立石駅

(日豊本線・たていし) 2008年3月

  夕刻前のわずか2両の車内は人がなかなか乗っているのに静まりきっていた。夕日と同じ色を想起させる日出駅に着く。ここから先、一駅進むごとに、上りの到着列車本数が減っていく。日出行き、大神行き、杵築行き、中山香行きと減っていき、立石がくんと落ちて、空白域になる。私はその立石に行こうとしている。
  ここ日出は山に入る手前でもあるから、この辺で人も減るだろう、と思っていたのだが、しんとして変化はなく、怖くなった。我々はここより先に帰るから乗っているのだ、というような、静けさだった。これより先は国東半島の根元の深い山中を通り抜ける。各駅も古く重々しのではないかと思われるもので、車窓でそれらを窺うたびに、どんなものか降りてみたくなった。けれどもそこで降りると、次の列車を待っても、目的の立石駅には降り立てない。日暮れと、今夜小倉まで行かなければならない時刻を考え合わせてのことだった。立石まで緊張の面持ちで乗り続ける。
  山は深い。今朝の佐賀関半島越えと同じ道理だった。ふとわずか二人ほどの女子高生がドア付近で会話しているのに気がついた。中山香という駅に着く。自分にはなかなか降りられない駅に、彼女らは当たり前のように談笑しながら降りていった。ここに家がある人だから。それにしても中山香と意味のよくわからない三文字地名で変わった地名だと思った。しかし話は簡単で、山香、というところがあり、その中ほどで中山香だった。なあんだ。

  ここでこのときの日出から宇佐までの上り列車到着本数を書いておこう。

駅名上り、到着・発車普通列車本数6時から17時台の本数
日出33本24本
大神29本24本
杵築25本24本
中山香17本11本
立石11本7本
西屋敷11本7本
宇佐21本14本

  山地に挟まれた、狭い谷底平野をつらつら走り続けて、立石に着いた。緊張して一歩踏み出す。大きく古いコンクリートの建築物に取り合わせたように、黄金に輝く枯れ草が見えた。一緒に女子中学生2人と降りた。降りたのはこうして3人だけだった。2人はしきりにおしゃべりしていて、ちらちらこちらを気にしていた。私が先に降りたのに、急がないからだろう。2人は気にしつつ、ときに不思議に振り返るようにしながらも、このとんでもない駅から、家路ついていった。

  とんでもない ― 降り立ったそのときから、ここの異様さは断ぜられた。一線分廃止にして、そこを庭園にあると見立てられなくもない分厚い石の渡りがついており、その向こうにまさに主要駅だと言える巨大な駅舎があるが、中は真っ暗で、入った瞬間、ホウ、という音が聞こえてくる、埃のぶら下がった天井の高さで、廃墟じみた無人駅なのだった。でもすぐに子供の絵や有志の壁画が相当多く設置されているのはわかり、廃墟と言ってはならない、というのはわかったが、こんな屋内だけに、余計に廃に向かわぬようにと引きとめているかのようであった。地元の人は荒廃させたくない一心なのだろう。
  それにしてもなぜこんな立派な近代的な駅舎のある駅が無人になったのかと、私は強烈に惹きつけられた。とりあえずホームに戻って、考えよう。

上りホームに降り立って。早くも異様な雰囲気がしていた。

宇佐・小倉方面。何だあの山容は。

駅名標。国鉄時代からのもの。

廃止された乗り場。橋掛かりから。

橋を経て改札口へ向かうようになっている。

跨線橋の階段は乗り場ではなく回廊から入るようになっていた。 上りホームへは、かつてはこの跨線橋を使わなければならなかったが、 駅舎前の一線が廃止されたため、橋で直接行けるようになった。

