道南紀行 ─ 寝台特急日本海に乗って

2009年5月

青森駅前で夜を待つ

  上り津軽線も蟹田を過ぎると通勤、通学列車になって都市の風を受けた。濃さのない海沿いの簡素な駅を風のように過ぎてゆく。

  17時過ぎ青森着。ここで20時40分の東京行き夜行バスを待つことになっている。もちろんそれだけでなく、入浴、食事、夜景を眺めつつ散策、と画策していたが、清明湯は遠く、歩き疲れていたので 駅舎から出た瞬間にカットしてしまった。気候が良いというのもあるけど。いや、実はあまり生活上の営みに心奪われるのが、嫌になったんだ。せわしなく風呂に入ってご飯を食べるのを想うと。われながら、予定は現実的に立ててあるな。そういえば、入る入らぬに拘わらず、できるだけ入湯できるよう組んでいたっけ。しかし入湯を反故にしたのには、ツアーバスに慣れぬため、できるだけ時間に余裕を持たせたかったというのもあった。広く歩いておれば万一違った場所で待っていたと直前にわかっても、見当がつきやすい。とりあえず食事を済ませてしまおう、と食事処を探す。カレー屋とホタテ屋が隣り合っていて、ホタテ屋には行列ができている。やっぱりここまで来たからにはという人々の心を映した光景だった。すいている方に入った。この時間なのに珍しいなと思いつつ座るところを考えていると、どこでもどうぞと、2度言われたので、カウンターではない方へ。店員さんはまた声優みたいに声がきれいで、メニューを胸に抱いてこちらに目を合わせて注文を聞いてくれるかわいい人だった。
  ルーは薄目で載っている具材も味が濃くなくいま一つだがそんなに望んだらいけないのだろう。値段からそれはわかってる。ふと後ろを見ると混みはじめてきたようで、水を飲み干して早めに店を出た。後でレシートを見るとポークカレーとなっているのにびっくりする。

駅舎軒下通りにて。

 

 

街角からすっと入ったところに駅弁屋がある感じ。

青森駅みどりの窓口。

 

 

夕刻の青森駅駅舎その1.

バスのりば整備の工事が行われていたが、 こうして見ると情趣もなくはなく。

その2.

  商店街と桟橋を渡したような海辺の公園を逍遥した。夕方の商店街は人が途切れず、県都として顔としてふさわしい。もともと青森駅前は駅も駅らしく、広場から賑々しい 街衢が堂々とはじまって、都(みやこ)としての品格があった。

街を歩いて。お寿司屋さん前。青森にも歩行者信号に待ち時間表示がついていた。

青森グランドホテル前。シティホテルだろうなあ。

新町通り。

 

 

スクランブル交差点。

さくら野百貨店というのがあった。

 

青森市が再開発の一環で建てた「アウガ」。 図書館や飲食店、市場などが入っているのだそうだ。 そして前面には「2010年新青森駅開業」の広告。 青森力結集とあるけど、もっと前からかなりの努力をしているように思う。

近畿日本ツーリストを発見し親近感が。

とある横丁。

 

  そして時間つぶしならとここと思っていた、港の公園へ。廃編成が展示してあるそこは人もほとんどおらず、構内に寝台列車の停まっているのも見えて、旅人のスポットらしい感じだった。またもや高校生の男女がひそかに抱き合っているのを目撃する。青森は派手なんだね。ねぶた祭りからも察せられるというものである。しかしこの男子はいかつくなく、都会風に細身で、女の方も小動物のようにくるくるしていた。はて自分がどこか休めるとこはないんかな、と探して、摩周丸の脇の小さい2階建ての屋上に入った。すると高校の先生だろうか、この辺を見回りに来たらしく、先の男女を一喝して追い出しているのが見下ろされるではないか。どうもこのへんは格好の逢引きスポットになっているらしい。確かに青森にしてはロマンチックなところだ。が、2人のいた場所は港を悠々股ぐベイブリッジの橋脚のたもとで、なんか場所の選定が乞食みたいである。その先生は私のいる屋上まで来たが、一人でいる私が高校生でないとわかるや、すぐ階段を下りていった。ちょっと自由を感じる。そういえばその年ごろの時分、同級が文化祭の後こっそり公園で打ち上げをしていたところ、暴走族に目を付けられたとかでPTAが紛糾したことがあった。あのころの私は取り沙汰されるようなことは何もせなんだ。それで不自由も感じなかった。それで今もさして自由を感じない。

駅横の公園に行き着いて。

鉄筋の断面がむき出しだった。

寝台特急あけぼのが停車している。

 

