九州都市周遊

2008年3月

勝手に夜行列車

 

  構内踏切を歩くと、明らかに来たときよりも気温が下がっていた。九州の春といえども夜はこうなんだ。ここに着いたとき居座っていた真っ赤な三つの列車たちはとっくに消え去っていて、黄ばんだ白地のひときわ古くさい列車ただ一つだけが、亡霊のようにぼんやりと停まっている。本当にこれが山を越えて大分まで出るのか? 頼りない、実に何気ない。
  さて、夜7時過ぎの今、ここ肥後大津から、列車を乗り継いで山を越えに越え、0時前までかかって大分まで出るつもりだ。これから4時間の旅となる。そして大分で宿泊。私はこれを、勝手に夜行列車と、称し、この旅で最も楽しみにしていた移動だった。この思いつきはドリームにちりんが大分で長時間停車することから得たものだった。

  踏切から短い階段をホームへ上り、行き先を書いた鉄板を何度も確認して、ぐんと乗り込む。しかし発車までに少し余裕がったので、私は落ち付かなさや、どれくらいの人が乗るのだろうと人模様が気になったりして、ドア付近を少しばかり、出たり入ったりした。絶望と希望の狭間。この世のものでない隙間が、下に口をあけている。この列車に乗れば救われるが、乗り遅れれば、豊後の夢も、その先の何もかも消え失せる。
  ホームに人はおらず、また車内も十数人ばかりだった。

 

車内の様子。

車窓にて。

  豊後竹田行き、発車します。何の重々しさも込めず発せられたその案内に、静かに私は肯いた。烈しい空気音とともにドアが車内をシールした。「どうん」。
  いやあ、とうとう動いた。間違いなく、自分は豊後竹田行きに乗っているな? 頬をつねってみる。ときどき現実と夢想の境がわかるなくなるのだった。実行する前に何度も思い描いていたものは、実現後の思い出の生成と似たものがあるようなのだった。よし、確かに乗っている。大真面目に窓ガラスを触ってみる。冷たい。人から愚かしく思われるようなことを、真剣にやっていた。

  車掌が前方の車両に行ったのだが、すぐ戻ってきた。検札するという。こんなとこでするんだ。九州に来て初めてだった。判子持ちつつ歩きながら適当に切符を見て行って、私のもちらっと見て、はいと言い、それで終わった。誰も精算や購入せず、また客の少ないため、あっという間に終わってしまったようだ。車掌もガタンと扉を閉めて、乗務員室に籠ってしまった。
  夜闇を走り、とりあえず瀬田という駅に着く。なんで似つかわしくない大津、瀬田という名を拾って来たのだろうかと思う。ここは簡単な駅の寂しい瀬田のため、無理やり地名を引っ張ってきたかのようで、SANYOの工場や、歴史深い勢多川や、あの辺の平らな土地や琵琶湖を、流刑に処された気分の中懐かしんだ。
  12分後、立野という駅に着く。阿蘇高原鉄道の乗り換えだというが、観光のことばかり思い浮かんだので、こんな時間でも乗り換え客はあるのかと思えた。

  ホームには明かりが煌々とともり、向かいに熊本-宮地という表示を掛けた、自分の列車と同じデサインの旧急行の列車がいた。もう今風の真っ赤な列車が当たり前のように見られるところを出てしまったのだろうか。その列車には客もそこそこ乗っていて、車窓から横顔がいくつか覗けた。私の列車が着くとその列車はすぐに出た。ここで交換のようだ。 そうして我が列車も発車となり、二列車去った立野駅は賑わいを奪われた。

  どういうことだ、列車が後ろ向けて動き出している。これもしかして立野、肥後大津の折り返し区間運転だったのか…? そうか、向かいのあの列車に乗り換えないといけなかったんだ、どうする! 錯乱に陥いる。どんどん逆走する列車。何ということだ。のんきに調子乗って流刑だの、瀬田だの想い耽っている場合じゃなかった。皺くちゃになるぐらい目を瞑って、頭の中を血でっぱいにして今夜は熊本泊まりだなどと絶望に駆られていると、なんか車内の異様さに気付いた。横のコンパートメントに座っている女児と祖母が目に入る。この人たちは確か、肥後大津から乗っている。まったく動じず、見えもしない車窓に張り付いている。地の人で、折り返し乗車するような人ではない。そういえばさっきの列車も、よく思い出せばこうして肥後大津方に走っていったのである。二列車が同じ方向に走るなんて、閉塞区間はどうなってんだ? そういうことに気付きはじめると、まさか、スイッチバック? こんなところにあったか。あったような…、いや、わからん、とにかく、そうであるならいつかはこの逆走が終わってくれるはずだ。車窓からは車内灯で照らされる叢しか見えない。おねがい、逆走よ早く終わって。