駅舎内。何だこれは…。

上りホームに戻って。廃止された一線の様子。 中央の通路を橋と呼ぶにはふさわしくないが、そう呼びたくなるものだった。

杵築、大分方面。信号所のような建物があった。

こちらは比較的新しい。

小倉方面。下り線が独自のルートを取って山越えしてきたのがわかる。

  ここは二つの山地に挟まれた薄い谷の地形だが、ぜんたい平地は十分あり、構内にしてはその土地はかなり広いもので、自動車の走行音もほとんど聞こえない、枯れすすきの群がるようなところだった。地図では国道10号がすぐ裏手を走っているように書いてあり騒々しいのを想像するが、代替道路ができたらしく、まったくといっていいほど通りはない。こうして構内が広いのは、最も駅舎から離れ、裏手に近い下り線だけが、あさっての方向に湾曲していっているからで、まさに上下線は当駅で、ばらばらに分かれて、立石峠を、越えるのだった。当然その下りホームも、湾曲していっているのが、確かによく見て取れたが、そのことにほとんど違和感は沸かないのは、廃れ寂れ切っていて、風景に、融け込んでいたからだった。本当に、構内には、自分と夕日以外、誰も見当たらない。その湾曲ホームも、椅子や錆びた駅名標は置いているが、本質は、土台だけのように思われるものだった。

上りホームにて、跨線橋の階段出入口と橋の関係。 改札から上りホームに来る分には跨線橋はもはや不要なのが分かる。

待合にて大分方。ホーム床面は砂利舗装。

  ともかくそっちのホームへは行かず、駅舎に近いほうのホームを、立石峠の方に恍惚として長々と歩いた。静けさで歩くたびに足元の土が、ざくざくざく、と影長き日暮れの中、不審者による音を響かす。駅前側に古びた団地風のアパートがあり、足音に気を使ったのだが、音はすこしも、消えてくれなかった。変だと思い足元を見ると、苔が死んだものを踏みつけていたようで、それを踏むと、ざくっと崩れて割れるのだった。気持ち悪くなった。
  そのアパートのベランダで、母が洗濯物を取り込み、子も一緒に出ているのに気付いた。その子が最初に私に気がついて、あ、あ、と声を上げた。それから母は手を止めて私を見て、どうもないよ、と子に言ったので、私は二人に会釈した。母の方は一応といった感じの笑みで同じように返した。なんだ、人がいるんだ、子供がいるんだと思う。ほっとした。
  だいぶん歩いたところに屋根と椅子があって、そこから先を歩くと、叢に埋もれかけた木造の廃倉庫か廃工場が上下線の間に静まりきって建っていた。それを見て、山越え、物流、機関車付け替え、活気、廃墟と連想して、早くもすべてが繋がったようだった。ここがこんな異様なほどの規模を持ちながら、人っ子一人いやしないそのわけが飲み込めつつあって、独りで静かに、鼻で深呼吸した。
  駅名標には石仏をかすれて描き、名所案内も磨崖仏など石仏のものばかりで、修験者立ち入るような人里離れた険しいところが、ここのどこかにあるのを想わせた。立石という地名そんなところから来たと思えた。じっさい、立石峠の方にある山容は、つんつんしたピークがいくつも立ち並ぶ、見るからに険しいもので、そんな山々が、レールの先に立ちはだかっている。
  また立石という地名は、あの石造りの廃れた駅舎の仲立ちをした。仏に願うしか由なかった時代は終わったように、鉄道の懸命な活躍も終わり、石の塊たる駅舎やホームは、かつて人々の助けになったことを、今は石仏のようになって静かに伝えている。立石とは、ここらはどこも、石を立てただけのところ、ただの石の塊なところ、そういいだけだった。

駅名標と名所案内。磨崖仏と立石という地の名が嵌りすぎている。

待合にて上り方。

下りホームの様子。

小倉方に伸びゆくレール。

ホームから駅前方の風景。

上下線にはこのように広い敷地が空いている。 下り新線開通前はこの敷地も重要だったかもしれない。

転轍機があったんだろうか。

これからあの山を越えねばならない。

錆だらけの駅名標のある風景。

たぶん鉄板を使っているんだろう。隣駅表記の間には「大分県山香町」とある。

大分方に振り返って。ホームもこの辺になると砂利舗装さえなくなり、土に草が生えたままという様相になる。

間もなく上りホーム終端。

 

