越中宮崎駅

(北陸本線・えっちゅうみやざき) 2007年9月

市振方。

国道8号と朝日町の山々。

  今にも山迫る市振から逃げ戻って、越中宮崎に来た。市振に来たときに通ったから、車窓から知っていて、まだ平地多い、海側は松が器用にくねった海の美しそうなところだった。それは天嶮に向けて最後の穏やかな地でありそうで、その宮というからにはあるであろう、そこに願掛けしたくなるらしいようなところであった。
  そういう心浄まりそなうなところを車窓で一瞬に過ぎ、そのまま陰の市振に行き、それから戻ってきたものだから、願っていたさきほどの一瞬というものに戻ったかのようで、時間の考えのなくなったところのようにも思えたし、また現実にこんな安息の地に踏み入れられたのはありえないことのように思えたが、実際降り立つことができると、悔いての救いというのもごくよくある自然のもののように思えた。

 

泊方。

市振方の端のホームはこんななっていた。 何となくゲレンデを思い起こす。

ほんの微かだが海が見えた。

ホームから見た駅前、海側の様子。国道8号は反対側。

 

  ホームはひどい日射しで、陰といえば階段の上り口ぐらいしかなく、乗ろうとする人もその上り階段に入って待っていた。海側は海はよく見えず、ただ松がぞろぞろ並んで、この向こうに海水浴場あるよ、あるよ、と駅に降り立った人に声を掛けている。そうやって子供を騙すのか、それとも驚くほど期待に応えるのか、何ともつかないようにいじわるに隠していた。松はいじわる。がっかりさせる大人、じじいかしら。
  山側はすぐ国道8号が通っていて、走行音も少しばかしやかましかった。けれど賑やかの店の並びなどはなく、天嶮前のちょっとつまらなさそうなところといったところか。山は意外なほど深く険しい。海に気を取られるので、旅人には見落とされてきたこともありそうで、それだけにいっそうだった。
  ホームは荒れ果てた花壇や朽ちた椅子などで放擲されていた。あたりにも人影というのはなかった。しかし海は、どうなのだろう。美しいのではなかろうか。

  壁と屋根ががっしり囲われた密な跨線橋を通る。そんな造りで日当たりがいいものだから、中は息苦しいほどむっとしている。駅を出るためのつまらない通過儀式。しかしこの通路で、想像が膨らんでいく。

跨線橋の屋根がなぜか高めだ。

植え込みも丸く整えられなくなり…。

泊方。

泊・黒部・魚津・富山方面をホームから望む。

ホームから見た駅舎。あったとすればこの辺に構内踏切があったのかな。

跨線橋の階段にて。壁や屋根はかなり新しかった。

跨線橋にて。市振方面。向こうへ行くほど山が迫ってくる。 山の険しさもひとやりならない。

泊・富山方面。あの山は城山(248.8m)の尾根。 標高187mほどの小ピークが写っている。低い山だが海岸まで突き出している距離が長く、 ちょっとした難所となっている。山頂には宮崎城址があるそうだ。

思い出の一シーンから抜けだしたような、駅、民宿、海、の風景に歓んでしまった。

手前の踏切を使い向こうの山を海側に回り込む道が北陸街道の旧道。 現国道8号はトンネルで抜けていた。

トンネル坑口までは登坂車線もあるかなりの坂道だった。

 

改札口。

  地平の踊り場に降りると無人駅で、きっぷ箱が入れろと脅すようにこっちを向いていた。水はけが悪くじめじめしている。机にぬいぐるみやおもちゃなどが汚れつつもいくつも並べられていて、怖い気持からえっと声を出した。女の子が亡くなったのだと思った。構内踏切だったころに海水浴の帰り撥ねられたのがふっと思い浮かんだ、事実は知るわけもないし、まったく違うかもしれなかったが、その想像は止められなかった。海岸ではきっと当時と変わることなく、波が寄せては返しているという想像も。

 

列車遅延などの問い合わせ用電話。

こういう窓の付け方もとても古い感じだった。

左が出札口で右が荷物取扱口だと思えた。

  駅舎の中に蜂がいて、いつものようにガラスに何度もぶつかる音が響いていた。天井の角ではクモが琴線を弾かれたように振動しながら動く。明るいガラスの入れられたこの大箱の中には、自分以外誰もいない。備品などもまったくなく、海らしいものももちろんなかった。ただ出口向こうに海の予感だけがあった、というより、水の色が数センチ、見えている。気温や空は夏だが、夏はもうとっくに終わっていたんだな。人知れず虫だけが活動する駅舎。天下を取ったかのようだが、その虫もそんなに長くないだろう。
  いつまでも夏を見ているようなあの少女のようであっては、私も死んだことなるかのようだった。それで別の季節を想うと、あのおもちゃに雪の降りかかるのが見えた。雪の日にあったことかもしれなかったが、やはり子供のことだからといつでも夏の海を希求していると考えられた。北国(ほっこく)の人ならなおそうだ。