 

 

八甲田丸前。

青森ベイブリッジに上ってみよう。この通路は朝7時から夜9時までしか通れないという。 そのわけはすぐわかった。12月1日から4月初旬までも通行止めなのは雪関係だろう。

こんなふうに展望所が造られてある。こういうところに ホームレスが居着くのかな。

ベイブリッジ上にて。

 

駅構内を軽々と跨ぐ。向こう側の港にはクルーザーが多く休暇的。 十二岳、大倉岳、袴腰岳などらしき市境の600m級の山々が右手に霞んで見える。

黄昏のベイブリッジ。 もう18時なのに日の高さにまだ余裕がある。

 

 

本格的な吊り橋。

これがベイブリッジをライトアップしているのだろう。

何か温泉のような煙が見えた。

駅前のビル群。いつもの青森駅前という趣き。

ここからだと連絡船への跨線橋が八甲田丸の色と 合わせてあるのがよくわかる。

見えているのは浅虫あたりの大と夏泊半島の山々。 下北半島ではなく。

手前の橋は青森ラブリッジと呼ばれているそうだ。

左手三角の建物はアスパム。

 

今も昔もこんな先端まで列車が来る。手前のは保存車だけど。

八甲田丸の甲板を窺って。

橋上への通路も立派なものだった。

休憩所。旅人には助かる。先の保存車も休憩所だったのだが、 閉鎖されてしまった。

青森ラブリッジにて。釣りをしている御仁がしょっちゅう人を窺っているのは ひっかけを気にしているというより、ここが釣り禁止だからのようだ。

港。だが、今は港としてあまり使われていないようだ。

散歩するのもけっこう楽しいところ。

駅前。

私がアスパムに行くのは雨の日くらいかな。


19時前になり薄明も終わりかけ、

  残光を失い、辺りが青暗くなった。冷たいブルーのネオンサインが波止場の海面に靡く。青森は、光の演出に敏感なようで、レインボーブリッジの橋脚や、広告塔、あおもり駅という、青りんご色の光など、あちこちで落ち着いた光彩を闇に浮かべている。かと思えばアーケード街は燦爛として、飲み歩く町の風情を醸している。

 

 

 

 

 

 

やはり東横インのネオンサインはきれい。

駅舎軒下にて。

 

 

 

 

 

夜の青森駅駅舎その1.

 

その2.

 

左手、駅ビルの機能を担うラビナ。

その3.

4.

5.

高知駅を思い出す。

6. 駅らしい駅だと思う。

ラビナはレストランやお土産処のほか、本屋など地元の人のための施設も入っている。

 

ここで軽食を購入。近辺にコンビニはここしか見当たらなかった。

東横インとルートイン。

青森駅前といえば、の光景。

 

 

ラビナの軒端はいま青色だが、これがいろんな色に変化して凝っていた。

  バスの1時間半前になって、指定されている場所付近に移動することにした。しかし風が強くなり寒くなってきたので、小壜のワインと干肉を購入して飲みながら待とうではないか。青りんご色の「あおもり駅」のサインを眺めつつ、花壇に腰かけて壜を開けると、初めは確かにワインだ、と感嘆したものの、すぐ口の中が魑魅魍魎としてきて苦笑。でもこれを明日まで持たせるとしよう。
  どんどん寒くなってきて、旋風(つむじかぜ)に体ごと持って行かれそうなくらいだ。五月の下旬といえども北方の夜はまだまだ寒い。道北などはようやく雪がなくなってきて春かなというころ。青函はそこまではいかないけど。街ゆく人を眺めていると半袖にて自転車を漕いでいるのを一人だけ見かけ、たいしたものだと。地元の人で間違いないだろう。日中の初夏のことが忘れられない、もう寒さなど気にしたくない、この時季になればどう転んでも大丈夫、そんなことを考えていそうだった。夜は必ずホテルに籠るというスタイルなら、中厚手の長袖一枚でもよいと思うが、そうでないならさらに上に着込むジャンパーそれに類するジャケットなどが必要だと痛感した。春コートは見かけなかった。
  駅舎の軒下で、さっきから浮浪者が道行く人に喧嘩を売っている。というか、一人でしゃべって昂奮してきて、ビール缶などを道端に投げつけて、そのあたりを通りががる人がいるさなか、人の顔は見ずして、「どうすんだよ。どうなってもいいんだな。」というふうに、喧嘩を吹きかけるでもなく吹きかけているというありさまだった。本人は何かする気はないらしい。やがて警官が取りなしたが、事態はあまり変わらず。たしかに寒いしな。夜になるとどうも気が滅入ってくる。日較差の大きいせいだろう。