端まで来て下り方に俯瞰して。

駅前を垣間見て。公園がほっとさせる。

ホームの先端に立って。相変わらずすごい山容だ。 しかし、実は立石峠まではあと少し。この駅の標高がすでに110-120m. 峠は標高140mほど。

上下線の間にある倉庫群。廃倉庫かと思ったが、どうも使われているものもあるらしい。

宇佐方面を望む。

下り方。

 

芝生のホーム。右手の廃線では遊べそうだ。

 

ホームから見た駅舎。ホームも建物基礎もコンクリートで固められてばかりいるという印象。

突然、寝台特急富士が通過。

上りホームから見た駅舎。

駅員さんが行き来していたかもしれない通路。

  跨線橋に入ったが、錆びてしいんとした密室のようで、そこにやわらかな落日が差しこみ、身が一回、不随意に震え、胸が冷え込んだ。灯りのともせるようになっている、旧体裁の巨大な方面案内と、出口、との吊られた表示は、この静謐の中、いきなり落ちてくるのではないかと思われた。これだけ立派な、硬派な案内板がないがしろにされていると、その案内板にかつて注がれた数々の目が、こちらに跳ね返って来るようで、はっきりと視線を感じた。もっといえば、地名そのものに、まなざしがあるようだった。それはその地名に何らかの通念を抱いていた過去の人々のまなざしだった。この駅で最も気持ち悪さを感じたのは、この跨線橋内だった。

跨線橋内にて。赤いのは錆止めペンキのままなんじゃないかと思う。

異様だ。

跨線橋から見た駅前の様子。

下り方駅裏の風景。ここは山と山とに挟まれたところとなっている。

大分方面を望む。

中津・小倉方。

上り線と下り線。右端も一線廃止されているのがわかる。よってここは 元は2面4線という充実した施設の駅だったが、現在は2面2線となっている。

駅前方に見た跨線橋内の様子。それにしても下りホームへの方面案内板がないなあ、と思う。

下りホームに来て。

  ともかく、早く上りホームへ階段を下りてしまおう、途中にクモの巣などはないようだ。
  舗装していないホームの土に足をつけ、夕暮れながらも春らしいつんとした外気に触れ合うとほっとし、自分を取り戻せた。ホームが逸れていくだけに、歩くにつれ駅舎と離れていくのが実感でき、そのしだいにひらいていく間の土地からは、かつての駅の忙しさが立ち昇った。そういう用地越しに無人とは思えぬ規模の駅舎が駅名標という名札を提げて佇んでいる。私はこの駅に引きこまれつづけ、中山香に行く予定を取りやめ、ここでの滞在を延ばした。私には珍しいことだった。息を呑みながら立石峠の方にまたずんずん歩く。足元では枯れ草をばりばり折る音が常にして、ちょっと目立ち過ぎるのではないかと気にかかった。叢と廃倉庫で駅舎の視線から隠れると、はっきりと単線の様相になった。ホームあるのに駅とも鉄路の途中とも付かないこんなところに、列車で着いて、降り立ったら厭だな。さいわい、もうここまで来るような長い列車はここに停まらないけど。さてこんな端まで来て、特急が通過したらどう思われるかわからしないと、足元の音に気を使って小走りにそこから去ると息が切れた。駅舎が見え出すと急に安心した。歩行が緩まった。

上り方。

この縦型駅名標灯るのだろうか。

下りホームから見た駅舎。

廃止された乗り場。

待合。

公営住宅と城山(288.3m).

