親不知駅

(北陸本線・おやしらず) 2009年9月

  晴天に過ぎるあまり、山影に黒々と覆われた親不知の停車場を窓から見た私は、下車をためらった。ひとしきり明るいところがあるいっぽうで、極端に暗いところが深まって、そして広がっている。「でも海は明るいはず。」 それでも私はむなしく、もう観念したかのように、親不知です、との放送の後、小さいホームに押し迫りながら滑空する列車から、やがて私は足を下ろす。ここはもう知っているところだから、そう思っていたのに、潮風と、そして内部で傷みが進んでいそうなモルタル舎に雪よけ通路のついた雰囲気は、前と同じようにさざなみのように押し迫ってきて、恍惚として進む私はその擦りゆく足を、川砂利を混ぜたセメント床が喰いとめられる。重ったるい交直電車はドアが開いたままで、送風音が響いている。ライブであり、立ち止まりが許されない。後ろの方で車掌が吹くホイッスルが、行動制限と無私というその凝固した時間に、終了の合図を出す。背後から半袖の車掌が首を出した列車がしだいに猛進する。静かになかった。遠く陽炎の向こう、車掌は音もなくこちらに向き直り、マイクに手を掛けただろう。小さくなりすぎた尾灯は、やがてトンネルに吸い込まれ、この世からまったく、消え失せた。空気は乾いていて、陰は涼しい、しかし日当たりでのその陽射しは極めて鋭いものだった。もう9時を回っている。というのに、まだ朝早い感じが漂っている。ここが絶えず光への欲求を呼び起こす嶮であるのをまたもや思い知り、穏やかなため息をひとつ吐く。

 

 

 

富山方面のりば。 

 

名所案内板。上のブルーシートは廃屋か土砂崩れ対策?

狭い急坂の先に民家がある。

 

昔のままのホーム床。 

 

3,4線分くらい取れそうで、厳しい地形の中、意外に健闘している。 

下が国道8号で、上が北陸自動車道。 

この歌地区を離れると両道は再びトンネルにはいり難所・子不知を抜ける。 

 

 

風除け板がまぶしい。 

 

 

 

レールを運ぶ車両がたいてい留置されている。 こんな余裕のない地点に置くということは結構いい置き場なのだろうか。

 

旅情の詰まった構内踏切。 

踏切といえど線路の上に降り立つのは緊張する。

 

 

元荷物用通路。今は駐輪所となっているよう。

 

 

 

縁側的。 

 

このホームは3両を越えて大幅に延長されているが、 特急の緊急停車なんかに合わせたものなんだろうか。 

 

左手の建物はおそらく信号機室。CTC化されて久しい。 

回廊にて。あの出っ張りがかつての信号操作板の設置されていたところ。 これを現役で使っている駅はごくわずかしかない。 

うーん、すばらしい。 

? 塩害実験? 

なんか無筋っぽい。 

 

 

 

4年前に来たときとほとんど変わらず。 

左:この後ろに幅の狭い据え付け長椅子があります。

もう路線バスは廃止されているが、コミュニティバスが運行していた。 しかもこのときは実験中とかで無料とあり飛び付きかけたが、 金曜日のみの運行だと…。2013年現在もそのようだ。この路線に乗れば徒歩で危険な国道を歩かずとも、本場親不知に降り立つことができる。

備品の黒電話もチェック。 

  何もかも変っていないといってよかった。あのときのまま、そのままにあってくれている。でも、前のときのように、一人旅をしている感じはしない。つまり、ここが無数の駅の中の一つで、そこに降り、海辺の難所と峠を混ぜたような濃さが胸の中にどくんと入り込んできた感じや、想いつづけたところに来られたことのじわじわ続く、ひそやかな喜び、また孤独な内省性が、もはや私になく、どうであるかを知っていたところに来て、期待したものをそのまま等しく得た、そういう確認的作業が始まるようになった。