  19時も終わりころ、目の前に弘南交通の上野行きパンダ号が入ってくる。予約している同じ弘南交通であるし、1時間も早いがもしかしてこれか、と急に不安になる。しかしいかにもお上りさんという扱いが受け入れられているとは。さてどうしても自分のバスか気になって、添乗員のところまで歩いて尋ねてみると、蛙声で、これは19時50分発の上野行きだよ(だから違うよ)、と、変なことを言うものだという視線とともに一蹴されてしまい、そのまま引き下がる。確かに自分のは20時50分であるから違う。しかし青森から1時間違いで同じ会社から東京方面のバスが出ているんだ。このときまだ青森と関東のバス交通線があやとりのようであるのを知らないでいた。

これが例の上野行きパンダ号。

だいたいこの時刻にはバスが集まって来ていた。

  しかし自分のバスの添乗員があんなのだったら嫌だな。とりあえず動物園行きはゆかすにまかすが、そろそろ夜行バスの時間になってきたようで、次々と様々な行き先のバスが入ってくる。やはり主に関東各地だ。待っていた甲斐があるな、そろそろ気を引き締めないと、と、駅舎前に公衆電話のあるのを視線で押さえる。

  それからアルコールで頭をぼんやりさせて30分ほど待つと、いつしか自分の周囲半径30m以内に、私と同じように植え込みの壇に腰かけたりしている人が現れはじめた。特に初めて待つときなんかはつい先人の待ち方を参考にしてしまいそうだ。慣れた人はバス発着の見える暖房の効いたドムドムバーガーなんかで食べて余裕のうちに待つのかもしれない。そんなことして乗り逃したりしてな。ともかくそこかしこに待ち人が散在しはじめ、ほどなくしたころ、自分のとは違う、ウィラーのバスが入ってきた。すると近くで待っていた19か20くらいの青年は、「あ、ウィラーだ!」といわんばかりに、まだ停止しもていないバスに走り寄った、が、彼は左右を見ず道路に飛び出したため、ひそかにタクシーに轢かれかけていた。まるで道に飛び出したボールを追う子供の図ではないか。でも気持ちはわかる。ツアー型の夜行バスほど、見落としやすく、失敗しやすいものもないし。最も手痛いのが思い込みと勘違いだ。しかし自分のバスを見つけた彼に、未だ見つけざる私は安寧の点で敵わない。待っていたほとんどの人もメジャーなウィラーだったようで、待っているのはほぼ私一人になってしまった。不安でしかたなくなった。自分も有名どころにしておけばよかったかと思うも、わざと弘南交通を選んだのだった。

 

  晩秋のような気温の中 辛抱強く待ち、20時40分ごろ、弘南交通の東京行きがほかのバスに混じってハンドルを切りながら現れてくれた。バックして停車するとすぐ、人よさそうな添乗員がすぐにタラップを下りてきて、首掛けボードを覗きこむ。すぐに赴くのを憚る理由もないので、早速だがその人の元に赴き名前を確認、チェックはすぐに通って、バスの中に通された。一ばん乗りだが、すでに五所川原で人を乗せているので、車内はやや陰鬱。しかしタオルや歯ブラシのセットが椅子に置いてあり感心する。車内も落ち着いた重厚さがあり、やはり津軽地方の鉄道会社としての威信があるというものである。今や夜行バスは新興のツアー会社に人を集めてもらう流れだが、弘南の名前は彫刻のように消えない。しかしまさかここでやっかいな目に遭うとは知る由もなかった。