上下線の間が寂しい。観光地などではこういうところに歓迎の意を表して名物を象った彫刻などを置きそうだ。

 

大分方。

 

 

草と苔のホーム。中津・小倉方。この下り線は新立石トンネルを抜ける。 昔は現在の上り線だけしかなく、単線であった。

 

 

 

ここから9.0パーミルの下り勾配だそうだ。これは下り線だから、下り列車はこれだけの勾配を上って来ることになる。

ホーム終端にて。

上下線の間にある倉庫群と城山。

終端付近にて大分方。こんなところにレピーターがある。特急自身の退避待ちでもなされるのだろうか。

上下線間。誘われる。

 

 

 

水場の跡かと思った。

鉄道電話の一種。今も使える。

廃れてしまったという趣だった。

 

 

下りホームへの方面案内版がこんなところに捨てられていた。しかし宮崎まで案内するとは。

階段を下りて回廊にて。

上りホームへの通路。

 

通路の刻印。この年に2面2線化されたようだ。

いっぽう駅舎の基礎は1989-10となっていた。

 

改札口。

  気密な跨線橋内の、出口という真っ黄色の、文字列ゆえ隻眼を聯想する大看板に怖がりながらも、階段を下りてそそくさと駅舎に入った。ぽっかりとした石造りの空間に入り、不思議さに打たれ、口を半開きにして見上げるように周りをゆっくり眺めまわした。出入りするところはどこもかしこも戸がないかあっても開けっぴろげで、外気が入り込み、風化が進行しつつあるかのようだった。重たいガラス開き戸の待合室もあるが、照明はなく真に暗くて、新しいめの壁画がせめてもの救いだった。ある踊りを描いた筆絵には、「嫁を貰うなら山香の娘、家畜飼うなら山香の牛を」とあった。牛と列記するところに、農村の凄みを感じずにはおれなかった。また、立石の夏祭りを描いた絵もあった。今の季節からは遠いが、その落ち着いた絵は、こんなところでは、やっぱり祭りがいちばんの楽しみだと思わせた。毎年、祭りの前日の暑い夜、抑えつけられる日々から逃れさせる、数少ない楽しみを夢を見て眠る子供がいるかもしれない。
  駅で絵を観ているが、自分以外誰もいるわけでないし、それはおろか、これから誰かが来る気配さえも、まったくしなかった。絵から、この村に人々の息づいているのがはっきりわかるが、この駅のように実際は静かなのが、村なのだと思われた。

壁に掛けられた絵は壁画のように大きいものばかりだ。 これで出札口を隠している。

チッキから覗いた駅務室内の様子。がらんとしていて、がっかり。

天井の埃。

外への出入口。開放式になっている。

左手待合室への出入口。ぜんたい立派な駅であることが窺えると思う。

待合室内の様子。児童たちの絵が人をほっとさせるほど、すさんだ駅である。 しかし待合室内はきれいに清掃されていた。

椅子の具合。

 

右手の絵、嫁を貰うなら山香の娘、家畜飼うなら山香の牛を、とある。 左の絵は初めキノコ雲かと思った。

 

駅を出ての光景。

  今は無人だけどこんな大きな駅舎があるんだから、駅前文化はまずまずのものかもしれないなと期待して、横に長い立派な階段をたんたんたんと降りて、駅に面した通りに出て見通してみたけれども、しんとしている。一軒駅前商店つきの白い道が伸びているだけで、みごとにここは駅だけの駅だった。しかし一軒だけでも営んでいる店があるのはとてもありがたかった。ちょうど乾燥したまだ寒い春の空気に一日晒されて喉も渇いたから、わざわざ入ってじかに買おうかなどと心誘われたほどだった。すでに立石に興味を持ちはじめていた。
  けれども駅前の敷地の隅には、卑猥な落書きだらけの恐ろしい相貌のタクシーの詰所があり、ああ、あれも廃小屋か、それにしてもまた九州の物騒さが出たな、と、にがりきっていると、するりとタクシーが戻ってきて、運転手の男性が当たり前のように入っていくので、目を瞠いた。誰が現役だと思うだろうか。しかもあんな造りだと寒いだろうに。ともかくあの人は落書き小僧なぞには少しも恐れていないようだ。

左手の桟がなかなかよい。自動販売機の上の絵は立石五千石祭りを描いたものだった。 こんなところでは、祭りこそ、大きな楽しみだと思う。

トイレ。この駅は桟がモチーフに使われている。

立石駅駅舎。

 

駅前通り。宇佐方。

何だこれは!

