夏のきらめきのみなとまち─
敦賀駅から敦賀港駅をめぐり金ヶ崎城址から海を望む小旅行

港へ

  分厚く頑丈な屋根のアーケードは歩道に深い影をつくり、 真夏の直射日光をしのいでくれて歩きやすかった。 地面の石はどれもきれいで、影が深いこともあって冷たい感触があった。 お盆のため、右手に延々と並び通した商店には、シャッターを完全におろした店も多かったが、 シャッターを1枚だけ開けたほぼ休業の店や、 すべてのシャッターを上げた平常営業の店もあった。 シャッターを半端に開けたある店では、里帰りだろうか、 子どもの兄妹が出入りして遊んでいた。

アーケードの下に軒をずらっと連ねる商店  

  たぶんそう疲れる距離ではないだろうと、のどやかに考えて、 国土地理院の「敦賀」の地図をときどき見ながら、港まで出るつもりで歩いていた。 途中に歩道橋があって、のぼって見渡してみようかと思ったが、 どうやら視界は板で遮られているようだ。しかし見えるかもしれなかった。 そのうち左手の植え込みにときどき腰丈ぐらいのブロンズ像が現れはじめた。 なんだろうと思って見ると、銀河鉄道999の登場人物の像である。 ちょっと写真でも撮ってみようかと思ったが、向こうを見ると、さっそく次の一体が見えた。 さては、これ、幾つも種類があるんだろうと思い、何もしなかった。
  それから数分でアーケードが途切れて、大きな交差点に出た。 白銀 (しろがね) の交差点だ。 目の前にはでかでかと平和堂アルプラザが聳えている。 一部総ガラス張りで、夏の雲を映していた。中にAlexという映画館も併設している。 暗い映画館の中はぎんぎんに冷房が効いていそうだ。 平和堂1階のマクドナルドに直面している横断歩道の信号には、 待ち時間が数字で表示されるようになっていて、 敦賀の人はいらちなのか、はたまたここに限って信号無視の横断が多いのか、と考えたりした。

水色の空に一筋の薄い雲。大きな交叉点だが、全体的に向こう側は賑わっていない。 白銀の交差点。来た道は左側で、右手に平和堂がそびえているはず。 この写真の直進する道は小浜へ抜ける国道27号線。

モカ色の建物で、かどを含む左側面は濃いメタリックブルーのガラス張りになっている。 平和堂アル・プラザ。

  交差点で真新しい丈夫なアーケードは器用に右に折れ、商店街が続いていた。 アーケードの空間は影で少し暗いが、明かり取りからのやわらかい光もあったから、 薄暗くはなかった。その道を見て、たぶんこっちだろう、それに涼しそうだと思い、 アーケードに沿って右に曲がった。
  人はまばらで、向こうからやってくる人も少なく、 ときおり夏休み中の中高生の自転車が脇を数人で通り抜けるだけだ。 シャッターの下りた店も多く目につくが、 寒々とした商店街という雰囲気には程遠く、 国民単位での里帰りらしい、自由な雰囲気の伸びやかさが漂っていた。 誰が休んでも遊んでいても、当然、きょうはお盆なのだから、 と理解してすましてしまうような空気だ。
  道の左側にも商店の多いアーケードが続いていて、 本格的な市街中心部に入った気がした。 また、路肩には、道と直角方向の無料の駐車場がいくつもあり、 商店街での買い物に便利そうだ。この道、これでも国道8号線である。 左脇にときどき現れる植え込みの中には、またブロンズ像が姿を現した。 たまたまじっくり見てみると、これは日本原子力発電株式会社の提供となっていた。 この像の向かいには原電関係の施設が入っていた。

笛吹きのブロンズ像 ブロンズ像自体の背は低いが、台座が高いため、全体的に大きいものだった。

  この通りのアーケードは、さっき歩いてきた、 駅から白銀の交差点までのアーケードと違って、 開放的だと思ったら、アーケードの上には三角形や、 道に向かってカーブしたサンルーフなどが取り付けられていて、 それが明かりとりになっているのだった。 ガラスで弱められた夏の光がタイル石の地面にうつろに映り、 吊るされた幾つもの風鈴がりんりん鳴っている。 遠くが鳴ったかと思ったら、近くが鳴って、 止むことなく遠くから近くから鳴り流れて、風がわたっている。 空気はさわやかではなくて、肌に迫るように湿度が高かった。 アーケードの影の外にふと現れた白く輝くタイル石のバスのりばに出て道路を望むと、 太い道路は、背の低いビルの稜線からしっかりと 青空を覗かせながら、爽快に延びていた。 並んでいる建物の背が低いから、空のみえる空間が確保されているのだった。 これが、大都市と違っているところだった。
  アーケードの柱には、観光客に配慮してか、 化粧室まであと何メートル、という表示が幾つも取り付けられてあって、 これには驚いた。規模の大きな公園ではたまに見かけたことがあるが、 商店街にあるとは、なかなかの力の入れようだ。 1つトイレを通り過ぎると、今度の表示はあと500何メートルなどとなっていて、 これはもたないだろう、と思いつつも、表示の多さと丁寧さに感心した。

雲ひとつない深い青空、真新しいアーケードに2,3外の建物が続き、太い道路がまっすぐに伸びている。 本町一丁目交差点の手前。空が広い。

アーケードの柱の上のほうに飛び出すように取り付けられた横置きの長方形の鉄板製の看板。クリーム地に男女のトイレのマークと「化粧室 Toilet」214mと書かれ、その下の細長い緑地に「気比神宮前」と書かれている。 化粧室214m. 気比神宮前の看板。

アーケードがずっとのびて、左手に商店が並び続く。 振り返って。お盆らしい商店街だ。

反対側の歩道のアーケードに鉛直に並んだ自動車4台。 これが例の無料の駐車場。こんなふうに、 6台ぐらい路肩に対して垂直に駐車できるスペースがいくつもあった。

すっきりした青空のもとの交叉点を少し遠くから望む。 気比神宮前交差点。

  気がついたら有名な気比神宮まで来ていた。 大鳥居の中は木々が適度に茂り、緑によるみずみずしい影が深々とつくられていた。 入ってみたいと思ったが、鎮守の森ならまた今度でもいいだろうと思って、 足を金ヶ崎 (かねがさき) へ伸ばすことにした。 大鳥居の前の信号を待っていると、ほんとうに暑くて、 炎天下で、くらくらした。歩道の白いタイル石が目にまぶしい。 それなのに、遠く向かいの交番の前には巡査が立っていて、交通を見張っていて、 一体何をしているのだろうかと思えた。
  やっと信号が変わって、道路を渡ると、またアーケードが続いていた。 敦賀の商店街は大きな商店街だな、と思いつつも、港はまだかな、と思った。 アーケードの道ばかり歩いていくのも変な気がして、 わざと道を一本ずらした。

木々と赤い大きな鳥居 道路を渡って、大鳥居を望む。

左の手前には駐車場があり、ほかは朴訥な住宅が並ぶ2車線道路。路面はつぎはぎだらけ。 道を一本ずらして。

平屋の切妻の立派な寺。背の高い石碑がいくつかある。 脇道で出会ったなんかの寺。

  自動車の走る商店街から脇道に入ると、とたんにひっそりとして、 見た目に電柱と電線の懐かい風景になった。 歩いていくと何かの寺があって、戦没者慰霊碑が立派で目立っていた。 寺の名前は暑くて無関心だった。 先の方にある家の前では、家族らしい2,3人が自動車から積荷をおろしたりしていた。 きっと里帰りだろう。 歩いていくと、ソースカツ丼で有名なヨーロッパ軒の裏に出て、 そこでは黄色や水色のフードコンテナが何段にも積まれてあった。 おいしそうなにおいはするかなと、少しのあいだ嗅覚を澄ましたが、 残念ながらにおいはしなかった。 まっすぐ突き当たるとT字路だった。左に折れた。

  左に曲がると、再びアーケードのある元の道に出たが、 少し歩くと、はたとアーケードが途切れた。 なんだ、アーケードの道はあと少しだったのか、なら脇道に行かず、 アーケードを味わい続けてもよかったな、と思いながらも、 目前に開けた港町の情景に、思わず胸が高鳴ってしまった。 静かなだだっ広い交差点の先に、電柱が一本もない。 いよいよ来たな、しかしまさかこんな突然の形で想像が訪れてくるとは。
  木造の「協栄建材」の建物を間近に過ぎると、 とうとう港の倉庫群が横に連なるようになり、その裏は海らしかった。 木造やモルタルの古倉庫にはすごみがあった。 こんなものがいまだに残っているとは。

