列車は16時23分なので、 予定を立てた通りに改札を出て駅前を歩くことにしたが、 見る予定だった海の展望台のことをすっかり忘れていて、 ほとんど時間つぶしみたいになった。 駅前を撮った写真にはその看板が写っているのだが…。

方向幕「糸魚川」 「糸魚川」の方向幕。糸魚川駅にて。

糸魚川駅構内 向こうのホームには大糸線の列車がとまっている。どの列車も南小谷までしかいかない。

糸魚川駅正面 糸魚川駅正面。夕刻になり、自動車が多くなってきていた。

駅前の様子 駅前の様子。展望台への案内が出ている。

  また少し歩けば糸魚川の海が見られるのだが、 重い荷物が災いして、また疲れも出てきていて行くのをやめてしまった。 必要なものしか持ってきていないのだが、重い。
  駅の待合室に戻ってカップのリアルゴールドを飲んだ。 待合室にはパンや菓子を売った小さな店が隣接していて、 高校生たちがそこで買い食いして次の列車を待っていた。 列車が来るまであと30分あるが、駅構内の様子をじっくり見たくて、改札を再びくぐった。

特殊列車ののりば案内 「急行きたぐに」を含めると寝台列車が3つも。 駅舎正面に「はくたか」増発の看板がかけられていたように、 ここは特急列車の停車が多い。

  直江津方面のホームの道路側にはバラストを撒く黒い車両が置いてあった。 人がいるのは駅舎のあるこちらのホームばかりで、 それからもじわじわと高校生たちが増えていく。 向こう側の切欠き式の大糸線ホームやレンガ造りの車庫も見所なのだが見に行かなかった。
  結局数十分間立ちっぱなしで列に並んで列車を待ち、やっと列車に乗り込んだ。 座席は予想通り海に背を向けてのロングシートとなった。 もう鬱屈してきていて、目を瞑ったり本を読んだりして直江津に着くのを待つ。 筒石駅で降りてみようかと思ったがやめてしまう。 筒石で一人、中学生か高校生が降りていくのを見た。 もしここで降りていればちょっと体を休められたかもしれないのに、 良い方向に考えられなかったことは残念だった。 明日降りる予定の駅を背に、列車は進む。 明日の感動を取っておきたかった気がした。

  糸魚川から37分後、17時ちょうどにやっと直江津駅に着いた。 寝台特急日本海に乗ると、この駅で車掌や運転士が入れ替わるため、しばし停車する。 日本海に乗ったときは決まって窓の外から真夜中の直江津駅を眺めていたことが思い出される。 地面から腰の辺りまで水色で塗られている柱の並ぶホームを歩き、 階段を上って橋上の改札を出て、北口から駅前に出た。 北口は表口で、そこには体より大きい服を着た高校生たちが群がっていた。 そろそろ夕餉の時刻だった。
  街全体が金色に染まりはじめる、まだ暑さの残る中、 見知らぬ街の見知らぬ道を地図上のイトーヨーカドーに向かって歩き出した。 旅道中でイトーヨーカドー、というところがなんとなくおかしいが、 そこで今晩と明朝の食料を調達する予定なのだ。 コンビニエンスストアよりもこういうところの方が自分には向いていると思った。 それに今日はたくさん買いたかったから。

直江津駅ホーム 夕日の差し込む直江津駅ホームを道路から見て。

  イトーヨーカドー直江津店は2階建てで、1階が主に食料品売り場、 2階が衣料品売り場になっている。さて買い込もうと思うものの、空腹を感じない。 今日は何も食べないでも平気な感じさえする。 たぶん空腹より疲れの方をより多く感じていたことや、 なによりも癒しを受けたことが、空腹への関心事を少なくしてしまったのだろう。 そうとなれば、なお食べておかないといけないと強く思うようになり、 品物をかごに入れはじめた。惣菜の串が1本79円だった。 果実が食べたかったので果物入りの大きいゼリーを買う。 あといろいろ買って、食料調達を終了した。 いったん地平駐車場のある西出口の長椅子に座り、 ぬるくなったペットボトルの茶を飲みながら休憩した。 6歳ぐらいの男の子が母親に連れられて夕日の中を帰っていく。 ここは冬になると雪国だろうから、 そのときはどんな恰好をするのだろうか、 夏の終わるのをどう思っているのだろうか、などと考えた。 直江津っ子のことを考えて浸っていたが、こんなことを考えているのは自分だけで、 どこの人も生活していくことは大変だと考えていることに思い当たると 現実に引き戻されて苦々しい思いになった。

夕日に染まるイトーヨーカドー 夕日に染まるイトーヨーカドー。そろそろ買い物客が増え始める時間だ。

  ここに来る前からモスバーガーが近くにあることを知っていたので 一つ買って帰ることにした。 自分が住んでいる近くにはないので、食べることはあまりなく、 久しぶりに買って食べてみたかったのだ。 いま焼いてもらっているところ。声優さん並に声が優れた人にハンバーガーを渡され、 驚きのうちに店を後にした。

