北陸・信越1

2009年9月

北陸本線を、金沢を経て、親不知へ

早朝、明峰を発って

  旧式の電車が入ってくる。淡褐色の大きなライトがまだ眩しかった。
  赤のモケットがその鉄枠のヘリを硬そうにしてきちっと並び、劣化したガラスからは小松野のみどりを、朝日が暗くしていた。列車は新鮮な空気を運んでいた。車掌の声はよく通った。この辺りはけだるいお昼前には何度も通(とお)ったところだが、こんな曙光の中は初めてで、乗り慣れた路線には到底思えなかった。まったく知らぬ、新しいところを走っているように感じる。ここの地元の人になった気分にはならなかった。乗り古した路線での創造的な旅がたったいま転がりはじめたような鮮烈さに包まれていた。
  手取川を通るときは、いつも左の窓を覗きこむ。ちょっとだけ日本海が見えるんだ。あっちの空模様が大事だっていうのもあった。寒気が差せばたちまち悪くなる。
  金沢の数駅前にようやく車掌が回った。こんな時間はまとめてやるのが効率よさそうだった。

 

 

手取川。この瞬間は日本海に近く、米原から内陸を走りがちな 北陸本線では記憶にとどめたいシーン。

金沢駅

  車掌が戻り、左に浅野川を渡ったかと思うと、灰白質の高架をよじ登って、右に90年代風のビル群を望みながら、金沢着。それほど長く乗っておらず、また、朝早いこともあって、降りるときの疲れはほとんどない。時刻は、6時20分過ぎくらい。人はすでに少なくなく、はるばる新潟行きの北越や、東京から逢着した急行能登が入って 賑やかで、ここで30分待つことになっていたが 何もかもあっという間だった。

 

右:方向幕がLEDになってるけど、手造り風でおもしろい。

北陸線で普通列車にもわざわざ乗車口案内をしているのは 珍しい方。

金沢駅ホームといえばこれ。 この宣伝方法は効いてる。

このたこ焼き屋も金沢駅名物。 朝早すぎて開いてなかった。

急行能登。

新潟行き北越。新潟は遠い。

左:金沢駅構内には2つ待合室があり、こちらは喫茶コーナーのある方の待合室。営業中。
右:こっちはうどんそば屋のある待合室。今開いてるのはkioskのみ。

富山まで

  暗くもあるも、店や、特急の案内札で彩りのある金沢駅構内を抜け、まばゆさを増した朝日の中、近郊を進みゆく列車内では、女性車掌が「おはようございます、この列車、普通列車の黒部行きです。東金沢、森本、津幡と順に停車してまいります。お手洗いはいちばん前の車両後ろ寄り…主な駅と停車時刻をお知らせします…」という爽やかな放送で、やっぱりこれまでの飽き飽きした感触は、無に等しいかった。そう。いつも金沢は私のところからでは始発で出ても昼前か昼にしか来られず、舌たるい心持だったけど、宿泊もしていないのに、こうして特急よりも何よりも早く、この時間ですでに金沢を出られていて、そのままにすかっとした気分だったらしいようだった。それにしても、この区間が朝はこんなに気持ちよいものだとは。もともとこの時分に金沢を離れる人はかなり少なく、光景からすると特殊だというのはあったが、朝のこの区間に、都市金沢という縛りを感じている人もいそうだった。

  倶梨伽羅の峠も楽々と越えて、石動に入ったら、3クラス分くらい、90人から100人いないくらいの通学生と一般客が、奥行きある1番線ホームにいっぱいになって待っていて、壮観、おもわず目を見開く。改札の奥にも人がまだいて、そのさらに向こうには汽車の着いた今になってから駅前から走り寄ってくる人も見えた。これだけ乗っていると、朝はほかの交通は考えられないな。気付くと最も忙しい、7時過ぎを指していた。

  当然 中は混みはじめた。みな蛍光剤で洗った白のレーヨンのカッターシャツを着て、思い思いに参考書を読んだり、鞄を床に置いて戸に凭れてたりしていた。車が古いか急行型か、そんなことは関係がなかった。空気のような当たり前の存在で、ふだん通りやってきた列車に乗ったまで。この町を離れて初めて、どんな列車に乗っていたか改めて思い出す、そんな感じだった。もともと鉄道なんてそんなものだろう。それをいつでも夢想するようなものにして、私はどういうつもりなのだろうか。ああ、いつでも朝ならばいいのになあ!

  きっと富山まで混むのだろうと思いきや、この混雑の解は、すぐにもたらされた―高岡にあった。そこで特急待ち合わせのためしばらく停車し、その間、窓から食都氷見の宣伝板の出ている、古くなった改札前コンコースがひと段落している様子が垣間えた。氷見や城端と、線の切り代わるジャンクションのおもしろさと、観光の愉しみを抱かせるところだけど、今の高岡は快活できびきびしていながらも、ユニークな空気も忘れていなかった。

  その高岡からもまたたくさん乗ってきて、私のいるコンパートメントにも、地方のおとなしげな女子高生が体をねじ込むように2人座ってきた。隣の子と、二の腕と二の腕が触れ合った。昔の急行型だった。私はまったく何も感じていないかのように、それまでと同様、誰かが座りやすいようにとしていた、窓の外にこそ興味があるように装うのに徹した。通路側に向かい合わせに座ったその2人の子の、向かい側の子が、消え入りそうな囁き声で、「今朝家出るとき、ものすごいお腹痛くて、トイレ入ろうと思ったら、お父さんが入ってた」と小さくなって はにかんだ。「ええ! それで遅かったんや」と情けなさそうに笑う。「それで入れたの?」「うん、間に合った。(だって)間に合わんかったら…(来れてない)」という話を匂わすので、友達はそれもそうだと笑っていた。「あ、生物わからんから教えてほしい」とその友は切りだすと、「あっ、私もちょっとわからんかったけど」と腹の痛かった子はいって、新編セミナー生物を出し合い、答え合わせをしはじめた。聞いていると、生物?なのか、面倒な、細かい知識系のところだった。

