紅葉の関西本線・冬の草津線(近畿1)─草津線編

2008年12月

  遠くに点々と街灯の連なる、空気が凝然となって沈みきった、古い集落のときどき連なる街道を、眼球の氷の冷たさを感じながら、まさしく目の覚める思いをして自転車で走り切る。しだいに次の街灯が迫ってくる。集落を分ける山辺で、古来からの大木、常盤木の緑を水銀灯が照り輝かしている、かと思うと、ほうっと、自分はまた暗い街道に分け入っていた。森の近い民家の軒先は暗さに凝り固まり、再び自転車の漕ぐその音だけが、耳に神経質に張りつき、鬼気迫るものがあった。

  もうだいぶ前のことに思える。先日 古典調を喚起した笠置渓谷に紅葉を求め、暖かな夕日とともに油日まで出た、その続きを辿ろうと、また今朝は4時半に起きたんだ。でも今日は、頭や気の重さはなかった。真剣味を向こうから求めてくるあの深い渓谷や重厚な田舎からはもう離れて、いったん県境に赴いた後、あとは電車線で気軽に山から湖へと、順に草津へと向かえばいいだけだ。その草津線は、力を抜いて辿れそうな路線なんだ。しかしけれども、つまらなさすぎることもない。近郊でありつつ、中部の微かに薫るところとなっている。

  最寄りの駅に入った。まだ暗いのに大勢の人々が片一方のホームだけに待っている。今はほぼ最も日が遅いのだ。私はそれをすいたもう片方から、眺めるよりほかなかった。販売機の白い灯がコーヒーやらを彩り、鋼鉄どうしをグドン、グドンと響かせて、轟然と貨物列車が、まもなく現れるはずの暁光を信じ、真っ暗闇の東へと進んでいく。向こうの、黒い毛のコートや帽子をかむった人々が待っているホームに、快速列車接近の自動放送が入る。すると唐突に、濃紺の鋼板で中を包み隠すようなの寝台特急が走り抜け、その人々を亡きものにするかのようだった。

  まだすいた各駅停車のゆったりめのクロスシートに腰をおろした。今の最新のシートと同じ様式なのに、当初の乗り心地の良さはそのままに、中は早や馴染んでくたびれたもので、丸くなった気負わせずかなりリラックスできる雰囲気のちょっと重そうなこの白い剛性の車両は、今は一線を退いて、こういう早朝や各停の運用に就き余生を過ごしているようだった。車中には紙袋に作業着入れた若い人らが二三乗っている。見えはせぬ国道1号を軸にした商業地のやや新しい中小ビルの群れの垣間見えるのを眺める。背後に一大工業地が控えているところだった。

  構内が広がっても、近郊の軽さがあってさしも緊張しない。天井川をゆっくりとくぐると、プラットホームが伸び並んで、寒さにいそいそと草津線用の跨線橋を渡った。朝6時は真っ暗で、ただ上屋から堤がる時計だけが、朝だと告げているにすぎない。
  こんな寒い闇に立っている理由はどこにあろう? 停まったままの列車に、重い戸を手で引いて這入り込む。これも席を向かい合わせにできる車だ。しかし、これはさらに時代が上った、国鉄のものでつんと古い匂いがしている。ほとんど誰も乗っていない。しかし前の方で誰かがパンを食べているらしく、袋の音がしている。この人もかなり早く家を出たんだろうな。ふと中老の人が外から戸を引いて入ってきて、通路挟んでその人の近くに座った、が、パンを喰っているのを捉えてか、ふいっと席を換えた。去った人を見上げるように目で追っているのだろうか、あからさまに、急に袋の音が鳴りやむ。ちょっとして間(ま)を置いてからまたしだいに、袋の音がしはじめた。しかしさっきと較べて弱々しかった。去ったのはどっちかというと空いた空間での本能からのものだっただろう。実は神経質だったのはパンの御仁の方であるなんていえもする。まあ何でも食べるがいいさ! 草津線をこんな刻に都市部から引き離されてゆく列車さ。作ってきたおにぎりに、かぶりつくのもいい。私がうらやんだ、あの近江塩津を福井に抜ける朝の車内で、そうしていた少年のように。さて私も足を組んで盛大に食うかと思うが、なんも買っていなかった。自分はいつも、家でしっかりめなのだった。

117系

 

 

 