  感覚が鈍ったかもしれないという惧れもあったが、むしろ自分の眼が思った以上に冷えていた。ぼんやりした知らない無数の駅、その中の一つ、ではなく、自分の足で見知った数多くの連続する駅の中での位置付けがすでになされ、それぞれの造りや立地、風景などの特徴が、心の中で整理されていた。
  感情として物足りないけど、それでやめたら自分は旅し続けることもできないだろうという予感が、昔の荷物通路や鄙びきった構内踏切を見回しながら、つねにうごめく。

  「ともかく、予定通り親不知ピアパークへ行こう。あそこに行けばまた鮮烈な印象に出逢えるかもしれない。」

 

 

すぐ向こうで落石注意の標識のあるちょうどそのところで土砂崩れ しているというこのへんを象徴するような状態。 

民宿7件、ホテル1件。この看板を出したまるたん坊(親不知交流センター) でも宿泊可。 

親不知駅駅舎。 

 

子不知方。はくたかが通過中。 

 

 

徒歩1時間とあるが、あの国道を歩かせるのはまずそう。 

山派にはこういう道もあり。これで子不知を越えられるが、 親不知の方の山側の道は利用されなかったんだろうか。 

 

こっちから見ると土地に余裕を感じる。 

 

 

 

 

  金属の埋め込まれたセメントがへたな中央線のように屈曲している旧道を、何の情感も抱かず、気負わずのんきに登りはじめる。けれど、そうできるようになったことが、ちょっとうれしくもあった。やっと親不知が自分の足に寄りついて来たと思った。いちいち特別な感情に包まれていては、いつまで経っても、親不知は自分のものになってくれない。そんなふうに考えているのに、すっ飛ばす軽トラックは私を見るなり、いきなり速力をゆるめた。少し肩の鞄を掛け直す。この道はすっかり走られなくなっている。それはどうも新道の8号線と、この「歌」の集落がうまい具合に接続しているからのようだ。それゆえ旧道は旧道然としていて、道のまん中を憚らず歩くこともできた。
  坂を登り切ると見晴らせて、眼下に何世代もの道がうねっているのを、ここに来たら観察するのを習わしにしたくなる。これもまた、変わっていない。でもそのことは気だるくも、ありがたかった。海上を冒進する高速道からして、これ以上変わることはまあ、当分ないだろう。そんな安心感もある。ところで、この旧道は山裾を削って海を見晴らすように走っていたことになる。また、このあたりでは山手に廃校も現れる。親不知の中でこの歌の集落は、文字通りか、かなり穏やかなところだったのが改めて推察される。道は山に沿うあまり、相当な緑の日陰で、苔や山清水もあり、湿気がひどかった。断崖である分、谷は深かった。

トイレ脇にて。雨量測候計がある。 

 

 

すごい警戒標識。何があるかわからないとまでいう…。 

こういう感じで民宿がある。

 

やっぱ高架橋はない方がいいかもな。

この辺りまで来ると何気ない。

山へ登る道。どこへ行くのだろう。

階段を昇っていくと若宮さんという神社があるそうだ。

旧歌外波小学校前の横断歩道。寂しいものだ。 

例のバスのバス停。歌外波小学校入口前停留所。 

かつての生徒らが描いた壁画。意外にも青色は少ない。 

小学校前だからこういう標識や歩道が付けある。 このへんも交通量が少なくなかった時期があったかと思う。 

岩脇川に架かる橋。「土石流危険渓流」の看板とともに。 川というより滝だが。わざわざあんなところに橋がかかっているが、 その道が旧々道だと目されているところ。 

法面でガチガチに固めてある。土砂崩れするのだろう。 

前からこの国道下の敷地、気になっていたが、 北陸本線の旧線跡だった。 

現在はこうして風波トンネルに入っているが、 単線のころは海沿いを走っていたのだった。 

三世代の道。 

ここに来出してから、やっぱりこれらの道がなかったら 旅情は凄いものだったのだろうと、ときどき思うようになった。 そのころは旧国道も舗装されておらず交通も少なかったらしい。

 

さっきの国道8号の下は駐車場といい、 なにぶん土地が狭いので高架下は有効活用されている。 

 

今は低いけど、この先 子不知を抜ける駒返トンネルの前 まで行くころには高度がかなり上がる。 

こうしてなんやかやと不思議な敷地があります。 

 

