東浜駅

(山陰本線・ひがしはま) 2008年10月

  ひそやかに劈されし蒼海あまた巌の鎧袖ガイシュウに隠す國の最後の街、温泉地の浜坂を出、峠はさらっと通り過ぎて、東浜というところに出るけど、鳥取に入った、という感慨はなくこれまで通りまた、名もなき浜や海が何度も現れてくれそうだった。けれどもこれまでと違い、確かになんとなしに開けてはいるし、少し歩けば浜に出られるのが窓から窺いしれるほどなのに、海抜を感じない。それにしても、旅にぴったりなこんなところに停車し、わざわざ下車を申し出るのはなんだか気恥ずかしい気分だ。若い運転士の脇にいた経験ありげな補佐はただはいとだけ述べたが、ほんの僅かに笑むようで、また山陰の旅行者かと穏やかな気持ちになっているかもしれない。「ここは途中下車する人が多いんですよ。」

  駅はくたびれたものではなく、ただ静か、黒ずみはじめたコンクリートには浮き輪の子の足裏が吸いついたかもしれない。駅舎の中の、もはや無人だが、几帳面なタイル張りさえ、海水浴客を考慮してのことか、なんて想わせる。造りからするとかつては少なくとも臨時でも切符売りがいたようだ。

鳥取方。右手に貨物線跡地や官舎跡が見て取れる。

ここからは鳥取! 但馬を抜け、 いよいよ、開ける平野、開ける海の明るいタイプの山陰がはじまる。

兵庫県側。七坂八峠のある山を望む。 近年はあの半島を越えるトンネルができたが、それまでは七曲がりの険しい道しかなく、 兵庫県側からはアクセスしにくかったようだ。

 

駅構内の風景。

 

下りホーム待合室。

あの道先が海なのかな。

有効長は結構ある。

今度は羽尾峠をトンネルでくぐる。 東浜(陸上(くがみ))は、このように二つの半島に隔てられた入り江。 地図からするとこの半島は越えやすく鳥取側からのアクセスは昔から容易らしかった。

 

白線がまだ残る。

跨線橋にて。

なんか駅らしくない。古いマンションの管理人窓口風だ。 そしてこの駅、上屋がない。

右の赤いのは乗車駅発行機。稼働していた。

兵庫県方。

 

 

 

無人化済み。だいたい一時間に一本。 夜は23時台まであり、この辺では珍しく思える。 浜坂以東は21時でしまい支度だったので。 鳥取近郊は割りと遅くまで列車がある。

駅舎内にて。造りが殺風景なのはしかたないか。

 

駅舎前の様子。右手トイレ。

駅前広場。小さい駅にしては広めだ。

駐輪所。新しいが、古風な造りにしていてよかった。 白い鉄骨は気が重い。

東浜駅駅舎。その1.

2.

駅舎から見た駅前広場の様子。

 

駅舎全景。3.

東浜駅設置の碑。

  車も走らないし、物音一つしない集落を背に感じながら、開通の顕彰碑を読む。もうこの大長文からしても、ここは特別苦労があったんだと語りたげだ。開通して遠方の街とつながり各地でのいきさつが伝播し、案外どこも苦労していたなんてわかることがあるのだろうか。これももはや黒ずんで、彫りは曖昧になっていた。

  十代後半の子らが老人の車椅子を押し、あるいは散歩する手を引いている。ご老人はそれぞれまんざらでもなくうれしそうだった。潮騒どこかで唸りあげる、何もおもしろいものなさげな町。絵に描いたような道徳と閉塞感で苦しくなり、一人で野心的に遠出している自分と対置させられた。身勝手とか好きなようにというのはまるで自分のことをいうようだ。しかし車椅子を押している子が優しく、どこへ行きますか、と老人に尋ねて、今度はもっとこっち、なんてぶしつけに言われて気分も損ねない図を一瞬見て、どうも実習か仕事ではないのかなと思い当たった。