広くて大きな閑散とした交叉点。向こう側の建物はまばらで、電線もなく空が大きい。 港町のはじまりの交差点。

横板で覆われた木造の建物。屋根瓦は紅色。 「協栄建材」の建物。

シャッターに太く大きい白い字でNo5,No4,No6と順に書かれた3つの倉庫。いずれも木造。 港らしい倉庫群。

右手に長々と続く古いコンクリートの倉庫。 歩道も十分すぎるぐらい広い。

人も車も通らない太い道路の左脇に並ぶ古いコンクリートの倉庫。 金ヶ崎側に延びる倉庫群。

信号もない路面の傷んだ広い交叉点。向こう側には大橋の登り道が続いている。 反対側、港大橋側。

  倉庫前の交差点は広々としていて、信号機も標識もなく、 人も車の通りもほとんどなく、 対角線向こうの自動販売機がかろうじてひと気を放っているといった感じだった。 倉庫の近くの路面は少し陥没しひび割れ、そこから砂が放たれていた。 きっと重いトラックが倉庫の裏から何回も出入りしたためだろう。 雲ひとつない青空の真夏のお昼の人通りのない港町は、 じっとりと身に染み込むような暑さで、 爽快で少し荒涼とした風景と裏腹だったのが印象的だった。

  木造や古いコンクリートの大きな倉庫がどうどうと軒を連ねるここ蓬莱町は、 指定保税地域と呼ばれ、関税を支払うまで、 輸出入の積荷を置いてもよいと、関税法で指定された地域だ。 蓬莱町は、そのとなりの桜町と共に指定保税地域で、 大阪税関の敦賀税関支所の管轄下にある。 国の管理の元にあるのだということを知ると、特別な場所のような気がして、 港町に与えられた正統性と威厳の要因を見つけた気がしたし、 また、港の雰囲気というのは、数え切れない人々の出会いと別れと、 物流移動と、そして輝かしい歴史が造り上げたという、 特定することができない要因だけによるものではなく、 実際面での港の運用に合わせた法律、管理などが 一緒になって作り上げたものであると考えることにも思い当たった。

焦げ茶の長い横板でできた倉庫の端から道路の行く先を望んで。 木造の倉庫前の通り。金ヶ崎方面。

薄茶色く汚れた2階建てのコンクリートの倉庫。 コンクリートの倉庫。出窓が凝らしてある。

白地に青い字で書かれた蓬莱・桜岸壁の看板 港大橋側にあった、蓬莱・桜岸壁の看板。

  さあ、いよいよ海を見に行こう、と思い、 横長の倉庫を突き抜けている道を直進して倉庫群の裏側へ入っていくことにした。 交差点の高いところに「蓬莱・桜岸壁」という看板があり、 矢印が交差点の叉路のうち海の方向に延びる方の道を指していた。 きれいな名前だ、どんな海岸名所だろうと思ってさっそく進んでみると、 工事中らしい立入禁止の表示が幾つも出ていて、 海岸のかなり手前には長いアコーディオン式の柵が巡らされ、 海の上には真っ青な鉄骨の閘門のようなものが荘立していた。 海の水はまったく見えない。 もしかして名所を壊して港を整備しているのだろうか? 見られないのは運が悪かった、少しでも面影が残っているだろうか、 と思って急いで海の近くに進んでみるうちに、 自分がとんでもない勘違いをしていることに気づきはじめて、ほっとした。 岸壁とは、港における船の接岸場所の呼び方であることを思い出したのだった。 それにしても良い名前を付けたものだ。きれいな名前だと思った。

真っ青な鋼鉄の凱旋門のようなもの。工事中らしいようすで赤いクレーンが2機天辺に並んでいる。 工事中の風景。

左右に2階建てぐらいの高さの倉庫。その間の敷地は舗装され、長々と駐車場が続いている。 港大橋側の倉庫裏の風景。

  いつのまにか倉庫の裏側に回り込こんでいた。 倉庫の裏には駐車場がずらっと並んでいて、 ところどころに軽トラックが駐めてあった。 私の姿が見つかれば、行動を抑止されるかもしれない思ったが、誰もいなかった。 しかし人の気配は何となしにあった。倉庫番がいるのだろうか。 倉庫に沿って、金ヶ崎側へ歩いた。 右手には古くくすんだコンクリートの倉庫が大きな影をつくっていた。 左手に海の水がときどき垣間見えた。そこからなら眺められるかもしれない、 と思い、思わず近寄って、覗いてみた。 工事用の柵が邪魔して入ることはできなかったが、 わずかに港らしい岸壁を見ることができた。 工事が終われば、人に希望を宿してくれるような波止場が見えるようになるだろうか。

  倉庫が途絶えて、倉庫の切れ目が右手に現れた。 そのあたりでは大型の観光バス1台がハンドルを切り返して方向転換している。 このあたりに観光客を連れてきたのだろうか。 倉庫の切れ目から再び、一般道に出て金ヶ崎に向かおうとすると、 目の前にはこれから登る予定の金ヶ崎の低くて長い尾根が海に突き出すように伸びていた。 左に真新しい、ホールのような円柱形の変わった形の建物が見えて、 灰色の波板のようなもので覆われた側面には「立体映画館」と書かれてある。 地図には、隣の長方形の「イベントホール」の建物とつながって、 前方後円墳に近い形を残していて、気になっていた建物だった。 ちょうどそこから家族連れがやってきたので、 開いている、と思い、中に入って休憩することにした。 あまりに蒸し暑かったから、涼しいところで冷たい飲み物を飲みたかったのだ。 しかしガラスの扉を開けようとすると、開かない。 ふと見た貼り紙によるとお盆休み中だという。 ではさっきの家族連れは? 遊びに来たのに閉まっていたから、帰ることになってしまった人たちだった。
  立体映画館とイベントホールをあわせたこの建物は、 今は「きらめきみなと館」と呼ばれ、「つるが・きらめきみなと博21」 の会場の一部として使われたものだった。 そう、ここから先は「つるが・きらめきみなと博21」の会場だったのだ。

  「つるが・きらめきみなと博21」は、敦賀港開港100周年を記念して、 1999年7月18日から、8月16日の30日間にわたって開かれた博覧会だった。 この「きらめきみなと館」は、 当時「シー・アドベンチャー・エネルギー館」という名前を与えられ、 立体映画館では (海洋IMAX) 3次元立体映画「ブルーオアシス」を上映し、 となりのイベントホールではパソコンを使ったクイズやゲームを開催していたという。 パソコンを使った、というのが当時としてはポイントだっただろう。 博覧会が終わると、きらめきみなと館は市が譲り受けたが、それから6年後、 立体映画館は慢性的な赤字から抜け出せなくなってしまった。 ついに閉館が決定され、改装されたのち、 この旅行から2か月半後の2006年10月1日に、 「イベント小ホール」として新たに出発を果たすこととなった。
  つまり映画館ではなくなり、単なるホールになった。 交付金の使われ方が問題になり、バブル景気の名残ともいわれた。

灰色の波板のようなもので覆われた壁を持つ円柱形の建物の側面。濃い青字で立体映画館と書かれてある。 立体映画館。

広々とした道路。ずっと向こうに登りの橋。左手に低くて四角い建物が少しある。 映画館前から港大橋を望む。肩を落として帰る人たち。

4方向の短い壁によって支えられた中抜きの灯台のような碑。中には小さな鐘が吊ってある。 立体映画館脇にあった、敦賀港100周年イメージソング「萩の花郷」の記念碑。 敦賀気比ライオンズクラブ創立5周年の記念も兼ねている。

爽快なきらめきのみなとにに臨む金ヶ崎緑地へ

  大阪鶴見緑地で行われた「国際花と緑の博覧会」(1990)の会場跡地や 「日本万国博覧会」(1970)跡地のエキスポランド、 それは当時の喜びや楽しみのかけらを、それぞれが持って帰った場所のようだった。 だから、その人たちが集まると、 そのときと同じ内容の喜びが再現されそうだ。それはどこか世代的な場所だと思う。 そうして博覧会跡地はたいていもの悲しい雰囲気を漂わせているのだが、 それは博覧会があまりにも祭典だったからだろうか。