現役だった。

杵築方に見た駅前広場。

 

あの自転車は放置自転車ではないだろう。

宇佐方に見た駅前広場。城山がひときわ風景に大きな影響を及ぼしている。

 

駅前の道を宇佐方に歩いて。

  一応病院や薬局もあるようなのだが、落日の中、首をかしぐほど動きがない。道の白いのは立石の石の白さであるようなコンクリート打ちで、全体的に以前は重要な通りだったのではないのかな、と町や通りを慰め、思いやるように観察した。近くに屹立する山が近く、磨崖仏なんかはあんな感じの山にあるのだろうと想像した。

ドライブスルー可能な薬局。

杵築方に伸びる駅前の道。

 

 

 

  この駅前町からすると駅舎は不釣り合いなほど大きい。こんなに近代の様式を備えた有人主要駅の造りをしているのに、なぜ無人になったのだろうか、と、ことこと日の落ちていく夕しじまの中、立ちんぼうで考えた。まさか汽車時代はとうてい関係あるまい。これが建てられたのはそんなに遠くない昔で、やはりそのころは電化ももう完了していたし、立石トンネルの開通は見越されていた。それだけに、何かこの駅に、時代にうまくかみ合わない不幸が訪れたのではないかなんて思われた。
  また大きな都市から遠く離れておらず、むしろ近いぐらいなのにたとい峠区間といえども周りと比べれば停車本数が大きく減っているのも、惹きつけらた。

  立石は独特の町らしいのは、さきほどの、駅の壁や中に掲げられた壁画ですでに知らされた。土着の祭りや、特産物をすっきりしない筆致で描いてある。大分圏と北九州圏という大きな境というだけで、そのような独自さは予見されたから、壁画を見ると余計に独特なのだと思われた。しかしその独自さも、案外大境界によくある程度のなのかもしれなかったし、どちらかわからない。
  何もはっきりとわからぬまま、ぼやけたまま、日が暮れていく。結局駅には誰も来なかった。この旅行でここが最後というのんびりした気持ちも相まって、私はアイスを買って食べたくて仕方ない。季節柄まだ腕や首を動かさないではじっとしていられない寒さだが、かなり疲れていたらしく、とにかくとても甘いものが食べたかった。しかし結局決断できない。こういう寒さで旅行中に冷たい物を食べるとろくなことがないと経験していたので、自制した。

通過する貨物列車。

  こんな生ける屍の駅に居ながらにして、宵はすぐに深まって、夜になりかけた。暗くて、もう駅舎によう近づくことができなかった。駅はしょんぼりと街灯がともり、静かだった。本当に停車列車が来るのだろうか。列車の来るかなり前から、寒さのためホームを短く歩きまわりながらひたすら列車を待つ。この列車を逃すと、高速バスを乗り逃すだろう。ここは1日の本数も少ないから、ただでさえ貴重な一列車だと思い至ると、逃すことを極端に恐ずにはいられなくなった。
  たった独りで、意図せずして足と地面の摩擦で砂の音をあたりに響かせながら、ことあるごとに列車の来る方向を見つめた。

すっかり日が落ちて。

あの縦型駅名標、灯ることを確認。ちゃんとメンテナンスされているんだ。

宵の終わりころの立石駅構内。中津方。明るく写っている。

  ライト輝かしてしばらくぶりに停車列車が入って来た。列車の窓は薄暗く白い蛍光灯がともっている。私は歯を食いしばって、確かに来たと認識した。ドアが開く。夜訪れたこの遺構のような駅との橋渡しができる。確実に一足踏み込む。すると8人ほどの立ち客らが驚いたようにいっせいになめるように私を見回した。異界を解剖した、異界からの使者だった。

迎えの列車。

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