播州平野と三木鉄道

2007年5月

  ある年の5月はじめごろ、「三木鉄道を乗りに行って、爽やかな空のもと、遥けき播州平野を歩こう」、と、そこで威を張っている人のいそうな播州平野にはぴったりらしいその滑稽味のある修飾を、頭の中で繰り返しつつ加古川まで行ったのだが、神戸あたりから曇天になりはじめ、そして雨が降りはじめた。予報では晴れで、出発地も晴れていた。どうも寒気による雨雲が明石海峡一帯に残っていたらしかった。そのときはしばらく加古川の、冷たい高架駅の新しい待合室にて、体に熱を感じながら苦しく悲しい思いで待っていたのだが、結局、失意の中、予定を変更して別のところに行った。

  今度こそはとまた5月のある日に出かけた。新大阪にさしかかるころ、淀川がめいいっぱいに流れ輝き、ある旅行者はそれを見て、うわあよく晴れたよな、と言い残し新大阪で下車していった。今日は間違いなく遥けき播州平野を歩けるだろう、とまた繰り返す。
  三木鉄道より、それをきっかけにしてどことも知らない平野を歩けることの方を、楽しみにしていたようだった。

  朝一番から2時間半もいつもの列車に乗り、白いコンクリート輝く高架の加古川駅に着いた。この前来たときと違い、麗しく晴れている。しかしそんなことは別に気に留めていないふうに装って、さっさと皆とともに歩いて階段を下り、新しいが暗く涼しげなコンコースにて大部分の人と別れ、一人で加古川線専用改札を通った。階段を上がると、目玉ばかりが描かれた、努力して寛容になってもやはり趣味のいいとはいえなさそうな電車が停まっていて、早速これを以て播州の性格をなぞらえようと私はしはじめる。でも耳目のうち片方だけでも集めるような話題性はありそうだから、こんなでもたまにはいいといえそうになってきた。

  この時間の加古川線はやはり加古川へ向かう上り客ばかりだから、この下り加古川発ははすっかりすいている。光さしこむ、高架ゆえ展望よい列車内に、運転士による、か細い車内放送がするすると流れる。5月だが朝のためまだ少し肌寒い。しかし確かに播州平野は晴れているぞ。昼ころには暑くさえなるはずた゜。体を固くしながら、そうして鼓舞していると、電車はついにおもむろに滑り出した。もう気動車ではないんだな。遥けき…を見渡しながら列車は高架の坂を下り、地平に同化する。

  わずか数駅のちにある、厄神駅で降りた。加古川厄神は区間列車が多い。そしてこれより先は先細っていくのだった。そうして厄神は真新しい大きな駅なのだが、いつも誰もいない駅となっている。ここで同じ構内に停まっている三木鉄道に乗り換えて、そこ自体は特に名前の付けられていない平野での独り歩きがはじまる。

  1両きりの車内は飾られ、本が置いてあった。しかし廃止の話流れる今は、お客を増やそうと精一杯やってきたと、いたましく映った。

左:乗って来た列車。厄神止まりだったため、折り返し加古川行きになっている。
右:三木鉄道の車両。

左:三木鉄道の車両の運転台前。
右:五月のため飾られていた。子供の注意を引きそうだ。

左:雑誌やコミックが備えられていた。
右:三木鉄道沿線のお寺を案内したもの。利用客を増やす工夫があちこちにあった。

車内に設置された乗車駅証明書発行機。日付時刻と、厄神駅と印字された紙が出てきた。 厄神駅で下車する際や、JR線車内での精算に使う。

  ホームで50くらいの運転士が、知り合いらしい、同じくらいの歳の病院か買い物帰りの女の人と出会った。
 「あらお久しぶりです」
 「おお、こんにちは。」
 「何か廃止になるって話がずいぶん上がってますねえ、もう決まったんですか?」
  すると運転士は突き抜けて明るく、
 「そうです、もう今日の午後の会議で決まります。」
 「え、まだ決まったわけじゃないんでしょ?」
 「いや、もう決まったようなもんです、」
  急に小声で、
 「今日の役員会議で決まるって。反対はないし、今日で。」
  それを聞いた奥さんはまるで自分の家計が関係しているかのように不安そうに、
 「じゃあどうなるんですか、駅員さんや運転されてる方は…。」
 「みんな国鉄辞めてきた人ばかりだからねえ。」
 「そうだったんですか。でも、若い人は?」
 「ああ、若いのは一人いたけどKTR, あの、丹後の方にある北近畿タンゴ鉄道、一人空いてるっていうんで、もう早くに行っちゃった。」
  奥さんはなぜか我が息子のことのように安泰し、
 「それは良かったですね。」それから声を少しひそめて、
 「それで、御自身は、どうされるんですか。」
  さっきから知りたくて仕方なさそうだった。しかしこんなことをここで訊くとはこの人は何者だろうかとも思われた。運転士はわかりやすく苦しそうに、
 「いやぁ、私はもう、…ね。」
  と照れ笑いしてうやむやにしようとしたのに、
 「でもまだまだ、働き盛りですし」
 「いやぁ、…でももう、(どこも)ありませんよ。」
  思いきって彼はそう言ったのだが、相手は容赦なく、
 「すると、やっぱり、肉体労働、ということになるんでしょうか。」
 この人が彼の何者なのかは測りかねた。これが女の他人の家に対する義侠心かと思うと、五月の青空に永遠に羽ばたけない鳥が思い浮かんだ。
 「茂原さんのところの旦那さん、(ご存じですね)、53か4で会社を辞められて、 何か、新しく仕事されてるそうですよ。」
 構内に射差す初夏の光の照らすのは、空っぽな車内。彼らのいるホームは影だから、しだいにその陽射しがまぶしくて目にしみてきた。
 「へぇ。ふうむ。」
 しばしの間その人についての話を彼は聞いていたが、また矛先がこっちに戻って来たと見えて、苦しく笑いながら、しかし、さっきとは少し違って、ある種の決断を込めて、
 「でもねえ私はもう。うん。」
  と切った。
  鉄道員として終わりたい、と伝えたいのだった。
  しかし彼女は、彼のその考えているところを知っていて、それを烈しく鞭を振るう。自分の夫がだったら、と考えるのかもしれなかった。
  奥さんはそろそろ潮だと見て「じゃあこの辺で」と列車に入ろうとしたが、たまたまちょうどたったらしく、運転士の方も「あ」とさっと顔を固くして、運転台の方に歩いて行った。その表情を見て、今までのは心苦しさのほかに言外の蔑視もあった取れたが、やはり、あの言いにくそうな苦しげな姿態や、ビニールの買い物袋を提げた人のその物言いに、いやしむ気色も、ひと言の言い返しも、しなかったことから、弱さを知る人に捉えられた。
  私の列車はそうして発車した。滅び確約された職務担う運転台は、射光に満たされ、穏やかさの中にも鋭さがあった。そのまぶしさを漫然と受け取る虚ろな車内に、目が配されていた。あのさっき乗った列車の塗装の目すべてを集めても足らないぐらいの目を一つにしたようなのが。車内で彼女は私よりずいぶん前の方に座っていたというのに、彼女の目からは誰も逃れられないような、たとえ次の国包駅で私が降りても、逃れられるような質のものでないような、それで蒼穹のもとの平野歩きの想像に、地を這う鳥がまた思い浮かんだ。

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