  しかし、ここ、みなと博の跡地は違っている。 湿っぽさは少しもなく、そういう空気さえ吹き飛ばすような爽快感があった。 とても心地よい、すっきりする場所なのだ。
  蒸しかえる空気の中、立体映画館をあとにすると、港が近くなった。 かきーんと晴れ渡った空の下に、 木造のデッキに立った銀色のシンボルモニュメント3つがぎらぎらと輝いている。 もちろん、みなと博のときのもので、モデルは北前船からとられた。

船の帆をデザイン化した割と小ぶりな銀色のオブジェが重なるように3つ。 北前船をモデルにしたシンボルモニュメント。

古いコンクリートの河口近くから港を。しかし少し遠くにはすぐ敦賀半島の大きな山塊が控えている。 どうどう敦賀港。

  河口の橋を渡ると、もうすっかり海が見えた。敦賀港だった。 敦賀港は良好な天然の港といわれるだけあって、 少し向こうにはもう敦賀半島が控えている。 きもちよい風景だから、しばらくたたずんだ。 いい風が来た。わあっ、とよろこんで、もっとここにいようと思った。 でも、しばらくして凪いだ。その凪ぎ方といったら、 ほんとうにぱたっと風が来なくなって、 そうしたら蒸し暑いのなんの、さっき風を受けたものだから、 それだけいっそう息苦しくなる暑さだった。 こんなのだったら歩いた方が暑さはましかもしれないと思ったぐらいだったから、 歩いた。今、敦賀港は大工事の最中だが、 それは港湾改修整備の国策の一環でもあるのだろう。 海側に工事概要図が立てられてあった。 その図が見ものなのは、港埋め立ての断面予定図が描かれているところ。 こんなふうに埋め立てるんだと思った。そこを通り過ぎると、旧敦賀港駅だった。

敦賀港工事概要計画概要図。カラーの設計図。とても大きな横長の看板で表示してある。 工事概要図。

城に近いクリーム色の外壁の洋館。屋根の左側だけとがっている。入り口正面に丸い時計が付けられてある。 旧敦賀港駅。

  かつての敦賀港 (つるがみなと) 駅駅舎の復刻としてよく知られているもので、 もちろん、これもみなと博のときのもの。2階建ての西洋建築だ。 入口正面の丸い時計がなんとも駅らしい。あ、正午まで、あと5分。
  この日は中で写仏展をやっているということで、 何人かの人が入っているのが見えた。 またこの建物を丁重に撮影している人が一人いた。 建物の左脇には博覧会時に埋めたタイムカプセルの碑があり、 碑文によると68万6000人の記録を詰めたという。いつ掘り起こされるのだろうか。
  旧敦賀港駅の中に入ろうと思わなかったのは、 現在の敦賀港駅を早く見てみたいという思いがあったからだったと思う。 しかし中へ入って2階へ上り、港を見渡すのも悪くなかったかなあ。 この旧敦賀港駅の先からは、みなと博のメイン会場だった金ヶ崎緑地だ。 地面は模様を描くようにきれいなレンガが配され、 特に割れも傷みもなくて、かつての賑わいという言葉はふさわしくないほど、 すっきりしていてきれいだった。

朱色と灰色と黒色の細かい斑の大理石でできた、背の低い3段重ねの碑。 つるが・きらめきみなと博21タイムカプセル記念碑。

先ほどの旧敦賀港駅を正面から。背景に余計なものを写していない。 こんなふうに見ると、当時らしいかな。

右奥の少し離れた所に緑に覆われた低い金ヶ崎が突き出ている。手前からは適度な広さのレンガの広場。左には旧敦賀港駅の建物の端がちらっと写っている。 上の写真右手の風景。金ヶ崎緑地手前。

左端にアスファルトの道路が少し、右に港の海が少し写っている。真中はレンガのカーブした広場。 少し歩いて、振り返って撮影。左から順に旧敦賀港駅、シンボルモニュメント、立体映画館と3つそろって写っている。

金ヶ崎緑地にて

海に臨むカーブを描いたレンガの広場 金ヶ崎緑地。

木造のデッキからパステルカラーのレンガの広場と古めかしい時計台を望む。 金ヶ崎緑地中央。

  いよいよ金ヶ崎緑地に到着。ここも目的地の一つだった。 適度な広さのレンガの広場がカーブするように伸びていて、 特に海側は木製のデッキになっている。 みなと博当時は、この緑地で野外レストランがいくつも開かれて、 ミュージカルも催された。現在でもイベント時に利用されているようだ。 風は気持ちよく渡ったかと思うと、完全に凪いだりして、 しまいには凪ぎっぱなしで暑くて仕方ない。 とぼとぼ歩いていると、放送が流れているのに気づいた。 なんだろう、と思いながら、緑地の真中あたりまで来ると、 スピーカーの近くまで来たせいかよく聞きとれた。
  それは、歳を重ねた男が、虚しさと諦めの念を込め、 うごめくような低い声で、弔辞を読んでいる放送だった。 ああ終戦だ、と思い出した。その瞬間、より厳しく、より大きな声で、
  「黙祷」。
  ちーんという金属音とともに静寂が支配した。 でも、蝉は、まるで金ヶ崎の低い山全体がうなり上げるかのように鳴いている。 蝉が、というより山が鳴っていた。
  8月15日、正午。終戦記念日。
  思わず黙祷した。でも3秒ほどうつむいて考えを無にしただけだった。 とにかく暑い。それに、ちーん、は死者を代表する声としては あまりにも単純に集約されていたし、陳腐にさえ聞こえた。 時代の隔絶感があった、だがむしろその音で以って隔絶されたかのようだった。 そして、半ばすてばちな気持ちに支配された。 この港町敦賀まで列車に乗ってこられて、そしてこうして歩けることには、 ただではすまないことであった。記念日の大きな意義のひとつに、 自然とあずかれて素朴な感動を感じた。
  考えてもわからないことも出てきたけれども、とりあえず敦賀港駅へ行き、 それから金ヶ崎城址に登り、若狭湾をすっきりと見果てようと思った。 金ヶ崎緑地から見る海は、大規模な工事のため、 遠くの埠頭も、工事用の柵や重機で雑然としていた。

  しかしとにかくのどが渇いた。自動販売機を探したが、 中途半端な探し方だったせいもあって、見つけられなかった。 代わりに、芝生の上にライトアップ用の移動可能な大きなライトがおいてあるのを見つけた。 夜間、ここはライトアップされるのだろうか。 もちろん、これから水分補給なしで金ヶ崎城址に上るなんて無理だと思ったが、 そこまでにあることに期待をかけた。

木製のデッキには赤いコーン、すぐ先は海だが、ずっと向こうの右手は埋め立て中で、雑然としている。 敦賀港。

右側は木製のデッキ、左側はレンガ詰めの広場。 金ヶ崎緑地を振り返って。影が短い。消えてしまうそうだ。

アスファルトの敷地の向こうにコンテナ積み。すぐ後ろに横長のすごく低い山。 金ヶ崎緑地を出て。

敦賀港駅へ

砂利の敷地。右手には60cmぐらいの段差の上に2車線の道路。右奥には大きなタンクやコンテナ、クレーン。 海側を望む。

  金ヶ崎緑地を出ると、さっそくコンテナがいくつも現れた。 ああこれは駅も近い、と思ったが、これが意外にもなかなかたどり着けなかった。 新しいよい道路に出て、地図を頼りに、海とは反対側に向かって歩いた。 駅はこちら側だ。途中、金ヶ崎岸壁を指した看板を見つけた。 自分が歩いてきた方向を指している。今度は名所と間違わなかった。
  途中、足元にもぐりこむ道路を見下ろすところに来た。 金ヶ崎をくぐるこのトンネルは、金ヶ崎臨港トンネルと呼ばれ、 敦賀新港につながっている。新港は客船フェリーのりばがあり、 魚釣り場が整備されてちょっとしたいい公園になっている。 道路を見下ろしおわると、左手には相変わらず線路とコンテナの風景、 そして右には赤レンガ倉庫が見えた。このあたりは見所が迫っている。
  赤レンガ倉庫は港町によくあるもので、ここ敦賀にもちゃんと残っている。 1905年に造られたもので、みなと博当時は展示会場として使われた。 レンガが密なため、表情は相当に堅牢そうでいかめしい。 しかし裏を見ると、何箇所か大きく斜めにずれていてた。

