鹿部駅

(函館本線・砂原支線・しかべ) 2009年5月

  大沼からは駒ヶ岳を囲むように2ルートある。この列車は砂原周りで、海側を行く。ちなみに山周りより、砂原周りの方が乗降客が多い。最終がこちら周りでないと困ったことになるだろう。ここから先はいよいよ函館を忘れさせる、道南の隔絶地の一つになる。あと数駅で降りないといけないから、固唾をのんで行き過ぎる駅を車窓を見守った。初めの池田園、という駅は名ばかりで、電灯もついていない廃墟の駅だった。もし自分の降りるつもりの駅がこんなだったらと思うが、調べはついているし大丈夫のはずだ。流山温泉駅、は、通過したのを目の当たりにして、日中しか止まらないのを改めて思い出し、少し慌てる。予定を立てるときにここに浸かるのを諦めたと言っていたところだ。銚子口という親潮海の彼方を思わせるひと気より野草しか生えてない駅を過ぎ、ついに車内の電光板に鹿部が縦書きに灯った。間違いない。次だ次だ。
  止まって、席を立とうとすると、どんどん二両目から先頭車両に飛び出してきて、数えていると計三十人くらいの人が降りていくではないか。まさかこんな途中の駅でたくさん降りるとは思わないし、よりにによって自分がそんな駅に降りることになるとも思わない。私は最後に降りるつもりをしていた。だって地元の人と違って早く降りたってどうしようもないから。怪しまれる時間が増えるだけだ。重い荷物提げてようやくステップを踏み降りて列車から野外に出ると、夜森の香りと空気の冷たさが高雅で、北海道そのものだった。
  これほど下車があるなら駅員が居てもおかしくないが、ここは4年前に無人化されている。まあ、そのときでも最終までは開いていなかったろうけど。

  皆の列のしんがりに付いてさっと駅舎の中に入ったとたん、わあっと見回して、それはそれはもうたいそう歓んだ。とにかく温かげな雰囲気、そして広く、頑丈な据え付け長椅子が申し分なくぐるりと廻され、珍しいことにそこらへんの森から切りだしたのか、大きな天然のテーブルが置いてある。食事ができるじゃないか。壁には鹿部の人たちの作品がいっぱい飾られ、自動販売機まで置いてあった。「もうこれは言うことない。感謝せねば。いやいや、昨日の桂岡駅が異常だっんだよ。あれはひどかった。でも今晩はほんとに助かった。やっぱり北海道まで来てよかったよ。」

 

  三十人も降りたのにあっという間に人が居なくなった。一人しばらく駅舎の中で電話をいじりながら待っている若い女性があったが、私をちらっとだけ怪訝に見たあと、外に出て、彼女もまたどこかに消えていった。
 「もう自分のやるつもりのことは看破されてたかな。北海道ではこういうの多いだろうから。」

  ところで駅前はどうなっているのだろう。人のいなくなったことをいいことに、寒冷地のため外玄関がつけてあり、計二回引いて引いて外へ飛び出すと、思わず両腕を抱えるほどに寒く、空の色が本気で黒かった。ほぼ間違いなく10度を切っている。やっぱり冬季用の寝袋持ってきてよかった。でも室内はもっと暖かいだろう。こういう季節も北国の断熱仕立ては助かる、と、ひとりごちつつ、周囲を見渡したが、およそあの降りた人々があっというまに帰りつくような雰囲気ではない。これではあのとき駅前に何十台と迎えの車が止まってでもいなければ人は引けなかったことになる。つまり人家は乏しく、別荘地らしい感じだった。店も販売機の灯りも何もない。地図を見てきていたから知っていたが、鹿部の街はこの高台からうんと海辺に下ったところにあるのだ。そこまで歩くのはかなり遠いが、鹿部温泉というのが湧いているのだという。砂原周りの界隈ではわりと著名なところかもしれない。

駅前の様子。

夜の鹿部駅駅舎。

  ともかく車がよく通るようなところではないことが分かり、ゆっくり眠れそうだ。ただ駅舎内に販売機があるから深夜でも買い求めに人が入らなくもないことを念頭には置いた。

  改めて、二条の銀横たう構内に出てあたりを観察するとやはり森そのものらしく、人の気配というのは皆無だった。この構内にはもったいないくらいの水銀灯が、土の表面に音もなく金属的な粒子をえんえんと撒き散らしていた。「こんなものがつけられているということは以前何かあったのかな。 まさかな。」。 

駅構内にて。

函館方。

構内はどれも水銀灯だった。

 

  ホームの待合室も寝やすそうだったが、無機質な造りだったので、断然駅舎に決定。それにしてもまあ寒い。長いこと出ていると体が冷たくなりすぎて寝付きにくくなるかもしれない。でも、その寒さはあまりに清冽で、あたりの静謐さが、光そのものに音があると思わせるほどのなか、少しでも佇むと体が、透明な青緑色になっていくようで、体が動かなり、ことあるごとに私を佇立させた。なんとなく踏切に赴き、腰を屈めてみた。迷いなく一心に伸びゆく無限で交わる銀線。足元は、その鋼鉄の間に詰められた肌に親しむような木材、その木目。闇夜の照明は燦々と銀粉を浴びせかけ、遠方には信号の赤灯火がじっとりと灯っている。こうして屈んでいると暖かい。ずっとこのままでいたらどうなるかな。それは、案外ありうることだと思った。それで撥ねられればそれまでのことなのだろう。こんな心境でなら可なやもしれんと思った。気のせいか、コトンコトン、という音が足元に伝わっている気までしてきた。撥ねられる前はこんな感じかとも思いに耽る。まさか本当に近づいているわけではなかろう。もしそうだったらもうとっくに警報が鳴っているはずだ。しかし耳を澄ますと、やはり確かに聞こえてきている。ふっと反対側の信号を見ると、精一杯まぶしくした青灯火が輝いていて、目を剥いた。慌ててその場から離れ駅舎の壁に身を寄せると、まだ汽車のライトも見えないのに、ずっと向こうの方で断続的に汽笛を鳴らしている。「もしか自分のいることが遠隔的にわかったのか」。それからほどなくしてヘッドライトが小さく差し込み、警報が鳴りはじめた。構内に入る前に汽笛を幾度か響かせつつ、轟然とディーゼル機関車の牽く貨物列車が通過する。「そうか、上り貨物は砂原経由なんだ。」 運転士はどんな思いでこの森を抜けて函館の界隈の灯を見るのだろうか。それは都市が点でしか存在しない大陸の思いかもしれない。