  一体どれだけ逆走するんだろう。もうそろそろ終わってもいいはずなのに、いつまでもたらたらと、もういっそのこと、隣の女児と祖母に恥をしのんで訊いてみようか。あ、もう、だめ、がまんできん。たまらん。訊こう、と、そのときだった。なんだか減速するのである。もしや。連結器が高くこすれる音とともに、坂を上り詰めた感じで、ついに、停止した。放送は…ない。もう間違いない。立野を出たところにあったのだ。喜びで泣き濡れそうになった。
  今列車は、車内灯の明かりだけで、黒い森のそばに、ひとりで停まっている。そして予想通り、列車は大分方に走りだした。すばらしい安堵に襲われた。よかった、よかったね、と目じり拭いながら隣の二人と握手したい気持に駆られたが、さすがに不審なので想像上のことで済ませた。
  私は知らなかった。けれども知っていたとしても、旅行というのは、本気で忘れ上手にならないといけないのだろう。

  いやしかし、これで大分への道が付いた。隣の二人は、真っ黒な車窓にじっと食い入っている。何が見えるのだろうと私は立ってちらっと覗いたが、たまにともし火が幾つか見えるくらいだった。二人は明るいときに何度も乗ってよく知っているのだろう。風光明美なところなのかもしれなかった。

赤水駅停車。もうここは赤い水しか出ないようなところなどと思われた。

  立野から20分近くも走って、赤水、という駅に停まった。ここで交換待ちでしばらく停車するという。あの二人が降りた。こんなところで降りるのかと思うも、気付くと車内にはもうほとんど人が、数人しかいないではないか。最後まで何人残るのだろう。
  私は右側の座席に身を移した。どんな列車が来るんだ。10分弱も経った発車前ころになって、気動車の音とともに、九州横断特急という真っ赤な列車が入ってきた。二列車の間があいていているので、よく見渡せた。私は車窓から、運転士と、窓に顔を寄せている客たちを、直視した。すると、その計4人ほどとかっちり長く目があった。私は自分の目に、どう、こんな夜更けの山中を通って、旧急行の普通列車で豊後竹田に向かおうとする私は、変わっていますか、と言わせた。相手らもじっとこっちを見つめている。私は構わず続ける。まあ、こんなところで、行き違いで出会うとは、奇妙ですね。熊本に向かわれるということで。私は、大分です。ほら、あなた方が、その列車でお出になったところです。こんな山のところで、お出会いで来てうれしい、ともかく、お互い無事に着きましょう。でも、熊本の方が賑やかでしょう。こっちは普通列車だし、まだまだ山を越えて、乗り換えもあって、大分に出るんですよ。こんな時分から、大分です。
  私の列車は出た。それでは。時刻からはすでに漆黒なのに、時刻が進めば進むほど、距離を進めば進むほど、あたりの黒さは深くなっていくようだった。そうしてこの夜闇の中にあっては存在しているのが信じられない小さな駅に停車して行く。どこへ向かうのだろうか。

市ノ川駅停車。細々とした冷たい川が思い浮かんだ。

  そんな中、救われたように、この辺では大きな駅になる阿蘇という駅に着く。時刻は20時を回った。何人かが降りた。改札口を車窓から覗いたが、当然のようにもう無人になっていて、わずかな地の人が切符を投げ込んだりしつつ、いつもの足取りで外に出て行った。開いたドアから凄い冷気が忍び込んでくる。

阿蘇駅。ちゃんとした駅舎があるようだ。

  次にいこいの村という駅が案内されて停まったが、もうそのまま次の宮地駅になだれ込むような感じだった。
  宮地は、大事な駅である。20時12分、宮地着。ここで10分ほど停車するが、そういう放送は何もなかった。こわごわ、ホームに降り立ってみる。すると、身を切るような寒さで、とっさに顔をしかめた。九州でまさかこんなに寒いとは思わない。ナトリウムのランプが、揺らめいている。駅の方で、「お疲れさまでーす」、「はーい」、そういう会話が響き渡った。こんな寒さもものともしない鉄道員だと知った。駅名標の灯りまぶしいホームを、恐怖に駆られながら凍えつつも歩く。今この目の前の列車を逃したら、生きて帰れるだろうか。この世の道を辿った来たのか、あの世の道であるのか、私には、わからなくなった。数分もおらず、車内に引っ込んだ。

宮地駅のホーム。本当に寒い。

 

もしここで置いて行かれたら、そこには絶望しかない。

車窓から見た宮地駅駅舎の駅務室。明かりがともっている。しかし人影はなかった。

  この駅では乗務員交代だったようだ。今降りた人は、この宮地駅で今夜、仮眠することになる。こんなところで、と思う。そしてこの列車はワンマン運転となった。張り切った調子で女声の案内が流れる。「業務放送、ロゴナンバー、イチ。」 異様に虚しく、空々しい。

  運転士が肉声で、20時23分発、豊後竹田行きです、まもなく発車します、と流した。 なお、宮地発では、この列車が最終列車になる。固唾をのんで、発車を体感する。
  列車はするすると順調に坂を下って行く。ふと、まさかねと思いつつ、席を立って車内を見回すと、なんと、客は私一人だけではないか。どうしよう! 後尾の運転台を覗いてみよう。すると、やはり乗務員はいない! 私一人だけのために走る、貸切列車。
  列車はとにかく、ゆっくりゆっくり、走った。何か逃してはならない大変貴重な列車であったかのように、また、客に降り忘れの注意を、目を閉じんばかりに衰えた老人が無言で促すかのように。

