東久根別駅
(江差線・ひがしくねべつ) 2009年5月
函館に行きたいと思っている。しかしそれを背にし、南下する列車に乗っている。東久根別という駅に降り立つために。気持ち悪い感覚だ。このまま帰ることになったらどうしようか、などと思う。気候も天気も、奇妙なほど申し分なかった。暑くなくして、陽に緑が明るく、きらめいていた。
しかし列車は、駅らしい駅に行き着くまでの、途中のようなところに停車する。「ひがしくねべつです」と軽い感じの女性の自動放送を思い返していると、転轍機も踏まずすっと静かに停まった。南下が不安になって途中で列車を降りたかのような気にさせてくれ、この駅には救われた気がし、元気を取り戻して下車。二三の人と降りた。降りた人はその足で歩きつづけ、住宅街路の角に消えた。ここは飛び地みたいに道東の雰囲気が忽然と現れている。
函館方。
駅前の風景。
函館方面を望む。
上磯方に見たホーム。点字ブロックはなく白線一文字なところが古風。
こんな風景を見ながら列車を待つことになるる。退屈…。
駅舎前にて。
どうも貨車駅にも地位の差があるようだ。外観こそ剥離だらけだが、中は券売機や洗面所、ストーブまである。そして午前7時から午後8時の間しか開けないという。ストーブあるのでそうかなとは思ったが、こうして初夏になって時限があるとなるとたいそうだった、こんななりの無人駅で、辺りは住宅地なだけに。それで住民の人ら一年を通じてが心地よく使えるようにとの積極的な配慮をしている誰かの存在を感じた。
駅舎内の様子。
燃料や本体を盗まれないようにと厳重だ。
なかなか設備が調っている。
木古内〜江差にあった貨車駅と違いきれいな方だ。
寝台列車を連想する。
券売機を置いたので配線がぐねぐねしてる。
監視カメラ付き。
室内で待っていると汽車が車輪が間近だ。
踏切から見た駅舎。
東久根別駅ホーム。
上磯・木古内方面。普通列車は気動車だからこの架線は使わない。
駅への階段、兼、踏切への階段。
東久根別駅駅舎。
その2.
しかしこの駅前は何を頼りにして生きていけばよいか悩まされるほどの静かで画一的な団地だ。今でさえこんななのに、降雪の季にならばどれほど懊悩が待っているだろうか。団地はずんぐりして厚ぼったく、幾棟も並び、幻のようにまぶしい青空のもと、ひと気のない街路はいたずらに広く、縁石に隔てられた緑地帯は人に歓ばれることなく若い葉を出放していた。
それにたいていは、近郊のこんな整った住宅地には、もっとそれにふさわしい駅がしつらえられるものだ。なのにボロボロの貨車だという様相に、北海道は永遠に仮設の開拓村であるというように思われた。それが心のよすがになるのかなあ。実際にそんな扱いはないだろうけど、観念的な心の支えを見出したかもしれなかった。
北海道らしいなと思う。
再び駅方。
線路の向こう。
その3.
駅裏へ。しかしこの踏切、歩速も落とすよう工夫してある。
危険なのだろう。
踏切を渡り終えて。
踏切から見た駅裏。
幸い、ここではわずかな滞在だった。その間にも、特急白鳥はまるで駅などそこにないかのように、けれども速度をいくらか殺いで、通過していった。貨車駅舎を出たすぐのところがレールの真横だから、目の前で蠢く車体の足周りに身体を揺るがされ、そのただ真っ茶色な鉄塊と音には、函館の潮風を感じた。列車は最後尾を残し、その響きが遠くなりそうなころ、あの無表情の道路と団地の風景を、子供らが首をひねって大きな声でしゃべりつつ自転車を飛ばし、走り去っていった。
無窮の虚しい空と無限に伸びゆくレール。レールに触れて、その振動を感じたくなる。なにもかも投げ捨てて、声に出して可視化したくなる。おおらかさというものがあるとすれば、それは、あらゆるものを手放し、無限の寂しさを感じる先にある、発見とそれに基づいて佇立する脚の力強さと、穏やかさであってほしいものだと思われた。
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