浜坂方。昔はここが街道で往来もあっただろうけど 国道178号が付け替えられて峠前の行き詰まりみたいに通りはない。 右手、陸上(くがみ)バス待合所。陸上バスというバス会社があるわけではなくそういう名前がつけられているだけ。

バス待合室にて。こんなところでも密入国の恐怖がある。

海へ。

  「あのカーブする道先の大空間に海があるんだよね」 海面は見えないが、海があるとしたらあそこしかない。しかしあるとしたら、この砂状の台地ががっぽり海に掘り下げられたという感じだ。こいういときいやなのは、見えているのに汀に最短距離で行きつく道がないという場合。このときもエル字の道先はバーがあり、正式な道はなさそうだった。「でも駅がこんなに近くて海水浴場を案内しているんだから、仮に地形が道にふさわしくなくても、むりやり人が獣道ふうでも何でも捻じ込んでいるだろう」 駅近くして海あらば道は自ずと生ずるなり。李の樹じゃないんだから。さてどうだか、と期待しないようにしつつエル字の先端まで赴くと、さびしげな叢の斜面の遥か下方に微妙の淡い翡翠ととても薄い縹色の棚引いた海が人知れず揺籃されている。その色合いに瞠目した。そうでいながら、なんだか無名の浜という趣きなんだ。曖昧な形の雲の裂け目が、逆に水色の雲 のようで、日の光乏しく、潮風というより砂の匂いする風に吹き揺られる叢を切り裂いた里道がまっすぐ下ってる。深い印象の光景で、きっと初めは集落の中心からここの人たちだけがこの浜に入っていたものの、停車場ができて、汽車で訪れた人々が強引にここを下っていってこれができたのだ、そんなふうに思いたくなる。これを下って行かない由はないと、板を打った道標に誘われて下りていくけど、こんなところ公に案内していいのかと思うほどの所有のはっきりしない、境目のような私的な道。靴が土を削り、茅穂が脚に触れる。これが海を望む一人旅だね、典型的な様相なので、人に見られたら気恥ずかしい、と思いつつも、下る坂に促されるままに、体は躍動させられていた。

 

目が吸いこまれるような海面の色。

 

 

ここからだな。

 

不思議な土地。

 

 

 

 

  やがてはごみの浜に着いた。しかし遠大な浅瀬の浜を 氷結した真白い環礁が次から次へと滑ってきて、まるで動く棚田かのようだ。偉大なものが海の向こうからやってくる前触れの気もして、そわそわする。方や、足元では人や地を赦したかのような淑やかな玻璃の裳裾が幾度も扇を描いては消えていき、海は海の汚されるを許さず、無言ですべてを人の棲む地に押し返たようだった。ここは晴れがいいな、だがわかっていた通り気圧配置に張りがなく へんな薄雲が好きに湧いている。けれどもこの弱々しい光加減が、奥ゆかしくやさしげな、乳を練った翠玉の水塊をもたらしたとすると、天気というのは無に思えた。来てみないとわからんものだな。張っていた気が抜けていく。しばしの間、海浜に屈んだ。

あれが兵庫県との境になっている。あの向こうはずっと山で、海岸は断崖になる。

羽尾岬。半島の先端は羽尾鼻と呼ばれる。右手の島は円山。羽尾灯台がある。 これら2つの半島に挟まれているのが陸上(くがみ)。

さっそく浦富海岸風の奇岩が。

無限遠方。

 

波の様子。

 

下りてきた方。

 

 

 

独特な緑。

 

浜が疲れている。

 

 

 

 

 

 

  帰り道、この曇りがいい、一般的だ、秋だ、海にひたらぬ者にふさわしい、駅もたいしたことない、旅情はうまく殺がれていると足が弾む。

  介護の学生らの姿は消えていて、静まった木造の集落に セメントを固めた硬い軒から東浜駅、の表示が見下ろしてる。

  碑文はやはり ありきたりなことだった。しかも長文からして山陰線の開通のと思いきや、ここの開業だけについてのもので、なんだかあきれてしまう。平易なので怪しむと昭和62年のものだった。だいたい、こんなことが書いてあった。