下にもぐりこむ道路を見下ろして。左はコンクリートの壁面、右手は雑草の茂る土手。 新港につながる金ヶ崎臨港トンネル。歩行者・自転車も通行可。

三角屋根の赤いレンガの倉庫2棟 赤レンガ倉庫。

斜めにひび割れたレンガ 金ヶ崎町4番地。

左に薄暗い色の赤レンガの倉庫、右手には他らしいレンガを敷き詰めた道。 赤レンガ倉庫を後ろから見て。

  地図によると、この倉庫あたりに敦賀港駅があるはずだったが、 どうしても見当たらない。そしてとうとう廃工場のようなところに入り込んでしまった。 右にはコンテナをつるし上げる巨大なクレーンがあって、 コンテナを運ぶレベルの数台のトラックが、自重で死んだように眠っていた。 左には長い2階建ての工場があった。 2階のガラス越しに作業服が見えたが、吊るされているものだった。 きょうはお盆だから休業しているだろう。 ほんとうにこんなところ通ってもいいのかな、人がいるんじゃないかな、 と思いながらも突き抜けて、金ヶ崎宮への道の前まで出てきた。 駅へはその道を金ヶ崎宮の方向に歩いて、 踏切の手前で左に折れればよかったのに、 それとは知らず、反対方向へ歩いてさらに彷徨うことに。 今まで歩いてきた道は地図に載っておらず、実地で探すことにしたためだった。

少し遠くに山肌。その手前に踏切。赤の幟が多数。 金ヶ崎宮への道。駅へは踏切手前を左折すればよかったのだが…。

緑の街区表示板 金ヶ崎町7番地。

後ろに低い山、左に白いプレハブで2階建ての建物。手前に踏み切り。 貨物線の踏切。右手に妙な寺が見える。

単線で遠くまで繊細にうねっている線路。左には急な山肌。右手には民家。 貨物線の風景。市街側を望む。 線路が案外くねっている。鶯色の鉄橋は国道8号線のもの。

直進している寺の回廊。その先に極めて短いトンネル。 2枚手前の写真に写っていた寺、永巌寺。 国道8号線をくぐるために凝ったトンネルが作られてあった。

  反対のこっちは貨物線がくねりながら街のほうまで伸びているほかは古い細路地で、 結局いったん金ヶ崎宮への道に戻った。 その途中、ようやく踏切から駅舎らしい建物を見つけることができた。 でも気持ちはかなり疑ったままだった。 しかし、とうとう正面まで歩いて来て、ここか、やっと見つけた、と思った。

敦賀港駅

  何本かの線路を渡ったところに、 明らかに木造で、どっしりと瓦屋根が載った建物があった。 サッシの出入口の上に掲げられた濃い青色の駅名標がゆいいつ、 駅舎であることを語っているようだ。 建物のうち旅客の取り扱い部分をなくすと、こんなふうになるのか。 事務所のように見えたのは、それが本来の役目だからだろう。 周りにはコンテナが積み重ねられ、フォークリフトが置いてあった。

ごつい瓦葺の平屋の建物。壁は薄茶のトタン。 敦賀港 (みなと) 駅駅舎その1

駅舎と線路。 敦賀港駅駅舎その2

壁のように置かれたコンテナ 駅舎と反対側の風景。

踏切から線路を。左には金ヶ崎の山。右にはコンテナ取り扱いの広場。 金ヶ崎岸壁側。

上に敦賀港駅の表示を掲げたサッシの出入り口。 事務所入り口。消えかかった字で書かれた「敦賀営業所」の木の表札が掛けられている。

左奥に小さい小屋。右に至近距離で駅舎の角。 出入り口の左側。「貨物取扱所 取扱時間8時から16時まで」の看板。 中央の棒は木の電柱。

  それにしても、あたりには人影がなかった。 しかし、いつ活気があふれ出してもおかしくないような、 中途半端に動作が止まった風景だった。 もし事務所の中に人がいるなら声を掛けようと思っていたが、 軽く覗ってみたところ誰もいないようだった。室外機は止まっていたが、 細いホースからの水が古いコンクリートの地面を濡らしてあった。 事務所を外から見ると、パソコンが何台かあって、 資料の綴じられたバインダーがいくつもあった。 私自身、敦賀港駅は半ば営業停止だと思い込んでいたこともあって、 何もためらわず闖入してきたけど、そうではないらしい。 事務所の裏に回ると、左に事務所とは別に建てられたトイレがあった。 男女で分かれてあったのが意外だった。たいていこんな所につくられるトイレは、 男女兼用につくられそうな気がする。 トイレの向かいには、かの有名なランプ小屋があった。 ここがまだ旅客扱いをする金ヶ崎駅で、欧亜国際連絡列車が発着していた時代、 列車の尾灯をともすカンデラの燃料をここに保管していた。 レンガ造りの建物は、こんなふうに耐火性を目的にして利用されることも多い。 レンガの壁をじっくり見ると、職人のものらしい文字が入ったものもあったが、 たばこのむな、という注意書きにも引きつけられる。 昔は、たばこを喫む、といったようだけれど、今はあまりいわない。

横長のレンガの建物。右に、上部がアーチになった木の扉、左にも上部がアーチになったガラスの窓。 ランプ小屋。

ランプ小屋の説明板。 説明板。

  ランプ小屋をあとにして、再び事務所の入口まで戻ってさらに事務所を回りこみ、 裏に見えている道への出方を探っていると、 ちょうどいい隙間があって、そこから出られた。 出ている最中に、右の方から道を行く一人の中年の男性が見えて、 出たと同時に、その人の位置に自分の位置がほぼ重なった。 私もその人も左へ向かったから、少しの間、二人の歩みが同じになった。 この道は金ヶ崎宮へ登る道らしい。 この人は金ヶ崎宮にお参りするのだろうか、と考えた。 私は歩みを緩めて後ろについた。 再びランプ小屋が見えたあたりには大きな蘇鉄がそびえていて、 港からの風が吹くたびに硬くて乾燥した長い葉ががさがさ鳴っていた。 私はその音を、貨物の人か、道の向こうから来る人の物音かと思って しばらく蘇鉄を凝視していた。

左に平屋のランプ小屋。今立っている道から少し降りた所にある。 道中からランプ小屋を再び見て。右の建物が敦賀港駅駅舎。

金ヶ崎宮

緑の森の中につき上る長い階段。 金ヶ崎宮入口。

  蘇鉄から歩いてすぐのところに金ヶ崎宮の登り口が見えた。 ずっと長い階段が緑の中に続いていたけれども、それほど辛そうではなかった。 海を眺めるためならなんのその、という気概があった。 登り口の手前の左には、「これが世に出る関門です、耐えられぬということがありますか」 という文句が「金ヶ崎の退 (の) き口」と題して書かれてある。 脇に小さく「原作・司馬遼太郎 『功名が辻』より」と書かれてあった。 そういえば先ほどから赤い幟がやけにしつこく並んで風にはためいていたが、 それはここがテレビ・ドラマ「功名が辻」の舞台の一つだからのようだ。 この文句は、金ヶ崎から担がれて遁走する、重傷の山内伊右衛門の脳裏に 妻・千代が現れて彼を励ました言葉だという。 また反対の右手には「難関突破と恋の宮」と赤い字で書かれた看板があり、 ここ金ヶ崎宮では、このような人生の危急に願掛けするところのようだ。 そのような危急に心の支えとなるとされるお守りを、ここでは初穂料と交換している。 金ヶ崎宮によると、お守りは販売するものではないというから、 前文の終わりをそんなふうに表現してみた。 そういえば敦賀市内を走る自動車にはときどき交通安全金ヶ崎宮みたいなステッカーが 貼られてあったことも思い出した。 敦賀の人にとって、お参りといえば、ここ金ヶ崎宮となっているのかもしれない。
  2,3分で社務所のある広場に出た。桜の太い夏木立がたくさんあって、 木漏れ日が明るかった。広場にはたくさんの木の椅子と机があり、 憩えるようにされていた。花見にはきっと賑わうのだろう。

