市振駅

(北陸本線・いちぶり) 2007年9月

  車掌は、丁寧さはいちおうあるものの、やけくその口調で、「いちぶり、いちぶり、です」と流し、言い終わりは、尻切れとんぼのようにぶつっと荒く切った。海面だけに陽が当たっていた。希望のように、けれども儚くそこだけ明るい。というのも、山が屹立していて、日本海の正体として海底のような蒼黒さが、陸に写し込まれていたのだった。

  どっどっどっどっどっどっ、駅に躓きそうになりつつ列車が停まる。海は一転、防風柵が遮り、旅人の高ぶる気持ちを、現実を突きつけた格好で、いちど落ち着かせた。扉が開く前の沈黙。デッキに立っている。やがてすごい空気音とともに扉が開く。外界と融合するにはそれだけの力がいるのかと思えた。しかし未来的なものではなく、扉は戸袋に突き当たったかのように、扉自身がもんどりうったような、古くささがあった。扉の引かれてできた切り口が、金沢でも富山でもなく、親不知あたりの空気を見せている。永らく待ちわびていたところについに来た。出立してからは、想像していたような、人を燃え盛らしめるような妨害は何もなく、単調に、普段のように、いま私をここに降ろす。これらすべては今までの緊張感の成果だとも思えた。
  いつものことでうんざりしていると聞きなせるようなホイッスルが響き渡って、また、がたごと、旧式の車体を、いっそう天嶮に向かって引きずっていった。

市振駅らしいところ。

越中宮崎方面に見たホームの様子。駅舎と山が近い。

親不知方面。難所をほとんどトンネルで抜ける。親不知駅は約10km先。 駅間距離も長い。

ホーム端から見た市振の集落。手前が市振漁港。

下り線。風除けの柵が季節風の強さを物語る。

外側線はこんなところで途切れていた。 何となしにちょっと幹線の趣き。

この市振駅の特徴で、ホームにある支柱の根元にはこんなふうに水輪が描かれていた。何か水の中に立っているみたい。植え込みは混合して伸び放題。

上屋の様子。一両分くらいだろうか。

  全国津々浦々、とっくに日の出を迎えているだけに、ここはこんな凄惨な一面があるのだと初めて知らされたようだった。聳立する山崖による蒼暗さと、そこをへばりついて通る国道の怨めしいこの世らしからぬ走行音が、天嶮と、ここに住まうことの真実を老人が語らずして静かに教えているようで、それをただただ素直な気持ちで聞いていた。いちめんの陰が、夏の朝の涼しい空気を強調していて、ありきたりに、わかりやすく涼やかだった。視覚的には金網のせいとみえて潮香はかすかだった。それで総じて、もしかして早く来すぎたのか、と不安になったが、これから天気の良くなりそうな日にここに来られたことの充足感も大きく、勇み足だと断定して落胆することはなかった。

  もうこのあたりは土地に余裕がないらしく、ホームも一つだけで上り下りを共用している。意外なのは国道が近いことだった。いい枝振りの松佇む静かな海辺の駅でなくて、山崖の直下を走り抜く大型トラックやダンプの音が、この駅と親密な関係にあった。

ホームから見た駅舎。これがおそらく雪国仕様。 駅員の行き来する通路に、雪が積もらない設計になっている。

海辺の駅の、小さな構内踏切で警報音が響く。

 

やっぱりない方がいいかもしれない。

 

 

レンガ倉庫。燃料などを保管したそうだ。

越中宮崎、富山方面。

水場か何かの跡だろうか。赤い部分は凹っと盛り上がっていた。

こういうふうに海辺の小さな駅だけでなく幹線らしい風景があった。

ホーム端付近にて。隣の駅は越中宮崎。右のコンクリートの道を歩いてみたい。

親不知方面に見たホーム。

 

 

 

市振や親不知に来た、と思う。

 

 

  そうか、白砂青松ではなかったんだ、こんなものか、と、海辺の貧相な構内踏切を渡ろうとすると、その先の木造の雪よけに、名勝、親不知、と記されていた。これはだいぶ昔のスタイルだ。親不知ももう、はやらなくなり、放置されてきたのが薫った。
  駅の中に入ると、とたんにもの寂しくなった。蛍光灯が静々と照らすそこは、当たり前のように出札が廃業していた。そしてこの地区を一面覆っている陰、この陰をもたらしている正体こそ、ここの名勝であるという感じで、何十年も前に作られた天嶮の絵地図や、伝説の紹介がかかっていた。

海に遊びに来た、古い観光地に来た、という感慨。 昔は駅員が出迎えてくれたんかな。

 

 

黒色は珍しいと思った。

 

本当に簡素なホーム。

回廊端の様子。

荷物の運搬などをしたところのようだ。

 

分電盤がもうぼろぼろだったのを憶えている。

 