宿泊

  モスバーガー直江津店から少し歩いて18時を回った。 もう数十メートル先に今日宿泊するホテルα-1が見えているのだが、 チェックインするのは事前に19時としたから、まだ行けないと思った。 しかし早く休みたいという思いもあって、足がゆっくりとホテルへ進む。 御館橋 (みたてばし) を上っていくと、眼下に信越本線、北陸本線が見える。 分岐はさらに西にあるから、直江津駅構内の広大さがわかる。 御館川という小さな川を渡る前にホテルα-1上越に着いた。 歩いてきた県道123号からこのホテルに入るとそこは2階になる。 なるべく時間をかせぐため、いったん1階へ入ることができる道路に下りて、 そこから建物に入ることにした。駐車場の自動車はまだまばらだ。
  2階にフロントがあると思っていたのだが、フロントがあったのは1階だった。 入り込んでしまったためチェックインせざるを得なくなった。 少し早くなってしまったのですがいいですか、 と訊くとまったく問題なさそうに返事してくれた。 予定の時間より1時間を切っていたからそう考え込む必要もなかったのかもしれない。 チェックインを済ませて階段で自分の部屋まで行こうと思ったが、 エレベータ横の階段は2階までしか付いていなかった。

  ようやく今夜の我が家に到着。 バス・トイレをチェックし荷物を置いて早速ベッドへ座りくつろぐ。 テレビをつけてみたり、調達してきた食料を並べたり、暮れ行く窓の外を眺めたり。 硬くなった足を揉みながら今宵を楽しみはじめることにした。 なお、このホテルではピザーラのピザの出前をとることができるため、 メニューが置いてあった。ホテルからピザを注文、 というのを今度はしてみたいと思った。

机の上に並べられた食料 買ってきた食料の一部を並べてみた。 少し暗く移っているように思えるが実際の照明もこんな感じだった。

ユニットバス チェックしたユニットバスの様子。リンスとボディーソープがカーテンに隠れている。

バス バスはまあまあゆったりとしている。

  この時間帯になって気がついたが、ここは夕日が沈むのにさえぎるものがない。 そのまま海に沈む。そのせいか、赤に近い橙の光が街にあふれている時間が長い気がした。
  遠い地方に来てテレビを見るのは、 ひとえにこの地方限定のコマーシャルを見て楽しむため。 明日の予定は鳥ヶ首岬と鳥ヶ首岬灯台を見るために、 国道8号線を名立駅から有間川駅まで歩くことにしていた。 しかしこの計画は行程が長いため、行く前から不安に思っていて、 今日一日の疲れからさらに自信がなくなって、改めてかなり迷うことになってしまった。 また、そのあたりの地図は昭文社の上越市の都市地図に付いている、 縮尺15万分の1の地図しか持っておらず、 またガイドブックの類を買うのをけちったため、 距離感覚や地形が掴みにくかったこともあった。 このあたりは地図がなくても道に迷うということがないのは確かなのだが…。 この計画を実行に移すか移さないかで、朝起きる時間が変わってしまう。 実はもう、明日の朝は朝遅くまで惰眠をむさぼりたい気持ちになっていたのだが、 せっかく来たのだから行こう、それに鳥ヶ首まで行かないことになっても 名立へ行くことは悪くない、と思い、一応計画通りの朝の5時50分に起きることにした。 直江津6時55分始発の列車で名立まで行くことになる。 そうと決まれば、早く寝ないと、と思い、 寝付くための準備を急いでしはじめたが、やりはじめると焦りを感じはじめた。 忘れぬうちに時計をセットして、もうつまみ食いするのもやめ、 いよいよまともに夕食をとるためカップめんの湯を沸かし、 その間に風呂桶に湯を張った。ゴミ捨てや荷物の整理などでは結構ばたばたした。 こちらではその間に部屋の中を紹介しよう。

ホテルの部屋の様子その一 ドアから部屋に入って見える光景。 机の上と天井の丸い電灯は蛍光灯になっていて、ビジネスでの利用に適応していた。

ホテルの部屋の様子その二 ベッドの手前に小卓と椅子がある。

ホテルのテレビや机 ベッドに座って机とテレビを見る。ニュースは選挙のことを放送していた。

  湯沸かし器はビジネスホテルによくあるタイプの、 金属製のカップを壁に付いた電熱器で暖めるタイプのもので、 このカップの容量が小さく、1.5倍のカップラーメンのお湯を一度に沸かせられるか 心配したが、事前に工夫して量ると何とかいけそうなことが判明し、 ステンレスのカップに並々と注がれた水を沸かした。

調理完了のカップラーメン 無事沸いて調理完了。

バスタブに指定位置まで入ったお湯 お湯張りも終わった。

  食事を終えてから風呂に入った。かなり熱くなってしまい、さらに水を足して入る。 ゆったりはいれて大変気持ちよかった。
  9時過ぎになって床に就いた。 窓からは信越本線と北陸本線の合流地点、つまり直江津駅構内西端を望むため、 列車の音が聞こえ、列車の引き込みが頻繁に見えた。 音はそれほど気にならないのだが、どんな列車が引き込まれているのか気になったり、 寝台列車が見られるかもしれないと思って外を見たりでなかなか寝はじめなかった。 見飽きても寝付けない。たぶん10時半過ぎにようやく寝付いたと思う。

窓の外からの夜景 おそらく8号線沿いの夜景。三脚なしでうまく撮れないが、とにかくおやすみ。

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