宮地駅を出てほどなくして。私しかいないことに気付く。

後ろもいない。この列車はいづちに向かうのだろう。

  幾度も幾度も、トンネルに入る。入る直前に必ず車窓から漏れる光がすぐ近くの斜面の叢を照らす。それから決まってホウ、という音とともに、闇からさらなる闇の穴に入る。ゆっくりゆっくりトンネルの中を走る。それだけに止まるのではないかと不安に駆られた。やっと出たと思っても、また、ホウ。 はあ。苦しい。途中明かり区間で、かなり上の方を走っている道路沿いに、ドライヴインのような、何か店のような明かりがものがちらりと見えた。たこ焼き屋かな。あんなところには人恋しいものがあってほしかった。

波野駅。怖いほど寂しいところだった。

  自動放送に足すように運転士が肉声で、波野です、ドアにご注意ください、と優しく言う。駅に着いて窓を見ると簡素な待合所だけ、修辞上のことだけではなく本当に何もなく、こんなところでこんな時間に誤って降りたら、頭の中が真っ白になるだろう。しかし窓を見ているとそんなところに一人、若い女性が降りて行った! 自分一人だと思ったのだが、あと一人だけ、乗っていた。肩の力が抜けた。しかしこれは初めから、私だけだったのだ。私はその女性を目で追った。するとバンという音がして、赤いランプとともに駅前を去っていった。
  ほっとした。そしてああでもしなければここは、と何度も頷いた。
  そうか、さっき優しく付け足したのは、降りるあの客がミラーに映ったからかもしれない。しかしその後も肉声で、駅を出るとき、ドア閉まります、と付け足した。運転士は、私が二両目に乗っていることを知っているだろうか。誰も乗っていないと知っていながらも、放送しているのだろうか。

  突然、減速し、駅でもないのに列車が停まった。運転士がつかつかとこっちに向かって歩いてくる。後ろの乗務員室で連絡を取るのだろうか。素直な顔しておののいていた。「降りてくれないか」。びくっとして、頭の中が真っ白になり、口が半開きになった。顔など見られず、視線は床に斜めに落ちた。「降りてくれと、言っているだろう。見物のためにこの列車は動かしているんじゃないんだ。」 固唾をのむと、苦しい何かが込み上げてきた。どうにか「あの、大分まで出ようと思って、夜の列車を乗り継いで、大分に最終で着きたいと思って」「そんなことだろうと思った。しかしそういうために、動かしてるんじゃないんだ。降りてくれ。」 運転士は私の素直な表情にむかついているようでもあり、またはそれでいっそう虐めたくなったようでもあった。開けられたドアの向こうは、冬の夜の森そのものだった。私はここから降りるの、という顔をしたが、運転士は何も言わない。屈んでドアの間口の床につかまって、こわごわ降りる。足がつかず、派手に転んだ。扉は意外にも自然な感じで閉められて、列車も怒りも喜びもせず、ごくよくあるように出て行った。あたりは身を切るような寒さの、叢と森のただ中で、もうここはどこのどこやともわからない、地の一点だった。レールに沿えば、と思っても、バラストが盛ってあって、レールとのころまでさえ行きつきにくく、バラストががらがら崩れ、叢と森の中に突き落とされるのだった。闇夜の動物になった。人間として、助かりたい。

  急に薄汚れた車窓越しに、車内の蛍光灯に照らされて見える茶色の枯草本が目に大写しになった。
  列車は私を安全に運んでいた。そして運転士と、守られるべきものが守られるということに、熱い感謝が沸いたりした。運転士とて、そんなふうな勝手なことができないのは、後々もいろんな制約があるからだが、そういうのが社会というものなのであろうか。
  地元のおばさんが大分に出るのに、今日はちょっとした旅行気分になりそうです、と、うきうきして言いつつこんな乗り方をするのを運転士は、気を付けて行ってらっしゃい、と微笑み返すのは、思い浮かんだ、私のような目的と意図で乗るのは、侮蔑と卑しみをもって、見送られるようだった。けれども平等にこうして送り届けてもらえるのは、この列車において、私も私を一個の人間として考えてもよいと考える契機となるものだった。

豊後荻駅に停車して。

  豊後荻に停車すると、もうこの山中にあっても街が出現するあたりのようだった。そのご幾度も短いトンネルを越したが、あと二つで終点だったから、うつつではない空想的な旅からの帰還のように捉えられ、ぼんやりした名残惜しさに包まれた。たまらい、というまだ現世的ではない駅名の駅に着けれども、もう次が豊後竹田だった。大分の山手の街だ。ここでこの夜の汽車旅も大きな一区切りになる。しかし気の抜けて惜しい感じは消えつつあった。最終列車出る豊後竹田駅の深い夜がまだ私を待ちうけていたのだった。

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