  別にお供え台がなくても、なんかちょっと寂しいところだ。こうして待合が意外と広いのだが、その短いシーズンにはここぞとばかりに役目を果たすのである、というのも何だか幻想じみていて、何もかもが、からっぽに思えた。形は残っている虫も、クモに体液を吸われていて実は殻だけだったというような。

  駅を出ると静かな道で、待ってました、というふうに民宿が、くたっと立っている。どこかで松もくねっているだろう。民宿は当然、軒並み閉めていて、改めてシーズンは短いのだと思わされる。仕方ない。

 

 

 

泊方。宮崎の集落はこの先にある。

トイレ。明かり取り窓がステンド風にしてあった。

民宿かしま荘。

駅舎。最近のものらしい感じがしなくもないが、そうでもない。信越本線とかに多そうな中部風の駅。

あまり海らしくない。

市振方。山容がいかにも中部地方といった趣を見せている。

中部北陸自然歩道の案内地図。宮崎から城山を経て山側に大回りして泊に至るコース。ようはハイキングコース。市振などは入っていない。

横から見た駅舎。駅務室の窓はサッシが入れられず鉄枠のまま。

泊方に見た駅前の風景。

食堂「コロ」。もうちょっと工夫してもいいと思うが、何でも海らしいということにしてしまおうか。

宮崎海岸整備事業を知らせる案内板。砂浜を削られないようにするための大規模な工事がされたという。それでも砂礫海岸になっているが…。

  もうまっすぐ歩くだけで海辺に着く。民宿を抜けて、さあ、と盛り土を上ると、自然歩道の道標と松でおっと気分が高まるまもなく、見下ろせる宮崎海岸の浜辺の広さに驚き、それから、明るい、けれども峻として冷たそうな海、その海が視界をどさんと奪い去る。どうしても抱かれる感覚と歓迎感があり、そう感じるのは人らしいところだと思え、また称賛の能力を勃興させられた。

 

 

左も…

右も…海。 ちなみに下方の溝は砂浜を維持するためのものなのだろう。

松がいい陰を作ってる。

 

広大な浜辺。遠くには天嶮が。

遥かなる越中宮崎の海。晴れた日のこの辺の海の彼方の空はあんなふうに少し白く濁っていることが多いように思う。

  やあ、ようやっと北陸の海に来たね。階段を下りると、海とほぼ同じ平面になり、見下ろせなくなった。照れ隠しのため小走りさえ遠慮して汀に向かった。さっき盛り土を下りたその長い階段には、その松陰で多くの釣り人が何をするわけでもなく座っているのに気づいた。海に仕掛がないから釣れるまで御仁ら汀からかなり離れたこの雛段で暑さをしのいでいるというわけでもなく、これから釣り大会でも始まると思えた。
  砂礫海岸だったため、歩くたびに、がらっ、がらっと派手な音がする。何百メートルも向こうに日よけも何もない浜でぽつんと釣りをしている人が見え、そんなところにまで歩く音が聞こえて不審がられるかもしれないと気を付けたほどだった。
  足をガレキに取られつつも、ようやく汀に着く。背中を焼かれつつほっとしたように屈む。ため息を吐いた、渺茫たる水面は、果てることがない。波は、おとなしかった。ふっとそういう手元を見ると、その透き通りようは、目を見開くほどのものだった。手を出して。掬ってみよう、と誰かが言う。掌や指の間に、ほのかに冷たい海水が動く。改めて人差し指一本を差し込んでみたのは、この指と全球が繋がり、痺れるだろうと予想してだった、しかし実際は、海流や気候、沿岸の環境により、海はそれぞれだいぶ違うものだろうし、今見えているこの水面のようばかりだと考えてしまうのも、ずるいと思われて、とりあえず私は、北陸沿岸の日本海を考えた。

 

極めて美しい。

海から見た山。海水浴客はこれに近い風景を見ながら遊泳するのだろうななんて思う。

波を静かにする仕組みが海中に施されていることもあってか、波しぶきはなかった。 もともとこの日は海が穏やかな日。ずっと向こうまで歩いてみたい。ちなみに最も奥に見えているテトラまではここから800m.

