浜坂駅

(山陰本線・はまさか) 2008年10月

浜坂へ

  午前8時半、朝日が眩しい一方、香住のホームでは、上屋の暗い影の中に 蛍光灯に照らされた駅員が駅務室の窓からこっちを見ている、というぐあいで、いかめしい改札のある古いタイプの主要駅なのだが、爽やかな冷たい空気に包まれていて、隅々まで清らかさを感じられた。わずか2,3の人とともに、静かだった駅に滑りこんできた浜坂行きに乗る。駅員は送りだすようにしきりに放送をしてくれていた。車内にもぐりこむとすっかりすいているが、早くも単独行の旅行者を見かける。しかし群れるを避けた老齢の人らで、静かだ。餘部の鉄橋を渡るも、ゆっくりと見渡せる雰囲気で、架け替え前で騒がしい今はもう次の列車ではだめだっただろう。

車窓にて。香住市街の風景。

車窓からの香住海岸。左手に回って行くと鎧袖がある。右手の小島は 兄弟赤島の兄島だそうだ。このへんは香住からの遊覧船で見ることができる。

トンネルを通過する列車。

鎧着。

餘部鉄橋にて。

  あの餘部駅を下りる山道の分岐には西という集落が挙がっていて、そちらは夜は電気も点いていない道だったからよく憶えていたが、その集落のある谷筋を、汽車は杉林を沿わせながら 高い路盤のままで詰めていく。木々で見えないけれども、昨日行けなかった方角に向かっているのだな、と想像していた。まもなく入る桃観トンネルは桃観峠を抜けるもので、山陰線で最大の難工事だったともっぱらだが、知らなければまったく気づかず、すっと入っていくところ。土木事業は一人一人の姿によるものというより、未来にとっての一種の自然や自然な暮らしを造ることのように思われた。

  隧道を抜けると人肌くらいの暖かい陽射しが森を滑ってモケットに多角形を落とし、窓脇に置いた手の袖口に仄かに暑さを感じた。久谷は山の駅だ。

浜坂駅

  その地名に似つかわしく、狭い谷底平野を見下ろすようにしながら汽車は下っていく。そうなると、もうまもなく浜坂になる。平地が現れ、案内が流れると、大きな駅に着く気持ちがして来て、そわそわした。気動車は「はまさか。はまさかです。切符、運賃は駅の改札口にお渡しください」と放送を流しながらゆっくりと進み、転轍機で車体を揺らす。しかし降りてみるとこじんまりした駅だった。

  鳥取行きに接続しているからほとんどの人がいそいそと乗り換える。特に旅行者はそうで、地下道を通って改札まで行くのは地元らしい身なりの人だけだった。給水塔や蟹を描いた広告に、昔から凝り固まったように同じ営みの繰り返されてきた街に思われた。けれどもプラットホームからの風景としては、元 とある村落という様相で、旅情は乏しい。優遇される1番線のホームも高い屋根は埃っぽく、色合いはモノトーンで、改札口も2人分くらい、香住よりも狭かった。

乗ってきた浜坂止まりの列車。この車両がここより鳥取方に行くことはない。

 

ホームの待合室の様子。

香住方。

 

この列車は鳥取行き。えもいわれぬ朱色をしている。 左の石碑は「名勝 天然記念物但馬御火浦(みほのうら) 昭和12年10月」と彫られている。奇岩に溢れる断崖で、浜坂港からの遊覧船で見て回る。

名所案内には割と有名な地名が並ぶ。

向かいから見た1番線の佇まい。

 

貨物扱い付近。また駅名標が極細だ。

 

上り方。

 

駅裏の風景。

香住・豊岡方面を望む。

階段前にて。

3番線。4番線は剥がされた。

 

 

 

 

 

 

すっかり駅の名物に。

 

鳥取方面を望む。

地下道内にて。昔は跨線橋だったそうだ。

1番線ホームにて。

湯村温泉の表示は多い。

1番線ホーム。

…。

左の塞がれた穴はそば屋に通じていたのではないかな。

改札口。

 

貨物側線。

 

 

駅舎内にて。

香住駅同様フラップ式が活躍する。

時計はなぜかライオンズクラブからの贈り物だった。

出札口、改札口。

左手チッキ、右手が本来の出札口、だったのだろう。

待合室。

  ここも香住と同じように待合室に多くの長椅子が置かれていて、まさに汽車を待つという趣き。椅子の桟は摩擦により艶が出て、角が丸かった。さすがにそれほど昔から置いてあるわけではないが、あまたの紳士淑女もここに集い待っただろうことを、今はすいた寒い待合室で想像した。駅弁やおにぎりを売っていて、乗り換えのときは走って改札を出て買い求める人がいたが、この米田茶店の餘部鉄橋の表紙をつけたカニの駅弁はかなりの人気だ。

待合室にて。

餘部鉄橋や浜坂の街を紹介する一角。

駅前にて。

 