  ホームに人が引けて ますの寿司の売店がいつも見えるようになりはじめたころには、すでに列車は高岡を出ていた。この車内の学生は石動から高岡あたりまで通(かよ)った学生のことは知らず、彼らのいた席に座ったり、同じ場所に立ったりしている。二人の女子高生は、眠りはじめた。自分自身が列車の壁やモケットになりうるのを感じた。

  小杉や呉羽に着くと、もう県都富山もういますぐという趣きで、列車はただ単調に平野を進めるだけに堕していた。金沢あたりで見えたのよりも新しい目のビルが詰まり、広がった地平の線路内を、特急とは違って短く古い3両でことことと入りこむと、仮設ホームで降ろされた。

富山駅

  金沢を出たときの爽やかさはもう私にはなく、日は白く懸かり、湿度も上がって、裏手に勃興した幾棟かのガラスビルが、簡素でトルエンの匂いしそうなホームと重なって、私の疲れを増した。どこも似たような街に戻っていきそうなのは苦しいな。近代のグラデーションに、目を留めてはいけないのかな。でも一変されるその速度や範囲、そのあとの持続性からすると、もとからそういう歴史は置き留めるにはどうしようもない性質を持っていそうだった。しかし細やかな変幻の虹を探すようにし、ひいては物質的でないものにそれを見出すようになれれば、それはそれで追いまわされない道が、拓かれる予感があった。

 

寝台特急日本海、北陸、急行能登など、夜行が賑やか。 現在はこの3つとも期間運行になり、ほぼ廃止となっている。

魚津方面。

ピンクが目印のマリエビル。

こちら裏口。LRTも来て大きく変わった。

 

爽やかな富山らしい一景。

アーバンプレイス。再開発ビル。 レストランなどがあるがそうは見えない。

富山も今はすっかり仮設ホームに。 でもこうして見るとこれはこれで旅情が感じられたり。

これらの特急列車が走るのもあとわずか。

  未来のために気重な富山で糸魚川行きを待った。わずか20分待つのはたやすかったけど、長く感じた。
  これが親不知に行く最後の乗り継ぎになる。これに乗れば、到着が確約される。

北陸東線的

  いつものようにコカコーラの広告塔を過ぎ、富山機関区を眺める。ほとんど編成は出払っていて、車窓に流れていく残った車両曰く、こんな日中はたいてい仕事に就いてるよ、と。すぐに視界から編成は消えていった。地鉄が沿って走りはじめたのも、活力あるのは今になってでなく あくまで昔からである、と説得力を持って語れる古びたものを織り込む富山に来た、という感じがする。
  滑川の前にちらと見えてはいるけど、もっとずっと見えるようになるころ、左の窓に向き直る、それは、いつもこの季節に見られるように、かすかに黄金に色づきはじめた水田の遠くに、もう汚れが浸みて落ち切らないガラス越しの儚い色の海が見えるからだった。床下では昔のモーターが轟音を立て、車内は埃の匂いが鼻を突いている。その追憶の薄茶けた窓にひたすら細長く流れつづける遠い海とそれらは綯い交ぜになって、この果てなく続くとしか見えぬ平原がついに果て、その極点を越えてまで連れ去られる緊張と寂しさを狂おしいまでに私に追求させ続けた。

 

  滑川を出てからというもの客はごっそりと減って久しい。そういうわけなのか、そんな車窓を背景に、車掌がしばしば歩くようになる。が、かなり太っているためときどきよろめいた。ふと私の前だけに どん と立ち止まった。なんだと思うも、やはりただよろめきそうになって踏ん張っただけだった。列車もまた揺れやすかった。

  越中宮崎に停まる。冷房の効いていた車内がガコンと気前よくすべて開け放たれる。しかし降りる人も乗る人もおらず、ただ夏の日差しがぎらぎらホームや松の海岸を照っていた。離れた乗務員室で突き出した顔がひと睨みしたあと、鋭くホイッスルが吹かれ、列車は扉を閉め立てられ、汽車は天嶮へと引きずり込まれてゆく。
  車掌が、つぎは。いちぶり。いちぶり。です。 その駅名のぜんたいの音感や、とくに ぶり の発音は、車掌のくちびるを感じさせるものだった。太っていて、くちびるも尖っているかもしれなかった。
  宮崎で客の気配がないので、車掌ももうどうでもよくなったかもしれない。そんな発声でもあった。とうぜん、市振に至っては、さらにどうでもよくなってくる。
  むやみに明るい日本海が展ける。朽ちかけた番屋が佇み、慎ましやかでありながらせいいっぱい華やかに浜辺の花が風に咲いて、哀しみが胸にこみ上げてくる。

 

  市振はもう10時だというのに、日陰がちだった。やはりこの国の端っこというものだ。きょうは、親不知に降りることにしている。時刻も違うし、そうでなくとも5年前の気持ちとは同じにならないが、緊張よりただただ再会を楽しみにする気持ちになっていた。ゆったりした気持ちで逢いたいものだ。これまで年ごとにここにかよって来てたのは、そのための下ならしだったかもしれなかった。

車窓より(越中宮崎-市振)

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