車内にて。

バスの車窓から。

ブランケットを掛けて。座席は新しい感じ。

  乗員の確認はあっさり終わり、40代のふっくらした男性が車内放送を始める。優しげな声で、弘南交通をご利用くださりありがとうございます、このバス東京行きではありますが、先にに弘前にてお客様をお乗せてからの出発、高速道での移動となります、と流すけど、うっすら青森の訛りが入っていて、全国的であろうとしてくれているのがうれしい。そして赤や黄な灯火をフロントガラスに流して弘前駅前にすぐに着くが、この辺で問題が、ついに顕わとなった。後ろの御仁。各席の足下(あしもと)には強烈なバネの跳ね上げ式フットレスがあるのだが、それを何度もガコンガコン、足で弾きやがる。そのフットレスは前の人の座席に直結しているため、何も考えずに足を離すと、前の人は座席を蹴飛ばされるのと同等の振動と不快音を味わわされることになる。はじめのうちは、そういう仕掛けなのをつい忘れて足を上げる際に勢いよくやってしまうんだろうと済ませていたんだ。しかし一向に気使いする気配は見られず、どうもこの後ろの客は、その動作による影響を想像しようともしない、鈍感な人らしい。「これではまず眠られんぞ。」 添乗員に伝えようか考えを巡らせはじめる。今の私なら伝えているが、結局 移動した原因が当人に察知されよけい面倒なことになるのを恐れた。尤も、狭い空間だから当人に知られずに伝えるには休憩時間にトイレにでも立ってくれたときくらいしかないが、そうしても前の人が消えていれば察しはされると思った。さらには今回のような場合、構造上仕方なく、かつ、相手の無邪気の可能性があり、そうするともし察せられれば、何が悪いんだという感情を募らせることにもなりそうで、それはそれで、かわいそうでもあり、と、まさに苦悩していたが、振り返ってみればそんな無頓着な御仁が察しようが何しようがほっとけばいいのだし、気を使い方を誤っているというものだ。なぜこうなったか、原因はどうも、車内に入ったときから何気に感じてはいた、車内の後方から漂ってくる、しめやかで圧のある、東北人の、空気、その存在と影響に今やっと気付いて、「たしかに東北だ。」 すると異国に一人ぼっちな気がしてきて、自分には珍しく、独りどきりとした。ま、ほかの座席でもときたま響いているので、ならば移動した後ろでも同じだろう、そう自分を説得してもおよそ承服できなかったのは、後ろの御仁は、暇にまかせて足を載せては、跳ね上げのバネ心地を無意識に愉しんでいるという憎たらしさで、頻度と、ばつの悪さが微塵もない、という点が、格段にほかとは違っていたのだ。ほかのところでのガコンは、ね、ちょっとうっかりしました、や、ああ悪いな、というのがそこそこ感ぜられる遠慮深いものなんだよ。はっきりいって、何が悪いと言って、それは弘南交通が悪いに決まってる。フットレスを強烈な跳ね上げにしていいことなんか何もない。こんな間抜けなバスは最近はついぞ見ない。ともかくこの漸減性の欠片もない跳ね上げ式がある限り、高速の弘南バスには乗れたものではない、夜行ともなると。そうでしょう。むろん後ろの御仁もちょっと変だ。ハァハァいいながらタオルで顔を必死に拭いている爺。新手の運行会社でなく古参の会社にしたことに、安心感はあるけど、地元顧客、高齢客のくっついていることまで、想像できなかった。救いは添乗員がよさそうな人だったことくらい。けれども仮に伝えても、移動した先でも鳴るかもしれませんが、と前置きされて神経質な人の扱いを受けるのも避けたく、またバスの欠陥を添乗員になじっている形になるのも不愉快で、後日社に直接、と思いきや、そんな行動も取らず。結局今後選ばなければ済む話だ。
  それでも眠れた。復路だから。疲れているので。ときどき跳ね上げ式に、脳を振動させられつつ。でもやっぱり、夜行バスは静かに過ごしたいものだよほんと。
  夜半、東北各地のサービスエリアで休憩していく。すっかり白々と明けて曇りとわかるころころ窓を覗くが、畑だけで、特にも何もない。北関東の休憩地では雨が降っていた。特に外にも出なかった。朝もさっそくガコンパコン 席を蹴られる。

佐野SAらしい。

雰囲気自体は悪くないのにな。

 

  退屈な高速道を走り飛ばしていつしか東京に。バスから見下ろす街は朝寝坊で、眠たげに白いゴミ袋が街路樹に集められているだけだった。降りるのいやだなあと思う。なるほど はとバスは 存続しそうだ。
  先に池袋に着いた。目覚めぬ街に聳立する古い西武百貨店の窓が病的だった。そしてそこで例の後ろの御仁が降りていくではないか。そのとき初めてはっきり見たが、顔の皺や体の動きから年齢は60代と考えられるのに、服装が10代後半のヒップホップ系で、これにはびっくりして開いた口が塞がらず、やはり関わらない方が良かったなと。嗅覚が当たったことに欣んでいたりもしたが、あの姿にはぞっとした。それにしても病気だろうか趣味だろうか。こんな人を受けてれる街も大変だななどと思いつつも、東京駅までの僅かな時間の安静を楽しんだ。これから晴れゆくか晴れゆかぬかわからないという、雨をいましがた降り終えたばかりの力ない曇り空に、人の身罷るを待ったのちのような、ぽっかりとした心境を感じた。

最後のページ : 東京から普通列車で近畿へ:おわり