木陰の向こうに明るい木材で作られた平屋の社務所 社務所。

日の光によって黄緑に輝く桜の木漏れ日の下に何脚かの木製の椅子と机。 休憩所。

細い丸太を数本組み合わせて、表示板を囲むようにして作られた看板 ライオンズクラブによる植樹だという。1987.10.11

木々の間から見下ろした風景。それほど高い位置ではない。左に道路が見え、右手にはみなと博の会場地。海も水面も少し見えている。円柱形の立体映画館が少し遠くに見える。 金ヶ崎緑地を見下ろして。

  さっきの人は、やはり敦賀港駅を撮影しに来た人らしかった。 なんとなくそうなのではないかなと思っていたことが当たった。 その人の雰囲気というのだろうか。そんなものから感じ取られた。 その人は、この見下ろす地形からヤードを眺めおろした写真を撮って、 ついでに金ヶ崎宮の写真も一枚撮っていた。 もしかしたら、この方も展望台まで行くのかなと思ったが、 金ヶ崎宮の写真を一枚だけ撮り終えると早々に踵を返して階段を下りていった。 それもそうだ。この苦しいぐらい暑いお盆の日に金ヶ崎の展望台まで行く人なんて、 少ないはずだった。本当のことをいうと、 山のひとりは心細かったから (といっても、たいして山でもないのたが) 、 誰かいればいいなと思っていたのだけど、そうもいかなかった。 ここで水分補給のため、自動販売機で冷たい炭酸飲料を買った。 一口飲んで、お、おいしい、五臓六腑に染み渡る、 みたいな、おじいくさいことを思わずつぶやいてしまうほど、 水分が深々と体に滲透していくのか感じられた。

金ヶ崎城址─鴎ヶ崎を経て海抜90mの月見御殿へ

木の根元を見上げるような山肌にもとに説明板と碑。 花換の小道の前。

  小休止を打ち切って、椅子と机の広場を突き抜けた。 右に荘厳な神社が見えたが、それは見ずに、左に続く道を進んだ。 途中山肌にぶつかって、説明板と碑が立っていた。 左に、花換の小道と題して山肌を外周するような道が続いている。 右には柵越しにさっきの金ヶ崎神社の境内が見えた。 碑は背が高く、「史跡金ヶ崎城址」と彫られてあるからわかるものの、 花換の小道とはなんだろう、と思い説明板に近づいて読もうとすると、 急に蝿が相当しつこくたかってきた。 何度か払っても、すぐにまた、非常にしつこくたかってきて、 顔面に小さな石ころが何度も当たるようだったから、 ついには手を振るいまくり、変な声まで上げて、怒ってしまい、 説明を読むのをやめた、というより、やめざるを得なかった。 いつもなら、ちょっと間を置いて読もうとするのだけど、 なぜだかここの蝿は異常だったから、完全にあきらめることとした。 それにしても周りに人がいなくてよかったものだ。

  そういうわけで、とにかく花換の道を進むことにした。 左側にはときどき木々の間から展望があった。 これより先、火気使用禁止という立て札が出ていた。 公園として当局が管理しているのだろうか。 柵は石柱に金属の横棒を2本通した柵だが、 ひとつひとつの石柱に寄進者の名前が彫られてあって、 神社らしかったけど、新しく取り替えられたものにも彫られてあり、 丹精で感心した。
  後で調べると、ここでは春に花換 (はなかえ) 祭というのがあって、 桜の造花を男女で交換するのだそうだ。 交換し合った二人がこの花換の小道を歩いたのだろうか。

大理石の石柱にステンレスの横棒を二本通した柵。柵向こうに少し展望がある。 ここだけ真新しい柵になっていた。古いものと取り替えられたのだろうか。 「これより先火気使用禁止」の立て札とともに。

2車線道路のトンネル入口の上。アスファルトの広い敷地にコンテナが囲うように並べられてある。 金ヶ崎臨港トンネル坑門を見下ろして。

  途中、敦賀港駅構内の端がよく見えるところに出た。 ちょうど金ヶ崎臨港トンネルの門を見下ろしている。 ここを見下ろして、自分が敦賀港駅に行くに当たって、なぜ迷ってしまったかがわかった。 敦賀港駅が見えるはずの位置にコンテナが点線状に並べられてあり、 意図的に見えなくされていたからだった。
  気持ちのよい山の中の道を歩いた。 ほとんどが緩い上り坂で、山道ではなく、かなり楽だった。 路面はレンガで敷き詰められていて、おしゃれな道だ。

くすんだ紅色のレンガの敷き詰められた道。右手は山肌で木々がこちらに向かって緑を差し出している。この箇所は左にも木が生えていて展望はない。しかし明るい。 道の様子。

  こんな道なら、独りでもいけそうだ、と思い、 暑い中でも身の軽さを感じながら1分ほど歩くと鴎 (かもめ) ヶ崎、 というところの入口に着いた。 そばに大きな2つの案内図と方向案内指示表示もあって、 強くひと気を感じてうれしくなりもしたが、 同時にちらっと、少し先の木々の切れ目から、 北方向のきれいな海の水が眼下に見えて、 思わず興奮して、どちらを先に見たらよいかわからなくなり、 両方とも曖昧に交互に見ていると、 いつの間にか海面に目を凝らしていて、気がつくと、木々の切れ目まで歩いていた。

くすんだ赤いレンガの道のカーブからは、木々が途切れ海が見えた。

もっと海を覗き込んで。

  とにかく海の水が、そして風が凄い。 風が自分に対して幅広くのし掛かるように、そして包み込むようにぼうぼう吹いていて、 地平にいたときみたいに凪いでは渡りしていたのではなく、 ずっと吹きっぱなしだ。風のやむことがない。しばらくいると耳がひんやりするほどだった。 水は、ここは波が静かで細かいさざなみばかりだから、 よけいに海の水の美しさが際立つのだろう、とても澄んでいるように見える。
  そして、いくら目を凝らしても水平線が定まらないほどの奥行き。 海と空の、濃い水色と薄い水色とが、 水平線で限りなくとけ合わぬように見えるものだから、 息をのむほどの圧倒的な奥行きをつくっていて、 見つめると、自分の視線がすごい力でひき込まれるのを感じた。 それでも、美しさのあまり、水平線を見定めようと、目をむいて瞠 (みは) るものだから、 しまいには、水と空の色が、その冷たい風とともに、ざあっと目玉に厳しく流れ込んできて、 毛髪が風で強くうしろに靡く感覚とともに、自分の記憶につよく印象づけられた。

山地を鶯色で平坦に表現した「敦賀観光名称案内図」。看板はけっこう昔風だ。枠はこげ茶色。 金ヶ崎城址案内図。かなり最近のものらしく、平成の香がする。看板も新しい。多色を使って等高線で色分けをしてあり、各ポイントに詳しい解説が書いてある。 背後の案内板。左のはちょっと古い。

  これは一大事、と思って、これから先は走ってしまった。 鴎ヶ崎に下りることもやめた。なぜならここより高い所へ道が続いていたから。 近くに木々に囲まれた小さな休憩所があったが、休憩などできない。 しかしそこより先は多少きつくなっていて、山道らしい感じだったが、 人のいないことをいいことに、さしてはばからないやり方で息を継いで、 階段を走り飛ばした

木々に囲まれた土のかなり小さい広場。木の長椅子がおいてある。 鴎ヶ崎分岐付近の休憩所。

山の中の登りの薄い平べったい階段 階段道中。

「尊良親王御墓所見込地」と縦二行に分けて書かれた短い縦長の看板 尊良親王御墓所見込地を案内する看板。

  しかし、あまり飛ばして味わい損ねたらいやだ、 と思いなおして、寄り道した。 途中「尊良 (たかよし) 親王御墓所見込地」という看板が出ていたから、 それに従って行ってみた。
  右にあった凹地を手前に巻くように道があって、 その行き止まりに石垣に囲まれた柱が立っていた。 江戸時代末期に経塚が発見されて、石室から経筒、円鏡、椀が出土したと、 近くの説明板に書かれてある。後醍醐天皇の皇子がここ金ヶ崎で自刃したのだが、 それがだいたいこのへん、ということらしい。墓所指定地は別にあるという。
  結局、せく心は静められず、すぐに下りてもとの道に戻った。 道からは再び海が見えた。しかしこの史跡も、 あとで自分にのしかかってくるものの一つになるとは思ってはいなかった。

光差し込む薄い森の中、少し高い位置に石垣で囲われた太い柱が立っていて、文字が掘り込まれている。 尊良親王御墓所見込地。

白地に黒い字の手書きの説明板。アクリル板がはめ込まれて、字の保存性をよくしている。 説明板。

木の枝に囲われたように見える港の海。 港を造成中?

