北陸・信越1

2009年9月

  また今年も夏の季節がやって来てくれている。しかしあとひと月ほどでこの国を去るという。網戸の向こうの静かなはずの夜は虫という生命体でひとしきり、賑っている。白電燈をともし、だらけて座しながら、そんな立ち去る季節のことを想う。
  はや九月を過ぎていた。実は、初夏に例の道南から帰って以来 すっかり遠出の意欲をなくし、そのまま力の抜けたようにだらだら八月まで過ごしていた。地元の花火大会を観、折にふれて夏の夜(よ)の川辺を逍遥して、こんな夏があってもいいよね と、思っていた。何も遠くまで出かける必要はない、自分の町の小さな夏もすばらしく、それを讃えていようではないか。
  でも本当にそれでいいのか。もっと大きな歓びのために、じつに重い一歩を、踏み出してみないか。しんどかろうが、気乗りしなかろうが、せっせと予定して出掛けないといけないのだ。行きたいのでなく、いまのこの肉体に、課せられている、そんな気がして、決意が固まった。

  一人旅に出るというのは何回繰り返してもさあ出ようとすると大きな力がいる。もうそのチャンスしかないとわかっていてさえも、投げやりになって寝ていたいと思う。習慣化を試みても変わらなかった。

  不安でどよめく頭を据えて歩き、5キロの荷物を掛けた私は、夕方、駅のデッキに立つ。夏は服が増えるから重い。盛夏ならまだ夕闇の時刻だが、もう真っ暗で、駅の白々とした照明が冷たくそして眼に刺激を与えた。半袖で肌寒かった。夏に心わななかせている若い人々はもうどこにも見当たらない。「それでもまあまたこうして今年も出かけることになったか。」 それだけでも十分幸せなことだったが、このときはやはり疲れとだるさに打ち勝てなかった。「へんに寒いと体力が奪われるね。これでもまだ日中は猛暑だからな。」

  今回の旅はテーマを設けてみた。それは4年前の初めて一人旅した自分に出遭うというもの。出掛ける気が起きなかったのはこの気だるいテーマのせいかもしれないが、いま、わざわざ当時の服装をまねてまで来ている。初日には、親不知、名立、谷浜、直江津などを盛り込んだ。にもかかわらず夕方出るということはどこかで旅寝するということだ。つまり夜の間にできるだけ遠くまで行っておくということになる。この試みは初めてだ。どこで、というのは悩みどころだが、さんざん考えてすでに行ったことのある明峰に落ち着いた。しかも湖西線経由で、普通列車で北陸に入るというのも初の試みになる。

  山科では列車の遅れや乗り換えに余裕があるように10分くらい取っておいた。夜はいつも人が多すぎる駅で、はやく寂しい湖西線で独りになりたく思う。しかし実際にこんな大勢の人がいるところから始まる路線が、そんなにも寂しくなっていくものなのだろうか。今日はそんな感じがしなかった。

  湖国に越えているに変わりはしないが、いつも乗る本線のトンネルとは違う、がさつなトンネルの響きに北陸を想う。車両はどこでも見る近郊のものなものの、乗っている人々は、この先を地元とする人たちだけ、という雰囲気で、同郷の融和がちょっとあり、本線とは違って少しだけ気楽な感じだった。

  湖を傍(そば)に駆ける序章となるスラブ軌道の石割の音に北への旅路を想っていると、じきに西大津だった。大津京という放送に変わっていたが、ぎこちなさはなくなっていた。ここでいつものようにたくさん降りる。まだ到底座れないほど乗っているけど。降りた人はここで降りるためだけに湖西線に乗ったんだ。いつもどんなことを考えるのだろうと思うけど、暢気な今の私と違って、ほとんどになるトンネルとすぐの乗り換えと、強風で頻発する遅れしか考えないというものだ。でも山越すたびに、やはり自分は近江に住まっているのだ、と思わされるかもしれない。それとも、今の時代は山なんてないからこそ、こうしてどこにでも住めたんだ、と考える人もいるかもしれなかった。