  西に羽尾坂、東に七坂八峠の嶮。東村は、地形上、陸の孤島として文化の恩恵から遠ざけられてきた。特に、明治四十五年、国鉄山陰線が全通し、村内を驀進する上り、下りの列車を目前にして今更ながら、交通文明の利器にとり残された不遇を悲しみ、その感の一層つのるものがあった。爾来、駅の設置は、村民一様の悲願となったが、数々の運動に失敗し、この事業の容易ならざることを知り、なかばあきらめ、手段もないまま年月を重ねていった。
  敗戦によりわが国は大転換を迎え、昭和二十二年四月、駅の設置を公約に、初の公選村長として就任した岡田光治村長は、幾多の紆余曲折を経ながら、各機関、団体の幹部並びに有識者を巻きこんで、地区民一丸となって大運動を推進した。その間に行なった請願、陳情は二十数回にも及んだ。
  こうした村民の数年にわたる運動の誠意が認められ、半ば絶望とも思われていた駅もついに実現することになり、海にちなんで名称は東浜駅として
  昭和二十四年七月一日仮駅設置
  この日午前六時五十九分、下り通勤列車が初めてこの駅に停車、地区民多数が集まり、感激のたかまりの中で、この歴史的瞬間を迎えたのである。更に、
  昭和二十五年一月一日、本駅開業
  かくして長年にわたる地区民の願望も漸く達成されるに至った。ついで、
  昭和二十九年七月十五日貨物部門開業となったが、国鉄合理化などにより、
  昭和四十七年二月十日駅無人化 となり、今日に至っている。
  この駅は請願駅であるため、その費用はすべて地元負担で設置された。当時としては巨額の負担であったが、一部篤志寄附、県補助金のほか、地区の方々に過大な負担を願い、地主からの好意的な土地の提供などを受けてこれを調達した。
  明治二十九年日本国有鉄道法が施行され、爾来、九十年、今、国の行政の一大改革により、国鉄の民営化が実施されることとなったこの機に、東浜駅の由来を後代に伝え、村民の生活の足であることの東浜駅の一層の隆盛と地区の繁栄を願ってこの碑を建立した。
(*)

  さすがに冒頭はたいそうだ。作った感じがしている。それはさておき直截に云ってはいないものの、その昭和六十二年時点とやらの、町民の狼狽と悲観がいたく窺いしられる。存在が埋没し、経緯も顧みられなくなるのもその時点ですでに時間の問題だったという、その。こうしてみると、どこにでもある話ほど貴重なのではないかと、じわじわ思えはじめてくるし、過去を想うよすがのないのもあいまって、存在そのものが近代遺産のように思えてくる。いまや形而上の冷たい一点でしかいないようにさえ捉えられている「ひがしはま」なるところに、こうして肉ついた足裏でやわらかく歩いているのかな。形あり肉によるものにもかかわらず、表記だけの、取るに足らぬもののように口をひそめられるのに、町や停車場は耐えられなさそうだ。今もなお誰かに利用されている公共財には、こんなふうに犠牲を払われて成り立ったものが多いのだろう。だからといって、碑文の回想している時代が続いているわけでもなく。だから、せめて海でも眺めて、お茶でも飲んで、わが町のみごとな浜が讃えられれば、駅は全体でそう言っているかのようだ。「海にちなんで、か。なんだか随分と予見的だな。」 活気が漲り、生活に欠かせないのだ、と使い倒されることにあった存在意義からの解放を赦され、遠来の人においては、ただ観洋のためにあるような、浜の付いた名の駅は、その存在自体があの海や浜のようにきれいで、遥かなる海洋のどよめきさえ感じる静けさとともに、研ぎ澄まされていた。

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