  生ぬるい風に呼吸するように駅の暖簾が揺れている。しかし歓迎の門が浜坂の閑散した駅前広場を救っていた。こんな門があるといつも おっと素直に気分が揚がる。この町に旅人は入ってもいいのだ、と思えるからだろうか。学園祭などの門もそういう意味だったのかもしれない。
  目立たない感じでカニを売る店や鮨屋が小さな佇まいで一角を占めているが、もしか、やはりこの辺りは数十年前と変わっていないのではないかと思う。香住といい浜坂といい、どうしてこんなふうに残ってこられたのだろうか。

 

 

 

 

 

  駅の暖簾は凝ってあって、重みのある 上等な染めものだった。ただ掛けただけのものに過ぎないのに、人がいるような生き生きとした表現や、有人であることのこだわりが見て取れた。建物も表情に乏しい扁平な陸屋根のものだが、この辺りが変わらないにしろ、昔のままにしろ、それらをできる範囲で生かしている町のように思われた。

 

 

 

鉄道グッズ館、鉄子の部屋というのがあった。 あれをもじったことは明白。

たいへん古風な安全地帯。

浜坂駅駅舎その1.

 

 

 

 

駅舎の軒下にて。

だそうです。

 

 

浜坂温泉は昭和53年(1978年)消雪用の水源を求めて掘削している最中に見つけられたのだという。つい最近だ。

ここから湯が湧いている。

 

 

こちらが足湯。

定休日があるということはちゃんとメンテナンスされているのかなと思う。

この一角糸魚川の同じ場所の一角によく似ている。糸魚川を思い出してしたかなかった。 碑は国民温泉保養地指定記念碑(1991)。

喫茶店の昔ながらの通り。

左手駅。駅前付近の風景。

一見交通量がありそうだが、そんなことはない。

 

右手アクティブプラザは湯村温泉などへのバスの待合所でもある。 飲食店や病院などが細々と入る。

歓迎の門をくぐったメインストリート。

 

  曇りになって、肌寒かったが、そのほうが浜坂によく似合っていて、商店街を歩いた。たぶんここらしい季節が冬だからだろう。店はすぐまばらになり、ほどなくして途絶えた。海までは意外とあるのではじめから行かないつもりをしていた。遠くの歓迎の門の向こうに藍染の暖簾が見えた。ここは市街というより、町だろう。しかし浜坂と聞くとなぜか未だに大きな街を思い浮かべてしまう。地名の清音の繋がりはとてもきれいで、また、地位を感じさせる。

 

 

鮮魚店のある風景。三叉路にて。

魚が干されていた。

 

焼肉屋とパチンコ屋の看板のかかる とある通り。

海の方に向かう道。三叉路にて。

 

 

振り返って。

浜坂駅北の信号。

この道を行くと温浴施設のユートピア浜坂へ。遊覧船乗り場のある浜坂港もこちらだが、駅から意外と遠いので、バスを考えてもいいかもしれない。

 

帰ってきた。

 

  駅に戻った折に、面倒でも荷物を置き、くつを脱いで、足湯に入った。疲れていたし、冷え切ったのを我慢していたので、目を瞑ってしまうほどに気持ちよい。浸かっていると、やかんを持ったおばさんが近づいてきて、足湯が利用されていることにほほえみつつ、声を掛けてくださった。蛇口から湯を汲みに来たそうだ。ここは新しい街並みになんて頼らなくてもいいんだな。それが意図的なものだったとすれば、どれほどの叡智を必要するだろうか。浜坂は、ひいては但馬海岸は何だかいつ来ても安心できる気がする。

足湯にて。

  足湯があるように浜坂は温泉地だが、さらに山手に湯村温泉があり、近畿圏では割りとよく知られている。そこまでくると氷ノ山(ひょうのせん)界隈が視野に入ってくる。氷ノ山なんて聞いているばかりで行ったことなど一度もない。バスを乗り継いで入るのもおもしろそうだ。

  足湯の背は元貨物扱いのところだから、汽車発着は手に取るようにわかる。少しばかり肉声の放送も聞こえる。そろそろ上下とも発車時刻らしくて、少し向こう見えている例の暖簾に、方々からゆっくり歩いてくる町の人々が引き寄せられていく。気持ちを切り変えて足を拭いくつを履く。駅舎の軒下を歩いて行って、暖簾のところから中に入ると、すでに客らが列車を待ち、出札は数人並んでいた。売店でも車内での時間つぶしを目当てに、買い求める人がちらほらいる。発車はまだだが、列車が上下とも入り、「ご乗車ありがとうございました、はまさか、はまさかです」と駅員は改札しつつ音量を上げて流すと、降りてきた数人はほかの人を出し抜いて売店に来て、弁当やおにぎりを求めた。籠棚の中はすぐにまばらになった。

 

 

右:進行方向に矢印が出ている。

鳥取行きワンマンカー。これに乗る。

  浜坂は街の華やかさや、鉄道の街らしい偉容を見せつけるのでなく、それらをいっときそっと垣間見せる、奥ゆかしいところのようだった。

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