  あとは停車のたびに人を吐いて、湖岸の161号の街灯や、いきなり造ったみたいな画一的な、でも古くなってきた駅前の灯を、まさに直角に見下ろしていった。

  以前特急雷鳥が停まった、そして今も代わりのが停まる堅田を過ぎても人が減らなかったのが意外で、基本すべて2席ずつとなっている仕様の車内を、思わず見回す。まだ19時半だからだけど、これより北も れきたる都市近郊であるという証でもあった。でももう1本か2本あととでは、車内の人模様もだいぶ違っていそうだった。

 

  結局 はるばるやって来たその近江舞子も越して、20時、終点 近江今津に近づいてようやく空席も多くなったので、わずか数分だけ腰かけたのち、夜空に架かる、その近江今津で全員とともに下車することとなった。空いた席は、前からあった。でもきょうはなんか、途中で誰かの横に座る力がなかったんだ。人口の少なく日中は殊に風光輝かしいところだが、今、大都市の近さを認めさせられて、身を任せるように乗ったら、こんなはずではなかったと不満を持ちそうで、そのようにして乗るのは、もう少し後まで取っておこうと思ったからだった。

  人の群れは従順に階段へ吸い込まれ、古びた石の薄暗い中2階を経てそのまま、改札まで進行し、到着を見計らって出ていた駅員から恭しく、ありがとうございました、という声を掛けてもらっている光景をちょっと見るとすぐ私は独り、別の乗り場へと一段抜かしで階段をうんうん荷物を抱え直して昇り返した。すると高架の構内は、もう誰もおらず、ガラスで青っぽくなった蛍光管を灯した、新製のぴかぴかの列車がただ電気音を立てて黙って留(と)まっているだけだ。ふとガタンと乱暴な音がして、列車の端の方から乗務員が姿をふらりと現す。向こうにある、さっき乗ってきたここが終着の列車だった。折り返し堅田や京都に行くのだ。

  北に進みまた高い山も近いからか、あまりに肌寒いが、もう近江塩津行きは入っているのですぐボタンを押してドアを開け、入って座ると、すぐに検札があった。この先 有人駅があってももうとうに店じまいしているんだ。ここまでくると1両に数えられるくらいしか乗っていない。車両も4つしか繋いでいない。

近江今津発、近江塩津行き。客がいないわけではない。

  県最北の地域に入ってくる もう真っ暗なマキノや永原を経て、左に闇の田畑と一台の自動車が広角なライトでゆき進むのを見下ろし、遠く左へ左へ曲がっていく高架桁が捉えられたなというころにはすでに、まもなく終点近江塩津と流され、必ず、乗り換えの案内がなされる。ああ これから深坂峠をくぐり、さらに嶺北は今庄に抜け、果てには牛ノ谷峠まで掻き分けて加賀に入らないといけないんだと思うと、道のりは長く、心理的負担は大きかった。そのいっぽう、おもいきり張り詰めてもいた。こういうときは、なぜか細心の注意が自然と払える。それにしても、夜のうちに遠いところまで脚を伸ばしておく。これは、そんなにうまくいくものなのだろうか。うまくいくといいが。

近江塩津駅に停車する敦賀行き。

数年前まではありえない表示だった。

  近江塩津では乗り換えに8分あるも、心に余裕がなく、すぐに身を車両に収めたので、何も見ていない。乗り換えは遠征か部活帰りの子もいて、やっぱり今日は人出が多いな。夜21時前だが、新疋田では乗った人があり、珍しかった。車掌が活躍していた。

  敦賀の広い駐車場とホテルが眼に入ると、頑張って長いホームを速足で歩いている自分が想像される。西から来た者は、これが宿命さ。これまでのことを思い返すと、やっと大きな街に着いたなという感じがして、北陸に入ったという感触は薄まっていた。大阪圏と同じ乗り物が入るようになっていた。

敦賀。乗継の設定にいつも余裕がない。

  福井に向かう車のレチは明かりの乏しいホームに出て西の方を見つめている。乗り継ぎ客を確認しており、手前でもたもたしていると、たいてい熱い視線を送ってくれる。さて不思議に思えることに、車内は今までと違いたくさんの人が集っていた。こっちはこっちで人的移動が纏まっている、北陸という地方に這入ったんだ。視界から電車の内装が消え、窓からの静かになった街のネオンサインや、人々の服装が眼に映るようになった。まもなく21時を迎える。