JRロゴシールが国鉄より反って哀愁じみたものがあった。

据え付け長椅子のある駅舎内。

旧出札口。また黒電話なんか置いて…。わざとかとさえ思えた。親不知駅にもあった。 ここは無人駅だから有人駅などに問い合わせするときに使うという。しかし横に新しいお客様用連絡電話があるので、もっぱらこちらで尋ねることになると思う…。冬季は雪や風で列車遅延がよくある。

左手に個人掛け椅子。

  踏切向こうの暗い海の青、静かに時計が早朝を刻む。
  それにしてもここに列車で来てそれから親不知に歩いて向かう人ももうほとんど居なさそうだった。バスも廃止され、また観光地らしい体裁も駅には少しもなかった。駅前は先ほどの北陸街道を大型車がどろどろ言わせながら走りぬけている。押しボタン信号なので、走行音の止むことがまったくなかった。駅も昔ならほかのところにもよくある、片側だけ軒を付け回した小さい木造の駅で、とても適当な色にペンキを塗っており、離れると駅名表示はまったく見て取れず、すっかりうらびれていた。
  駅そのものはたいして変わらない中、街道の往来の姿だけは変わっていったらしかった。
  国道を挟んで向かいの商店のシャッターが開いた。おばさん店主がときどきこちらを窺っていた。ありきたりな昔語りが聞こえてきそうになった。

 

山姥伝説の紹介。かつて上路村(けっこう山手の方にある)から一里ばかりの山奥に、山姥が住んでおり、里に下りては村人を苦しめていた、とのことで、親不知以外にこんなものもあったのかと、背筋が寒くなった。

市振観光案内図。市振駅あたりから天嶮までが描かれている。親不知駅は範囲外だった。

大正元年10月15日開業だそうだ。

しかし明治41年と昭和63年の財産標が貼られていた。 そんなことよりNHKのシールが。たぶん駅員用だったのだろう。

 

右手にトイレがあった。

 

富山方に見た駅前広場の様子。

新しい案内板で、大穴、小穴などが記されていたが、 今行きつけるのかどうかわからなかった。

夏草から見た駅舎。三棟で成り立っていて、案外建物の規模はあった。 しかし左側のはたぶん倉庫。

駅前付近の様子。歩道の下は暗渠になっていた。

駅前唯一の商店。後日なぜかこの店が夢に出てきた…。

越中宮崎方面。こっちの方角の道は安心なのだが。

市振駅入口。駅の横には駐在所がある。この木はどこか市振らしい。

親不知方面に歩きだして。

 

自転車歩道通行可ここまでとのこと。 日本海夕陽ラインとの看板が立っている。 日本海に来たのだと思う。

 

平地少ないためか庭は屋根の上に。

旧道との分岐点。左が旧道で民宿などのある市振の集落や、海水浴場、市振漁港などに行きつく。

陸橋から見た北陸本線。富山方。ここも昔は踏切だったのだろうか。

山の形がまたすごい。

集落への道。無気味なほど静か。本来はこういうところだったのだろう。

  この日はほんの少しあたりを歩くにとどめ、民宿なぞのある旧道などに入った。個人の家なのに陸屋根の上に庭を作ったり、巨大なプールがあるので、変わり者のいるところだと思ったりした。もっとも、プールは市振小学校のものだった。
  しかしこのあたりというのは、少し歩くだけでは、まったくそのよさを享受しきれないところらしく、おもしろそうな道が続いている。是非ともこの駅を軸に、長大な徒歩旅行をしてみたいが、できるかな…。

市振漁港が垣間見えた。そして向こうには大洋。

富山方面を見て。下方、貴重な平地が畑とされていた。

駅への道。

 

 

  静かな駅舎の中にいったん舞い戻った。仕方ない。またここに来るさ。掛時計を何気なく見ると、なんとまだ午前7時だった。早く来すぎたと思えたのはおかしいことではなかった。降り立ちたいがあまりに、富山始発に乗ってからというもの、時刻のことをすっかり忘れていた。駅舎に入ってほどなくして、ようやっと日がこの市振地区をぎらっと射差し、あたりが一気に、かきんと夏になった。これだ。これが私の会いに来た、北陸の夏。幸福の感じが全身に亢進した。けれども、今日も一日しっかり暑くなるとわかる烈しい日射しでもあり、それが、そんななってもいまだ陰の広く残る、朝の涼しさの中を突き抜けてきたから、倦怠感や軽い頭痛に私は見舞われた。でもなぜこのあたりに憧れて抱いた想像には、そういう体のだるさがなかったのだろう。こんなはずではなかった、とも思う。よい季節で、お天気もよくて、風景が輝いているのに、体も気分も、どうしようもなく重くなった。夏はこれだからもう…。厭だ、とも言いつつ、それがいい、そう言いたいものだが、そういう逆説的なものより、さっき生水を飲んだときのような現実感が、その飲用と常に対になった干からびる感覚に代わって、いやに体を駆け巡っていて、それが体の重さと深く関わっているようなのだった。さて今日一日、この夏の気分に、空気に、ついて行けるだろうか。でもしっかり日なたになったホームに出て、できるだけ日光を浴びて体を慣らそうとした。