漁船。

  しかしここの海はなんだか明るいね。そう何度も目で海面を舐めまわしたが、ごろごろした礫場に足を突っ込んで屈んだまま、やがて腕時計を見る。やっぱりもうこんな時間か。早い、時間の経つのが。それにしてもどんどん昇温している。このままいくと日中はひどいことになりそうだ。汀は陰がまったくない。黒部の山々を昇ってきた日に、前腕を灼かれはじめていた。
  視線をそのまま地平に落とすと、遠くに日陰の釣り人たちが、こちらを見るともなく見ているような気がした。私は北陸旅行の真っ最中だ。
 くらっと立ち眩みしつつ、立ちあがる。これが国土の縁(へり)の一曲線。ずっと向こうまで見ようとする視線という直線を自由に動かし、海岸を立ち去った。

 

海岸特有の階段だった。

堤防の上は松並木の小径。海から少し離れてこういう道を歩くか、それとも水際を歩くか。 私まだ水際だ。

 

  松の盛り土を越えて、民宿の通りに戻ると、急に視界が狭まる。ああ今度は別の駅か。 こうして海から戻ると、いかにも海水浴客にとっていい塩梅にある駅といった感じだが、やはりコンクリートの箱で、更衣室とも、倉庫とも自治会館とも、ポンプ室とも取れた。
  駅舎の中は涼しかったが、外は乾燥した照った暑さで、気温の変化に少し体がだるくなる。この時点でこんなでだいじょうぶかな。

  列車到着の10分を切って、ホームに行こうとあの、じめっとした踊り場に出た。真新しいフェンスの網目から、国道の音が聞こえてきていた。目を背けず、思い切ってよくおもちゃを見つめた。点々と泥をかぶっていて、置かれはじめたのはもう長いこと前のようだった。この暑いのに花が差されて間もなくて驚かれたが、水の濃い濁りがまた年月を語っていた。もし生きておれば自分のおもちゃがこんなままなのは許さず、自分から怒って汚れを拭くかもしれなかった。けれどもこんな佇みさえしないところでこんなままになっていることからして、やはり死んだのだと思えた。本来互いの心を鎮めるための供え台が、海をまだ惜しむような気持ちや、うらめしさを思わせるようになっていくのは、不思議なものだった。そう思い当たると、ただ子供が亡くなったからおもちゃを載せたのだというふうに、眺められていった。
  そう見えてから、たまたま降り立ったこんな私でも亡くなったことについて分かち合うことができ、役に立ったと思えはじめ、安らかなものを感じた。
  現在という軽いものしか見えなくなったまま、また、生存していることを貴重と捉えることからくる物思わしさもなくなり、さっぱりした気持ちで海も捨てホームへ入った。白線だけの風景、屋根のまったくないホームは灼けている。終わった今年の夏も、海をはじめとしていろんな事故があったのが想われた。松林は海を隠している。いじわるでも何でもなく、どれほど悲しいことがあっても、ぞろぞろ林となして無表情に永遠に海の彼方を、見続けているだけのようなのだった。実はそれで隠していたんだというような擬人的な思いつきは受け取られなかった。海の彼方の透明の虚空ばかりが考えられてならなかった。

  でも海に突き出す崎にあるというその宮には、何を願うのだろうかな。航行の安全を、これからの旅の安全を、海やほかで亡くなった人を、悔悟や赦しを、そしてもっと身近なことを。空虚ばかりでも、そういう気持ちは、海を渡って伝わってくるのだった。さまざまな悲哀を孕んだ清澄な海、この駅はそういう海原への入口だった。

糸魚川へ

  旅の無事願いたくなる悲しく明るい海の入口の越中宮崎で、人の祈りの聞こえるのをホームで耳にしつつ、私は心を決めて列車に乗り、いよいよ天嶮へと向かった。客はほとんど誰もいなかった。うらびれた番屋、可憐な花々、その向こうに暗いとも明るいともつかぬ海が窓に映しだされ、この列車が果てに向かっていることを教えていた。トンネルなく、市振に着いた。天嶮の前で列車は、躓いたのだ。市振は相変わらず山に襲われ、陰に覆われていた。こういうところで足を取りなおして長いトンネルに入った。今までのすべての現世の記憶を消さんとばかりに、轟音とともに窓は黒インクのローラーで塗り潰された。はっと一瞬の明かり区間。またトンネル。もう引き返せないと思った。
  列車はとうとう減速し、親不知駅に入った。果ての真っだ中らしく、朝もかなり遅いというのに、いっそう陰のさなかだった。だが高架道の向こうの海だけが清冽な水色で眩しいほど輝いていて、この先、無事に広いところに出られるのを予感させた。

  2年前に降り立った親不知駅。それまでなかったほどの鮮やかな印象を残したこの停車場をこうして目の前にしていながら降りないのは、物狂おしい心地だった。しかし進歩と、新しい地を目指して、断腸の思いで発車させた。
  トンネルを抜けると、もう何もなくなった。窓にはやがて大海原だけが映り、ふっきれた。青海というところだった。その単純な地名は、まさに蒼き海それしかない、際限ないところだと思われた。

次のページ : 糸魚川駅