 

  客らが不穏に疲れているからか、轟音の北陸トンネルで検札はなされなかった。確かにどっちにとっても面倒くさい。無事、するかしないかの緊張と けたたましい騒音から解放せられ、南今庄に無事抜け出た。夜灯の照らしているのは山肌の緑と青の線の入った駅名標だけだ。ここから北嶺越前の地ならしを始めることになるのか。峠はもう苦労しないのに、未だに越える感覚は残っている。平行移動にもかかわらず、気圧や照度と音空間という圧迫で、トンネルの存在感は消えないし、また気付かぬうちに前後の勾配を体感しているのかもしれない。もとい、北陸トンネルは長すぎるし、うるさすぎるのたが。

王子保。

鯖江駅。とうとう福井の街に逢着したなと思う。 近畿から夜に普通列車を乗り継いだだけに。まったく別世界だ。

  スキーの似合う湯尾や南条を過ぎ、やはり鯖江・武生に入ると人はごっそり降りていく。乗り場はただ郷土の色の着いた広告灯がぼんやり燈るだけで、はや眠っていた。窓から顔を離し、眩しい車内に目を向け、あいたどこかの席に腰掛けゆっくりし、隣の男女がどこから乗ったことにするかの話を聞いていると、北鯖江の赤いメガネの光をしっかり見届けることになった。これは夜汽車の目安だな。近しくない地でも、今いる場所のしるしがあると、安心できた。特に夜は、不安だもの。越前花堂に入れば、もうあとは福井駅のようなもので、貨物駅を越してすぐだった。

福井。

  新しい石灰と珪素の塊の福井の駅は、ホームのそば屋も店屋も閉め立てて、消灯し、電子音な鳥の囀りがむやみにピリピリ響いていて、冷たさ寒さの中に玻璃の数珠のように零れ出している。周りに似合わぬ旧急行は音もなく、重たい古びた編成を身じろぎもせず横たえている。ステップを上がりデッキを越して照明に映える朱(あけ)のモケットの並ぶところには、22時前になるというのに、割合客が多かった。実は芦原温泉より北へ行き着くのはこれが最終だった。

旧急行車内の様子。

連結部分にあった運転台。古式ゆかしい運転台だが、 運転士はこれを扱いこなさないといけない…。

 

車掌の気分?

左:緊急用?かもしれないけど、寝台車を思いだしたり。
右:登れないようにこうすることはあるが、これはただの収納だと思う。 忍び錠つき。

さあ、話し合おうか。

  ゴウンと車体を、ひと揺すり、ふた揺すりして、ようやくモーターは快調に回り出し、唾液の匂いが固まっていそうなスピーカーから、女車掌の柔らかい肉声で、挨拶がはじまった。やがて、「主な駅と到着時刻をお知らせします。 芦原温泉…22時7分、加賀温泉…22時40分、小松には22時53分… 終点金沢には、23時、24分に着きます。なおこの列車、芦原温泉より先へは最終列車となります。お降り間違いのないよう、お気を付けください。次は森田、森田です。」 グゥーンという電動音とともに、ずっと遠くの街灯しか見えない夜闇の風景をゆく。この列車もだいぶ傷んでるな。不安と緊張から、気付かぬうちに歯を食い縛っていた。森田や春江で降りる人はいいな。うちへ帰るんだと思う。この時刻、どんな寂しくなった駅でも、そこへたとえ独りで降りた人であっても、缶ビール入れたビニル袋ぶらぶら提げて歩いて、家に帰りつくんだ。福井の人だから。

大聖寺。ここは何もない。

  牛ノ谷峠を越えて加賀温泉に着くと客がわりと入れ替わった。しばらく停車するので、ホームに出て気分転換する。夜は深く人影はない。席に置いたままの荷物を車掌が不審がった。窓から外を覗く感じだった。

 

 

次のページ : 夜の明峰駅