  それで今ホームに出ているが、あの踏切と雪よけというのは、隣の親不知駅にもあった。そういえば互いにホームも一つで、構内の風景がかなり似ているから、私は市振と親不知を、双子の駅、ということに決めた。こうしても間違いなさそうだ。ではどっちが、というと、やはり親不知の方が抜けたものがあった。ここはまだ、何となく街に行きたい気持を引きずっているようなのだった。

  ようやく数人のおとなしい高校生が集まりはじめた。自動車で送ってもらったり、自転車で来た者だった。この駅も通学者はやはりこれだけか、少ないなと思っていると、彼らの乗る列車がそろそろ来るというころになって、どこからともなくざわっと、集まりだした。ほとんど平地のないところだけに、そのように捉えられたのだった。またそういう集まり方だっただけに、時間を絶妙に読んで来たほかに、余計に地の人だと思われた。海辺でなく、旅行者の訪れなさそうな深い谷の集落が思い浮かんだ。そしてもう来ないだろうという間近のころ、駅舎の雪よけの回廊の中にバイクや自転車を元気よくつっ込む音が響いて、思わず振り返った。やんちゃそうに大きな声で「おおっ」と、隣の学友に朝一番の言葉をほんのふた言ほどだけ交わしている。いつも同じ列車のはずで会っているはずなのに、顔を合わせて、おおっ、と、呼びかけの意味だけでなく驚きも込めた感のある言葉で挨拶代わりにするのは、不思議なものだったが、若々しく、いつ会っても新鮮なのかと思えた。

  それらはこの駅の一瞬の火花だったようだ。列車が彼らを運び去ると海のある仄暗い駅に、私一人になった。気付くと、もうこの日、この駅は役目を半分以上果たした趣だった。気付くと、早くもこの駅はもう日中のうたを歌っている。これからは旅行者の時間のようだった。相変わらず大貨などが、そこの駅前の信号など常時青点灯であるかのように、つんのめって走っている。

  時間をやり過ごそうと、いかにも旅行者らしそうなのを喜んで、駅舎内や駅前の天嶮案内の図や文をじっくり読む。しかし不思議だ、いくら読んでも頭に入らない。そういう図や解説は、細かい一つ一つではなく、全体として、とどめられないほど頭に流れ入ってきてばかりいた。天嶮への想像を、押しとどめることができそうになくなってくる。それら案内板は、個々の視点と直接見取れない全体像とが組み合わさっているようで、ありえない同時な視点ゆえに想像を掻き立て、ひたすら個々に名の付けられた岩場などの細部への想像を誘 (いざな) ってやまなかった。そういう案内板は、案内板ではないような、不思議な力を持っているようだった。
  そもそも海のあるのに陰りがちなこの、何も知らずに来れば通俗的に貶めそうなこの漁村を、歴史の道や名勝として、規定するものだった。そういうものがなくても興味を刺激する地形だが、年月をかけて人々の通念を作り上げ、この土地に光を、当てるものだった。
  親不知は暗いけれども、そういうふうに明るみに出された面があり、影のようで光で、海辺にいると時々刻々、陰だったのが、海岸の岩場の端がまぶしくなって、照らされはじめるというような、いかんともつかぬところの感じだった。

  陽が差していて確かに明るいのに、薄暗いとなぜだか思わせようとする海を、ホームから見ていた。このあたりは景勝を保存するどころではないほど荒波が噛むため、コンクリートで丸ごと固めたり、テトラを置いているのだろう、そのような海岸だった。そして山はといえば、私たちを脅しているような山容なのだった。
  富山・金沢方面、という案内板を見て、こんなところでは金沢は夢のような街に思われ、憧れを感じさえした。こんなところは出てしまって、金沢のような余裕漂う都市に出たい。さっきの通学生の中にも、そんなことをたまに考えたりする人もいるのかな。ここは歴史ある通り道といえども、このうらびれようばかりは、どうしようもない、けれども、それはそれで通過ばかりするところであることを如実に語り、生々しく、どぎつく、人を惹きつけてやまないものがあった。

  富山・金沢方面への列車で去った。ホームが低く、ステップとの間に暗い隙間ができていた。しかしそこが陽射しで明るく、見やすかった。この先遠くまで見通せるような気持ちで、ステップを上れた。山と海の間を走る。山からは朝日が見えたり見えなかったりだが、海を改めて見るとこの時期だけかのようにさめざめきらびやかに広がっていた。たとえば金沢や新潟やほか、ここから身近となる日本海側の都市に出ても、これと同じ海があり、それがみょうに連帯や安心を感じさせ、この市振の誰かのはじめの一歩を、励ましている感じがしていた。

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