東八尾駅
(高山本線・ひがしやつお) 2009年9月
このあたりは左手にある残丘のあるような準平原の風景が広がる。
あれ、誰かいるよ…。
楡原を過ぎて暗澹とした神通峡やダムを眼下に見下ろす。列車は峡谷の山裾の中腹をへつり走っている。ここはいつでもこんな深緑の水を湛えて人の思惟を引きずり込もうとしているではないか。そんなふうに思うのはおそらくすぐにこの幽境が終わって、地平に着地するからだろう。笹津に着けば野原になり、あとはただ富山市街に向かってなんとなくくだっていくだけだ。
ワンマンカーの中へは朝日がさして、富山に出る人々でかなり混んでおり、窮屈だ。座席のピッチが狭い。降車駅は事実上富山だけのようなもので、そこまではただ積んでいくだけである。峡谷から里までがたいへん短いため、里や街になっていく光景には加速度さえあった。そのような二つの事情から、どうも心がしんどく苦しい。たまたま東八尾で降りることにしていたので、富山にしか向かわない人から離れ、一人きりになれた。ひとりかなりの老女と降りたが、その人はやはり集落の人で、小鳥鳴き囀る刈り入れ間近の圃場地に消えていった。駅のすぐそばは少し陰鬱に、不思議に、林に沿った道がくねっている。
駅名からしてホーム一つくらいのものというのは察せられるものと思う。乗り場の待合室に入ると早くもむっとし、緑のにおいが強い。振り返ると、あたりいちめんまぶしい稲田で、かすかな風が籾の匂いを運んでいた。鋭い日差しで膚を傷めつけながら、また同じようないつもの一日がはじまるのかとうんざりする。けれどすぐ逆方向のが来るのでここでは時間がないくらいだった。その方がよかった。本当はいつでもその方がいいのだが、とりわけここでは、富山に行く人々から離れ、けれども一人になろうとした時間は短く、すぐ乗る列車では富山行きの人とは会わず再び山峡方に向かい、自分の孤独な旅を守る、そんな感触が深まった。九月らしく朝日がどきつく広い川を射してますます青々とさせ、空気は清澄で、この逆向きの列車には全く違う人模様、つまりとてもすいていて、開かないドア付近に立ちながら景色を眺めつつ飛騨高山を思い描いている中年紳士や、鉄道に乗りたいだけの人がいた。人生はそれぞれで、その人が決めた道なら、何でもよいのだと思った。僕はその富山行なのか、それとも旅行きなのか、決めかねているけど、とにかくそういうことなんだ。誰もが同じ道を辿れるわけでも、辿らなければならないわけでもない。同じ道を辿りたかったと言うかもしれないが、辿らなかった人たちはその人たちで、あなたを必要としているのだ。自分自身を受け入れ、好転換させればいい。東八尾駅なんて、何もありやしない。けれど人に潜在的な勇気と決定という風景を見るための、一つの折り返し地点だった。もちろん駅自体、その風景を含んでいる。