駅方。 

 

  縦型信号のもと、下腹を地響きのように鳴らしてダンプが行き交ってる。その接道点を見下ろしながら、しぜん坂を下る足は速くなっていった。しめやかな岩窟の道祖神に静かにまみえたあと、トラック連中の時間を停め、目の前の青信号を見つめながら渡る。自分だけのために停めるのはなんだか、だが、このときは海岸から出てくる車もあり、気安い気分だった。今となっては親不知らしいといえる、海食洞の抽象のような高架道の下をくぐりぬけると、ぱっと夏の光があふれはじめる。

まもなく合流だ。 

親不知の出口表示が格好良い! 

森林公園なるものもあるらしい。 さっき紹介した山派の道だ。 

かつては右側の道しかなく、こんなふうに 海辺の集落と集落を辛うじて結ぶ程度だったのが偲ばれる。 

外波の集落。民宿が多い。 歌の集落は駅からこっちと反対側に歩いたところにある。 このへんをまとめて歌外波というようだ。 

国道8号市振方。 

歩道は途中までしか付いていないので注意を。

 

親不知漁港。 

  「まーだ港は工事してんのか。あっちはまた行かれないぞ。」
  レストハウスはざっと見渡しただけで目を溜めず、海岸段をおり、乾いた大きな石ころをガラガラいわせて足を取られつつ、肩はぎこちなく上下せざるをえず、ようやく視界いっぱいに、日本海をあふれ出させる。
  山影は陰鬱だったが、海は光耀に煌めき、まぶしいほどにまぶしい。砂礫海岸に浪は泡に盛り上がっては砕け、こんなところでは地を離れ、海に繰り出す人が育ちそうだった。

確かに4年前この道を歩いた。左の看板にあった青海町の町の字が消されて いてさびしかったんだっけ。 

 

 

車が少なくないわりに人影はほとんどなかった。 

 

左:親不知おさかなセンター。ここに来た人が求めていそうなものがありそう。
右:食堂。お味はドライブインという想像をさせるが、さて。

 

 

  ここは日本海や天嶮の迫る暗さの支配する中、せいいっぱい爽快なところで、そのせめぎ合いで私が虜になったところだった。はじめは、健康的な腕で思い切りよじ曲げて張り出したの海上橋のせいもあったが、そのきらめく海に颯然と伸びる、見せつけるような土木技術で外からの風を運んでくるよう、虚実ともに想わせるその天上の橋は、今やそれを見てもその高速性という閉鎖性ゆえに、この親不知の雰囲気はまだ守られている、と感じ取ろうとするようになっている。グレーがけて眩しくなくした白っぽい壁面に、お食事処の文字踊る、海見遥かすテラスガラスしつらえたささやかな、けれども、おしゃれすぎずに抑えドライブインであるを忘れない建物が、濃緑地に親不知の文字硬く刻みつけられた看板睨む高速道に高さ少しはみ出る感じで近接しているのをみるにつけてはとくにそうで、そうやって私はあえてそういう際を凝視し、納得しようとしていた。
  4年前来たときは、このまちきっての透明な施設だという感じで、まちいちばんの若い娘さんらがレストランの窓を柄付き雑巾で初々しく掃除していた。いま入ろうとすると、出入口で目つきの悪いおばはんがたばこ吸って睨みを利かしているしまつだった。

  青銅のウミガメや色鮮やかな陶板の大壁画が、コンクリートの墓場から救おうとしていて、またそれらはここが安全に楽しめるところであり、美術の人々の目に触れるいい機会でもあるというのを、初め来たときは感じ取ったものだが、今となってはこの大事業のついでに方々に相当につぎ込んだのだと思え、こんな大胆不敵な架け方を考えた時代がどんなものかをただ語っているだけでもありげだった。

目新しいことは書いてなかった。 ところでこの金属板はすでにかなり高温で熱い。 

 

 

こういうのはおもしろそう。 でも誰でもすぐ拾った石ころをぱっと見てわかるわけでもない。

国道8号の下の駐車場を含めると駐車可能台数は相当なものになりそうだ。 

高架橋完成記念碑。白砂青松と引き換えに…。 これを思い出すよすがにしてくれということかしら。

 

 

 

歌川焼。富山の泊のところにも出ていた。 この辺りは古くから焼き物を造られていたのだという。 焼き物は車乗ってる人には手を出しやすい。 

今回は食事せず。中の岩石はヒスイを模したもの。 

先述の廃線跡。確かにそういう匂いはしてる。

 

異空間の高速道と接しているのにロマンを感じる。 

さあ海岸へ! 