  元の道に戻って、また徐々に走りだした。 でも、走りながら、とてもせつない気持ちに襲われる。 なぜ走るのだろうか。その答えは今直視しなくてよい気がする。 とにかく今は走っておこう。 不思議なぐらい足がぜんぜん止められなかった。 途中、森の中で急激に左に折れる地点に出て、 「月見御殿まで徒歩3分」という案内が出た。 階段はますますきつくなった。

人工の薄茶の板に黒い字で「月見御殿まで徒歩3分」と彫られている。板は左側が三角になるように角を落とされてある。 三叉路に出て。

  およそ2分後、三叉路に出た。右に180度折れる道は天筒山山頂・金崎宮へつづき、 直進すれば、月見御殿。もちろん直進。 案内板は新しいもので、近年整備されたのだろう。 近くには、古い案内板の一部だろう「鴎ヶ崎」と書かれた板が朽ちて落ちてあった。 白地に黒い字で書かれた「鴎ヶ崎」はなかなか雰囲気がよかった。 この案内板のほうがよかったようだ。

明るい森の中の二股の道。 三叉路振り返って。

一部が腐って割れた板切れ 朽ちて落ちた昔の案内板の一部。

  この三叉路からは、もう月見御殿まですぐの道のりで、 次々と金ヶ崎古戦場の碑、古墳の案内板、と史跡紹介が現れたあと、 あっという間に月見御殿の手前に着いた。そこで走るのをぴたりとやめる。 もう手中だ。少しくつろいだ。
  これまで尊良親王墓所見込地を含むこれら3つの史跡案内を見て、 ここは大昔から歴史的に重要な舞台なのだなと知ったが、 まさか古墳時代まで遡るとは思わなかった。 しかしどこが円墳なのかわからない。

もろそうな石の柵に囲われた大きな自然石の外郭がいびつな碑。文字がたくさん書いてある。 金ヶ崎古戦場の碑。文字はもうほとんど読み取れなかった。

白いプレートに黒い字で書かれた説明板。太い木枠に吊られてある。 古墳の案内板。

  鬱蒼と緑溢れる森の道の脇には東屋があって、 軽い森林浴に来た人の憩いの場を軽妙に提供していた。 どうせなら月見御殿で憩うと思うのだけど、 わざわざその手前の、森の中に作ったのは、 海を見飽きている地元の人のためか、 海よりもゆっくり休憩したい人のためだろうか。 もっとも、月見御殿に近いところで東屋を作るなら用地がここしかないからなのだけど。 こんなところで弁当を食べるのもよさそうだが、 こんな中にはたいてい蜘蛛の巣があるものだ。でも蜘蛛の巣というと、なんとなく懐かしい。 こういうところに来ると、昔々の遠足のことを思い出してしまう。 そのあたりに半ば山土に埋まったコンクリートの古い階段が2,3段あった。 昔はどんな風に整備されていたのだろうか。
  その最後の数段を上ると、いよいよ海の展望。 戦国の武将が酒を飲みながら月見をしたとかいうところ。 いったいどんな眺望が待ちうけているのだろうか。

明るい森の中。道は幅があって少し上りになっている。右手にあずまや。 月見御殿手前。

白いプレートに黒い字で書かれた説明板。太い木枠に吊られてある。 月見御殿説明板。

森の中の開けたところからぼうっと青白い光。展望台はコンクリートでしつらえてあるようだ。 月見御殿直前の風景。

水の澄んだ若狭湾  

岸壁。右手には大きな敷地に黒い砂のようなものが溜め込まれている。  

  ぽ────────────────。
  おもわずそんな汽笛が聞こえてきそう。 眼下に横たわるは敦賀新港、大きな一隻の船は接岸し、 離岸して間もないもう一隻は半回転するようにして舳先を進路に取り、 ゆっくりと港を出て行こうとする。 風は、きれいな水の上を撫でながらやって来たのだろう、 とても心地よく冷たいが、風の中に空気の大きな不定形のだまだまがあるようで、 空に口をあけたようなこの展望台に、次々と惜しみなく投げ込まれるようだった。 だまだまが延々と顔にぶつかっている。こんなふうに多少荒削りな風が、 海抜90mで受ける若狭湾の風なのだろうか。

柵越しに見た石炭置き場 右手の火力発電所。

ずっと遠くの海岸沿いの道路。ところどころ低い山の斜面を法面にしてあるのが見える。 発電所よりもさらに遠くを。

  視界を柵の外に右に投げ出して、 すぐ下の石炭置き場と複雑にパイプのつながったセメント工場が目に映ると、 ふと視線を持ち上げ北の遠くへのばし、海岸沿いの風景に目を凝らした。 赤崎より北の、ところどころ山肌を削ってできた海岸道路がよく見えたが、 ときには越前岬まで見えることもあるという。 しかしその黙殺には気づいて、見直す気になった。
  首を窮屈に右へよじってみると、 泉 (しみず) の石灰の採掘場もよく見えた。 なかなか豪快に山を掘っていて、石灰の地質が白く見える。 あれがないとセメントができない。
  金ヶ崎という、ぶ厚く歴史の積み重なったそばに これらのものがあるのは、時代の混合がつよくてとまどいがあったが、 こわごわとしたこの必要な施設が、 金ヶ崎の尾根で市街と分かたてれいて、それは泰らかさの塁のようだった。

山肌がすっかり削られて白い地質が見えている。手前には複雑なパイプを張り巡らされた工場。 石灰の採掘場。

巨大な長方形の石炭置き場と山手にかかるように作られた火力発電所 石炭置き場と火力発電所。

  とろこでああして広大な石炭置き場が設けられているのは、 すぐ横にある敦賀火力発電所が 石炭を燃焼させることでタービンを回して電力を得るタイプの発電所だからだそうだ。 そして、石炭を燃焼させると出る石炭灰を 隣の敦賀セメント工場に回して活用しているのだという。 発電所の方は予約すれば見学もできて、展望台もあって楽しめる。 建設工事は6年9か月かけて行われ、 海岸から300m沖合いに岸壁を設けて埋め立てたというから、 ここからの展望で右側300mは海だったということになる。 ここからの眺めのよかったことがよくわかった。 月見御殿はまるで若狭湾の中空に鎮座して見下ろしているかのようだっただろう。
  そういえば眼下直下はどんなふうなのだろう、まだ見ていない、と思い出した。 地図によると、ここの海抜は90m. ついさっき、とんびが下方から螺旋をかくようにして、 ゆっくり上昇していくのが真近に見られた。

土を固めたようなでこぼこの斜面。下には港の隅の水辺へが見えている。 断崖の様子。

木の茂った岩の小島が短く地続きになっている。 眼下の絹掛ノ崎。

  直下を見ると、岩の小島が陸にくっついたようになっていた。 そして、それが待望の絹掛ノ崎だった。。
  前々から昭文社の敦賀市の地図を見ては、 この絹掛ノ崎とはどんなだろう、と思いを馳せていた。 その地図には、海に突き出した、尖った砂地ような感じで描かれてあり、 そばに「絹掛ノ崎」とぽつんと書かれてあった。 この輪郭にして砂地はへんだなあ、と思い、 国土地理院の2万5千分の一地形図も見てみたが、 やはり、そこには等高線は書かれていなかった。 だから砂地か岩場なのだろうと思っていたが、 実際に見てみると平地ではなく、 地形がこんもり盛り上がって木々も茂っていて、かなり意外だった。 これがあの絹掛ノ崎か、というふうに、 実際に見られたことにちょっと心を動かされた。 前々から、敦賀に来たときにはこの絹掛ノ崎に立って海を眺めよう、 と考えていたが、こんな高いところから海が眺められたし、 絹掛ノ崎の全容も見られてしまったから、もういいと思えた。 暑かったし、疲れてもいた。

  さて休憩、と決めて、近くの石の長椅子に腰を下ろし、 やや重みのある鞄を置いた。 金ヶ崎宮で買ったスクリューキャップの缶飲料のつづきを飲んだ。 まだ十分冷くて、とてもおいしく感じられた。 のどが渇いていたのを忘れていたようだ。 しばらく、座って缶を片手に、また立って海を見たりしていた。 座ると柵が邪魔して風景が見えにくかった。
  振り返ると皇太子殿下臺臨之跡の背の高い石碑が真っ青な顔で私を見つめていた。 裏に大正の年号があったから、おそらく昭和天皇のことだろう。 こうしてまた金ヶ崎はまたひとつ戦いの縁 (えにし) を重ねられたのであった。 なんとなく厭な気配を感じつつも、風景を眺めつづけた。

青い灰色のようないろの縦長の石碑。輪郭は自然石のようだ。 皇太子殿下臺臨之跡の碑。

柵越しの海。右手には巨大な石炭置き場。 柵越しの風景。

遠くに霞む砂地の島 水島だろうか?