  貨物で夢うつつが明確になり、鞄に戻って水を持ち出し、土の構内で手を洗い終えた。水は函館で汲んでいたのだが、ここには手洗い場がちゃんとあった。だがしかしそれがすでに電気が消えていて真っ暗なのだ。ほんと汲んでいてよかったと思った。たぶんスイッチを入れて入るのだろうが…。

荷物を置いた椅子の様子。右手のペットボトルは飲み物用と手洗い用。

シュラフを敷いた様子。

 

  もう後は早く就寝するだけだ。シートを敷いてシュラフをスタフバッグから引きずり出し、調える。扉は締め切らずできるだけ自然な感じで半閉じにした。そこでまできてふと、寝場所の上にたった一枚だけ気持ち悪い絵が飾ってあるのに気が付いた。その絵の人物は赤と黒の布団のようなものをかぶり、安らかに眠っている。自分の死を暗示している気がしてきた。ならば寝位置を変えればいいのだが、寝位置はどこでもよいというわけではなく、隅のうちでも最も落ち着く方、外から目立たぬ方を取るので、譲れない。絵をひっくり返そうかと思った。しかし仮初めでも勝手にするのは悪い。シュラフに入ってからもちょくちょく見上げたが、気に掛けないことに決めた。今日も寒いが、室内は昨日の駅より明らかに造りがよく温かいのでほとんど服を脱ぎ、寝袋に入る。肌に触れる心地よい清涼感のあるシュラフの裏地。「しかし室内に販売機があると無人の喫茶店のようだ。なんたる贅沢。しかも電灯が消えてもたぶん販売機の明かりは消えないからぐあいもいい。」。しかし、その機体、冷却音がかなりやかましい。グォォと鳴りっぱなしだ。おかげで冷却がはじまったり、終えたりする繰り返しを延々と聞かされる羽目になる。
  一匹の蛾が石床で飛翔しようとしては墜ち、を繰り返しているのに気付いた。もう飛べないらしい。就寝中に狂われてもいやだし、悶えているのをずっと聞かされるのも憂鬱なので、この場で殺すことにした。しかし確実がいやで、運に依るようにした。寝ながらの姿勢で、ペットボトルのキャップを蛾をめがけて、投げた。 かすりもしなかった。蓋はころころ音を立てて、愚かしげに転がっていく。蛾はなんにも気付かず、同じことを繰り返している。「とっとと諦めればいいのに」。蛾には死に際にあってもこんな道しか用意されていないのかと思うと、人としての悦びを感じないではなかった。「問題は明日どうなっているかだな。もしこの場から消えていたら、あの懸命さを恐れてしまいそうだ。」 時刻は22時をとうに回っている。仰向けの姿勢でくるまっているシュラフを、顔まで引き寄せた。

  ふと目が開く。なんか様子が違う。電灯が消えている。販売機の明かりだけが仄白く灯り、コンプレッサーの唸りが、暗い室内に響きわたっている。いつの間にか寝入っていた。前の晩は、消灯時のブレーカの落ちるのが断頭台の音のようだったので、今夜も恐れていたが、それを聞かずに済んだことにはほっとした。 それにしてもこうして少し灯りがあるのは本当にありがたい。おそらく今は深夜2時前後だろう。
  日付が変わる前の仰向けのまま自分は寝入って、いつのまか電気が落ち、それでも自分の身はこうしたままで、駅舎の中は夜だからただ暗くなった、それだけのことだったが、無意識の物体が変わらず同じ位置にあるという平穏さというものがしずかに理解されてきた。
  やがて冷却が終わり、耳が澄まされる。自動車が1台、だいぶ経ってからバイクが1台通り、そのライトが室内を突き差す。たったそれだけの台数であたりには何もないだけに、ここを通るからには駅に用事があるのではと思え、体を固くした。それらが通りすぎると、静寂が極まって、未だに蛾が床で羽ばたいているのが察知されるようになり、熱っぽくなった体に憂悶が宿ってきて、寝返りを打った。

  目覚ましに起こされる。起床4時20分。外はまだ青暗い。さすがに3日目とあって疲れており、眠りこけた。もっと寝ていたいと思うほどここは心地良かった。こんなに早く起きず、未明の冷気をわかりつつもシュラフの温かさを味わい続けたいと思う。でもこの時刻から準備しないと間に合わない。
  上体を起こして体温でも膨らんだシュラフから脚をぬっと出すと寒い寒い。そういえば昨晩とは違い、肌着だけで入ってこのシュラフはちょうどよかった。恐らく室内は七、八度ではないかな。昨晩は二度だ。例の蛾が居ない。慌てつつ少し念入りに探すと机の柱の陰に隠れるようにして死んでいた。それやあんなに動いたら体力がなくなるわと、とっととシュラフをスタフバッグに大急ぎで詰めて荷づくりをする。外で手洗いするが、まだ上着をつけぬ上体が寒く、がちがち震えた。20分ほどかけて日中の自分の姿に戻った。

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