  朝まだきに中枢圏の余波ではあってもそこからひと駅ずつ離れていくのは、ゆるやかな川を詰めるようなすがすがしい悦びがあった。初めのほうに近郊然としたぴかぴかの駅が現れても、こういうものもあるとしてほほえましい気持ちで見送ることができる。同じ電車界にいながらにして、進むにつれて駅は昔ふうになり、今さらながら木壁が目に新鮮に映り、そんな自分をもまたうれしがった。始終沿線に住宅が近すぎないのもまたいいところだった。むしろ田地のほうが細長く鉄道に沿っているともいえるもので、新しい家々であってもあえて鉄路から離れたところに造ってあり、安静らしく、私も心安らかになった。いったいいつ明るくなるのやら、とは思わない。旅の不安より、この道と、きょうの私は、日常にも身を置いていた。やがて穹窿は淡い紫に染まり、艶めかしい。三十分乗ったころだった。不安だったらきっと長かかったろうが、そうでなかったから何となく勝手に明け たようなものだった。しかしそれはもうとても寒そうな色合いで、暁も下から紫を蝕む速さは、あの鈍い電気泳動のようにたいそう重々しく、かろうじての薄光は、枯れた茎の群がり刺さる田野を、ものさびしく、うらびれてた様子で浮かび上がらせてきた。ひと駅ごとに放送を繰り返している車掌は、この進路をどう思っているのだろうかとふと思う。こちらに向かうのは客も少なく、柘植に着いてもわりかしのびのびできるが、今度はひどい喧騒に戻って来なければなない。いや、こんな朝の時間は仮眠明けで、その後すぐに非番が待ってくれているのだろうか。

未明の草津線沿線。

  貴生川を過ぎてもう列車は空っぽになった。クハだったのかこころなしさらに車体が軽そうだ。誰もいない席が連なり、いくつも並ぶ窓から野原がパノラマに見え、カタカタと車は柘植へと向かう。速度の出してないのは登りだかららしいけど、登っていると思わなかった。途中駅では待ちはじめている人がいたが、みな逆のを待っている。この列車も一本後に折り返しあそこに来る人々たちを片づけてしまうのだ。

 

 

  すっかり空いた車両で、セルの縁メガネかけて新聞広げているやや太めの初老の方がいた。この人はどこまでこんな調子で向かわれるのだろうかなどと想う。むろんその人は途中駅で降りた。セカンドバッグをお持ちで、仕事だった。でもあんなふだんのような心持ちで、身軽ななりで、風で飛びそうな新聞広げて、そのまま加太越えをして、亀山や津の方に行くとしたら、おもしろいそうだった。どんなに車窓が標高やや高そうに野原でも、気動車に変わってカタンカタンどんどん峠を下っていても、ちっとも景色は見ず、新聞を広げて読んでいる。そういうふうにする旅もまた、欲しい気がした。それは加太越えの断絶が、単にレールで繋がっているということでは少しも物足りないほどのものだったからかもしれなかった。

 

  早朝の柘植は何気に活気があって、というのは、列車が待ち合わせているせいで、人はといえば学生がほんの数人ぱらぱらといるくらいだった。未明からの疲れを癒し、なおも早すぎる時間を調整できるかなと車内でまどろんでいた。目の前に女子中学生も座っている。しかしその友達どうしの二人が、さっき寒さのため手動ドアになった固い戸を引いて入ってきたばかりだというのに、談笑しながら、なんとなしに列車から出て行ってしまった。今乗っている列車はもちろん京都行きになるはずだが。変だと思いつつ座っていると、ふいに紺のブレザーの似合うほっそりした老車掌が回ってきて目を丸くし、これ、あとから出るのになるけど、あっちの方が先に出るけど、いいの、という。そう、あの二人はそのときまだ入ってなかった先発を待つ間、この車内を暖かい待合室代わりに使っていただけなんだ。またやってしまった、と思い、オウムガイを転がすように外に出、ちょうどドアが開きはじめた向かいの車両に衣服を直して乗る。しれっとした表情で、ごく自然に、あんな使い方をする。しゃべってばかりで、知恵を巡らせた感じはまったくなく、体がかってにそのように動いているという感じだった。やはり地元の人にはかなわないな。レチはしょんぼりしたような、ふだんのらない人なのか、というような、もやもやした気持ちの顔で、方向幕を当駅柘植に直していて、知っている気になっていた私は、さらに深く肩を落とした。あの女子中学生二人は、小さい声で自分たちだけの話をしていて、私には少しも気づかなかったか、気づいてもまったく何とも思っていやしなかった。
  これに乗らなかったらぜんぶずれて、やがてまばゆさを増した朝の冬光とともに入った一つのホームに人をたわわに実らせた寺庄駅での日の輝き具合もまた一つ違っていたただろうし、想像していた自分だけのための光が、そのまま真っ直ぐに自分のものにはならなかっただろう。傲然としてでもなく、メシアのようでもなく、人群れすれすれに列車が差しかかる中、きょう人々が朝どのように動くつもりであっても、自分の道は確約されている、そんなように捉えられた。
  降りるとやがて人群れは崩れて、自分の胸も小さくすぼんだ。窓口つきのゲートのような駅舎に私の身体はすっはぽりはまり、身体の形に型抜きされて吐きだされた。日陰がちで、それほど輝かしくも、広くもない道なのを知った。

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