  そういえば誰もここに来ない。ほんとうに来ないみたいだ。 敦賀の実家に帰った子たちがここに連れてこられるかなと想像していたが、 きっと祖父母に捕えられているのだろう。
  さて、このあとどうしようか。 予定では気比の松原に行くつもりだったけれど。 しかしすでにもの憂かった。敦賀駅に戻って、別の駅へ降り立とうかと考えた。 座り込んで、考えているうちに、缶を持つ手が風に煽られて冷たくなった。 半袖から突き出した二の腕も冷たくなってきた。もう帰ろう。
  海よさようなら。
  そうして海に背を向けて森の中へ入った。 すると、とたんになんだかとても厭な、気持ち悪い気配にとらわれた。 足が思わず速くなった。この盆に、 幾度もここで重ねられた戦乱とその関わりが、鮮やかになったというのだろうか。
  それはいかにもこじつけのようだけれど、 海を背中にして、森の中へ帰ってゆくとき、 喩えようのない気分の悪さがあったのは間違いなく、 どろっとした下界へ、再びもぐりこんでいくようだった。 そうしてみると、旅をいったん終えることの象徴でもありそうだ。 とんびを見下ろすようなところにちょっと慣れはじめていた。 でも不思議だ。来るときは心地よかった森林が、帰りには腐敗している。 速足はなかなか止まらなかった。

  森の小径の半ばで立ち止まって、落ち着いた。 きっと戦場の重なり合いが自分に刷り込まれている。 特に中世に絞って時の隔絶を再現し、冷静になると、 とたん、快適な森林浴に戻ったようだった。 帰り道は緩やかなコンクリートの坂になっていて、 ときどき階段を下りることがあったぐらいだ。 途中幾つも史跡が紹介されて、退屈にはならない。 三の木戸跡というところに出た。何もない単なる道中だ。 このあたりは南北朝時代には、水が湧き出していて用水場だったという。 確かに、右側も左側も谷のように落ち込んでいて、 ここから水が流れ出していたのかな、と思った。

白いプレートに黒い字で書かれた説明板。太い木枠に吊られてある。 三の木戸跡の説明板。

軽く彫られたような山の下りの斜面 セメント工場側。左側。

先ほどと同じ形式の説明板と地面にある短い石標柱。そこには焼米出土と彫られてある。 つづいて焼米出土地。短い石標柱と共に。

  2分後には焼米出土地が現れた。焼米なんて聞くと、 焼きおにぎりを思い出し随分と香ばしそうだけれど、 ここでは戦国時代に焼かれて炭化した米が出土したという。 なんとも苦そうだ。逍遥は森林浴らしいものに戻ったけど、 次々と現れる争乱の史跡には心は静まらないものがあった。
  3分後、分岐点に出た。 左に行くと天筒山山頂、右は金ヶ崎宮で帰還。 ここは二の木戸跡と呼ばれ、 南北朝時代には激戦となった付近であるという。 しだいに今までまったく人に会わない理由が分かってきて気がした。

森の中の三叉路。しかし道はコンクリート。左の道は下っていくように見えている。 分岐点の様子。

先ほどから続いているのと同じ形式の説明板 二の木戸跡の説明板。

  分岐点を左に行ってみようなどというへんな気は起こさなかった。 暑かったし、距離も長いことを知っていた。 天筒山の方も結構おもしろいものがあるのだけど。 右に折れると、下りの急なカーブがあって、それが終わるころ、 人里の雰囲気に道は終わっていた。 左に古いコンクリート製のちょっとデザインに凝ったトイレがあり、 右には収穫物を運ぶモノラックの一乗軌があって、 レールに金属製の網の籠がまたがってあった。 振り返ってみると自分の下りてきた道に続いていた。 いつからか自分に付き添っていたらしい。いったい何に使われたのだろう。

さびた一本の太いレールが地面から数十センチ高い所に作られてある。その上に金属製の網のかごを跨げてある。 レールとかご。

 すぐに缶飲料を買ったところに出てきた。 木の椅子と机がおいてある金ヶ崎宮前の木陰の広場だ。 そこでは老齢の男性が一人腰掛けて、 とてもおいしそうに買いたての冷たい飲料を飲んでいた。 私はそこのごみ箱に、空き缶を捨てた。 長い階段を下りて、金ヶ崎宮の入口まで来てふと振り向くと、 まだ先ほどのレールが顔を覗かせていた。
  金ヶ崎宮を出てると、夏木立からも出ることになり、 強い日差しが襲ってきた。左手の墓地では、 流行の服を着た娘と、その少し冴えない父が、 真新しい墓石に水を掛けて洗っていた。 歩きながら、今日という日を考えるよりほかなかった。

雑草のたくさん生えた急な土手のなかに一本のレール 随分と長く続いていたモノラックのレール。

右の土手から見事に太い桜の木が斜めに張り出している坂道。 金ヶ崎宮入口を振り返って。

  金ヶ崎緑地での鈴 (りん) の虚しい響きによる断絶を、 月見御殿に立つ蒼々とした皇太子臺臨之跡の碑が破壊していて、 そのことがしだいにのしかかってきていた。 戦いの時間の流れは断たれることなく、 ひとつの土地に結びつき、現代につづいている。 その碑に重なるように立って、ぼんやり海を眺めて、苛まされている。
  そういう時代の人々の窮屈さと、 楽に旅行ができるようになった今とが、 互いに隔たりを取り払われて時間の流れをつくり、 今日8月15日に流れ込んでいた。 したたかに厭な気持ちになりながら、猛暑の港町の白い歩道を、 駅への道筋もあまり考えずとぼとぼ歩いた。 ひょっとしたらあそこはむやみに訪うべき場所ではないのだろうか、 とさえ考えたが、しかしそれはあまりにも、たいそうな感じだ。 あそこは市民に親しまれているごく軽い散歩コース。 ただ選んだ日が、あまりよくなかった。

駅への長い帰還

白タイルの歩道の左にすだれを立てかけた新しいお店、右に赤い古いポスト。 途中、古いポストのあるお店の前で。

  海抜0から数メートルほどの市街地には、生ぬるい風すらなくなっていて、 気の遠くなりそうな暑さの中、じーんと空気が停滞していた。 自動販売機の前を過ぎるたびに、もう1本、飲み物が欲しい、と思ったが、 いくら飲んでもきりがなさそうだったから、買わなかった。 とりあえず、バス停を探して、そこでバスを待とうと思った。 停留所の見当はだいたいついていた。下調べしたから覚えていた。 海に直進する道を旧敦賀港駅に向かって歩いた。道沿いは、一般的な住宅地だ。 ときおり、道に面している部分がすべて引き戸になったような、古い家がいくらかあった。

  途中、大きな青看板があって、その中に左矢印を添えて「RORO船のりば」とあった。 調べると、RORO船はトラックをそのまま積んで、 着いた港でそのまま下ろしてしまう方式の、 近海郵船が運航している貨物船のことだった。 "Roll on Roll off"のことだという。 トラックの運転手のためにわざわざRORO船の表記が青看板にあるのだろう。 RORO船という表記を見て、初めは観光船かと思った。