 

 

盛夏には海水浴場になるところ。

 

 

 

 

 

 

泳いでいる人視線を想ってみる。 

 

 

 

投げ岩。

以前波浪で崩れていたがきっちり直されていた。 

  そういうピアパークを後ろに振りきって、強引に海岸を奥に進んだ。やがて人の気配はすっかりなくなった。でもよく見ると、過ぎ去った夏の野猿のように振る舞った若人のたき火跡や、流木で遊び倒した痕を見つけられた。両の掌でやっと抱えられる石がゴンロゴンロしたガレの浜で、何度も足を取られ、足をくじきそうにさえなる。空に渡された桁の影から見る、青藍の冷たい海面は深く冴えわたっていて、つるつるの鼠色の寸胴脚が伸びあがる、それは粘土的で、一つの野外塑像のようになっていた。息をのみながら進んだが、羊歯垂れる土崖とこの人を寄せ付けなくなった陰がちな巨礫浜は、国土の湾岸に窮隆する最果ての一端だった、賽の河原だったようなころのことをやがて偲ばせるばかりになって、作為と思惟によっての秘境でもいいから、隔絶された場と孤独とを、いや、もうここに形而下にないというのなら、さまざまな地を彷徨ってあてどなく求めつづけたいという衝動にかられた。

 

こういう隙間に落ちると発見されず助からないことも。 

 

 

海鳥の休憩地になっている。間のところは人造だろうか。 

こんなことをしてしまった。 

塩害対策にはかなりお金がかかる。 

左手ちらっと写っているのが「鬼蹴り岩」。 

この辺まで来るとひと気は少なく、岩石が大きくなる。 こういうのが波で橋脚に当たると凄い衝撃になるのだろう。

 

何の遺構何だろう。鉄筋がもうむき出しになっている。 

 

 

こうしてみると狭い。 

 

* * *

  まばゆく発泡する白波に瞳孔は狭まるも、緑の少ない、青系統の漸変の深さに黒目は再び開き、ほかの國の海との違いをたいそう感じつつ、さっきの店の前に開けた、人心地する砂浜の波打ち際に屈みこみながら、もう初めての旅はできないのだということを、改めて思い知る。引き波が小石をカラカラカラと鳴らす玉の音、そうやって石が摩耗していく様子に永遠の時間に思いを馳せる心、一人でこんな遠い、もはや循環場しかない果てにやってきたのだという心境、そのようなものはもはや持ち得なかった。おそらく、どこへ行っても、もう持ち得ないだろう。

 

 

 

  蒼海覗く戸口に架かる駅名板を見つめていると、魚介育てる親潮というものがあるように、ここでは親は知らぬといいながらも、じつは知らないふりをしていて見守ってくれている、そういう存在が、 例の伝説を静かに証(あかし)する、古えの人々のこしらえた数々の立像が人知れず岩陰の龕で見守ってくれている海や、また国土の境、そこからいざ離れ立たんと洋外に峻厳に突き出すも、その海は母国の名をまだ冠してくれている、ということなどによって、このあたり全体に、現れているように思えてならず、孤独と抱擁、そのなんとも甘美な混淆が、天嶺稀にして雲とどめぬ、短命な夏のこの日本海に一瞬 幸運にも光りきらめいているように 感じないではいられなかった。

  とても狭いプラットホーム立つと、駅名標とそこから見えた海にどきまぎさせられたことを思い出す。今は心安らかな私は、ここをまた離れて、旅をはじめるよう求められていることに、応じんとしている。

 

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