街中によくあるタイプの大きな青看板 青看板。

港前のすっきりした交叉点と旧敦賀港駅 港の交差点と旧敦賀港駅。

  再び旧敦賀港駅に出た。 再現された旧敦賀港を、交差点を含めて眺めてみると、港の背景に溶け込んでいて、 なかなかいい建物だと思った。再現された旧駅舎が街に溶け込んでいるのは、 博覧会だけのためだけに建てられたものではなく、歴史的な根拠があるからだろう。 ふと交差点の目の前の角にある立て看板が目に入った。 それによると、明日16日に気比の松原で 「第57回灯篭流しと大花火大会」が執り行われるらしく、そのための駐車場案内だった。 やっぱりお盆というのは、旅行というより、死者を偲ぶ期間だ。 今日はめいめいが家で近親の死者を迎える日だが、 明日は多くの人とともに思いを一つにして戦死者を鎮魂する日となるのだろう。 この「灯篭流しと大花火大会」は、 1950年から戦没者の霊を慰めるために毎年行われている敦賀市の行事。 よって今年2006年は第57回となる。 夜になって香りの高まった潮風を感じながら眺める、 黒き海に流されたゆらめくおよそ6000個の灯篭の光は、 手をつないでいる相手との絆を、お互いまだ死者ではない、 という基本的な共通項で強くするのだろうか。
  そういえばここ敦賀港は引揚者の帰国や、難民の上陸の舞台ともなった。 この日は思い起こすべきことが連鎖的に顕われてくる。

  金ヶ崎城址での冷たい余韻を振り返りつつ、 旧敦賀港駅のあたりで、白昼の中、影のない白い歩道で、信号待ちをし、 暑さが怖くてときおり頭に手をかざしながら、 また影のいっさいない大きな道を、 とぼとぼと近くの市民文化センター前の停留所まで歩いた。 バスの時刻表を見ると次のバスまで20分だった。 バスの時間はまったく考えていなかったから、仕方ないことだった。 とりあえず影を見つけて10分ほどしゃがんで待ったが、よく考えてみると、 そのバス停は駅とは反対方向のかもしれず (市内循環のためわかりにくかった) 、 走って道を渡って反対側のも見てみると、次のバスは1時間以上先だった。 もうどうでもよくなって、駅に向かって歩きはじめた。 こういうときこそ、旅の快適を追求するべき、と思うのだが、気持ちに乗れない。

  すっきりと区画整理された住宅街の歩道がよくできていて、 白いタイルが敷き詰められてあり、 マンホールには細かい文様が施してあって、彩色までしてあった。 住宅街といっても港の住宅街だから道路は十分すぎるぐらい広くて、 歩道には立派な並木もある。 区画の境目ごとに道が走り横断歩道が現れるため、 信号待ちが度重なり、もうよれよれになった。

縦長の看板でエンジ色の背景に白地で「蓬莱町5」と書かれている。 「蓬莱町」街区表示板。

  旧敦賀港駅から20分、蓬莱町の方に折れて、 それからようやくアーケードのはじまりを見つけたのだが、 そこからの駅までの長さを知っているものだから、ぞっとした。
  アーケードの商店街には、古い感じの店もおおい。 傘屋を見つけたときは懐かしい思いにとらわれた。 今では傘だけを専門に扱うお店というのも少ないだろう。 私の地元の商店街にも昔はあって、 傘の柄に太い釘で、漢字で名前を器用に彫ってくれるサービスでよく知られた店だった。

歩道に面している部分がすべて4枚の木のガラス戸になった傘屋 傘屋。

  国道8号線の商店街を歩いたが、往きとは反対側のアーケードを歩いた。 北陸銀行を見ながら、そういえば子供のころは連れられて、 いちばんおもしろくないところが銀行だったな、などと思いながら歩いたが、 もはや足が完全に棒に成り果ててしまい、次のベンチで絶対に休憩しよう、 と思いながらなんとか歩いて、次に見つけたベンチで迷うことなく休んだ。 商店街の歩道の脇には、アーケードの屋根から外れるように大理石の長椅子があったのだ。 商店街にはなんとも不似合いだが、これに助けられた。 ふくらはぎをもみもみして、休み、再び出発。

白色を基調とした真新しいアーケードの歩道。目の前に細い道が横切り、商店街の大通りに繋がっていて、その細い道を渡る横断歩道の信号機が見える。 商店街の様子。

  平和堂の前の待ち時間表示付きの信号のある横断歩道までやっと来た。 平和堂の1階には往きしに見たようにマクドナルドが入っているが、 こうして間近で見ると、涼しそうな店内に多くの客が入り食事をとっていた。
  信号を渡り、駅前通りへ。 ここまでくればあとは早いはずと思って歩いた。 途中、往くときには気づかなかったものを見つけた。 アーケードを支える車道側の柱に掲示スペースがあり、 敦賀駅の時刻表が掲示されてあった。 時刻表は駅に向かう人に見えるように掲示されてあったから、 往くときは気づかなかったというわけ。 また、それだけではなく、 なんと"wave vision"と名づけられたテレビまで埋め込まれてある柱もあった。 これにはさすがに閉口。なお、この日は何も放映されていなかった。

割と広い面積の時刻表。時刻表の上のほうにはデジタルの時計も取り付けられある。 柱の時刻表。

シルバーの柱に埋め込まれた小さなテレビ。 wave vision

アーケードの終わる寸前の深い影の中から、日光で明るい敦賀駅を見る。 バス停付近から見た敦賀駅。

  変なものを見つけつつ、敦賀駅前のロータリーにさしかかった。 やっと帰ってこられた。旧敦賀港駅前から歩いて約50分。 影がなければもっと疲労していただろう。 動輪近くの弁当売りの露店もまだ営業していた。 たぶん、私の姿を覚えているのだろう、いっとき目が合って、 私が前を通るときだけは、声を掛けるのを止めた。 炎天下で海産物のどっしりした弁当を売るのはなかなか難しい。 私は敦賀駅駅舎に滑り込んだ。

  駅舎内に入ると、もう少し遠くへ行ってみたい気がした。 それで次の14時43分敦賀発福井行きの普通列車を待つことにした。38分待ちだった。 敦賀駅の改札前では6,7人がさまよい、 ときどき2,3人の客が外から駅舎内に入ってくるような感じで、 しだいに込んでくるようだった。ガラス戸越しに見るみどりの窓口も盛況で、 きっと特急券がばか売れしているのだろうと想像した。 冷房の効いた待合室の中の椅子は、言わずもがな、すべて埋められていて、 座る余地はいっさいなかった。待合室ではたとえ隅でもしゃがみにくかったから、 駅舎入口付近の隅にある、ついたての広告あたりで遠慮気味に腰を低くし、疲労回復を促した。 もう立ちっぱなすことは到底できなかった。だけれども、もう少し遠くへ。 駅に入ったとたん、そんな気持ちにとらわれたのは、なぜだろう。 これがレールの力なのだろうか。
  券売機は駅舎に入ってすぐ左の隅に、 太い柱に隠れるように1台だけ設置されてあった。 1台で間に合うのだろう。上に掲げられた運賃表には、 50km,100kmそれぞれの急行料金、自由席特急料金が書かれてあった。 誘導ということもあるが、 優等列車に乗らざるを得ない場合の案内にもなっているのだろう。

急行料金、自由席特急料金も書かれた敦賀駅の運賃表。 敦賀駅のJRきっぷ運賃表。

  発車17分前に改札をくぐった。 ブースは2つあるが、片方のブースにしか駅員がおらず、 1人きりで、入場者の切符に緑色のはんこを押し、 集札の仕事もしているものだから、 降車客がやってくると入場者の流れが制限されて、 出場が一段落ついてからようやく入場者が流れだし、 私も構内に入ることができたのだった。 入場者が流れ出しても、改札を出る人がまだときどきいて、 そういう人の中には仕方なく無人である隣のブースの切符入れに 切符を投げ込んで出場する人もいた。

  3番線に停車中の列車の中へ入った。 臙脂色と濃いクリーム色の福井行きだ。 深い赤のモケットが整然と並ぶ、急行仕立ての車内は素朴で古く、思わず旅心を誘われた。 それにしても、もうすでに食べ物や酒の匂いがあちらこちらに漂っていて、思わず苦笑い。 でも急行時代こそ、こんなだったのだろう。 この列車は滋賀からの普通列車と接続していないためか、混雑はしていなかった。 それにしてもこれは敦賀発だったのだから、改札前などで待たず、 早々にここへ来て座って待っておけばよかった。 列車は発車。福井までの駅のどこかの駅でふらっと降りてみようと思った。

次に訪れた駅 : 王子保駅

夏のきらめきのみなとまち─敦賀駅から敦賀港駅をめぐり金ヶ崎城址から海を望む小旅行 : 1 (敦賀駅編) > 2 (おわり)


Home線名一覧旅行記による一覧