生地駅
(北陸本線・いくじ) 2008年8月
次は何駅だっけ、と考えてみてもなかなか思い出せない。気持ち悪く、眉をひそめ気分がとげとげしたが、やがて悶々として到着前の車掌の放送だけを待つことになった。その間(かん)というのは、いったいどこへ向かっているのだろう、という不安な気持ちになってくる。何を問うても、ただただ、豊作だよ、豊作だよ、としか返さないだだっ広い平野をたった3両でどこかへと向かっていく。むろんは、方向を間違えてもいないのに「どこへ向かって行くのだろう…。」 と、不安に苛まされながら列車に乗るということはほとんどない。今だって、次がわからないからといって深刻な結果に結びつくわけはない。しかしそうして方向が正しいにもかかわらず、そんな不安を抱く心境にならざるを得ない状況があるときに忍び込んできそうな、無名な土地へ行く感覚、行き先を告げられぬ感覚を今、断片的に味わわされていて、再び風景や列車や駅から、地名というものが消し去られていたのだった。
「生地だ。」 そういえばそんな駅もあったか、ちょっと存在感が薄いな。黒部などの市街は案外遠いのか、などと思いつつ、ようやく停車した列車からホームに降り立つと、安息させてくれていた冷気を一気に奪われ、ガスに点火したように空がかっと燃えていた。整然とした工場を夏草が縁取って、駅もまた、ひと気がなかった。潮香が漂った。改札の鉄囲いが錆きっていた。
風景としてはたいそう涼やかで、すっきりとした爽やさなのに、うめき苦しむほど高湿高温で、疲れた体には、食べた物を戻しそうだった。
富山方。
駅名標を見上げて思う。小学生がさ、せっかく生地をきじって読むと覚えたばかりなのに、これはいくじと読むと知ったら、たしなめられたら、たいそうがっかりするだろうな、と。 「まだ読み方あんの…」。
島式ホームから見た改札前の様子。
改札口。
替わって富山方。
黒部・魚津・富山方面を望む。
夏真っ盛り。
跨線橋にて。特に何もなく。
上り。
下り。富山平野は富山の端の端、泊まで延々と続く。そして唐突に途切れる。
跨線橋にいると、駅前で40人ほどの学生らが集合していて騒ぎ声が聞こえてきた。列車に乗るような格好ではなく、旅客ではないのが明らかなだけに、構内のひと気のなさと落ちぶれた様相が際立った。 「それにしても、夏はいろんな行事があるな。」 跨線橋はより太陽に近く、地表に集まっている学生らは、熾烈な光線を浴びているのが窺われた。
跨線橋から俯瞰した駅前。
今どき珍しい総瓦屋根の大倉庫。農産物の保管場所。
こういう風景も悪くない。
1番線の佇まい。
隣のホーム。やる気なさすぎ。
予約した宿屋へ赴くべく下車したのがこんな駅だったら少しショックかもしれない。
雨ざらしホーム。
生地は特急が停まれるくらいの大きさの駅なのに、ホームや駅舎はからんと音を立てるように何もなく、ひと気もなく、また飾りけもなく素朴で、それらが何よりも不思議だった。規模を間違えて建てたのかとも思った。潮風で傷んだラッチを抜けたら、駅舎の中はやや狭かったので、やはり元から格下の駅なのか、などと、この駅ののことを詮索した。
待合室。
ビールあり。工場も近いので。
窓口で買ってとのこと。
生地駅駅舎その1.
さきの学生らは水場に群がって自棄的に頭から水をかぶったり、駅の軒下の日陰に腰かけたり、いっぽうで日なたで隊列を組んだりの様々だった。半袖にジャージのズボンなどで、なんの途中なんだろうと思うが、しばらく観察して察するに、登山のための夏季歩行訓練の休憩らしいようだった。 「そっか、ここは立山の町だもんな。」 こんなふうに自由に団体が休めるくらい、街ではないのだけど、駅の建物だけ見ると、すぐ前に市街を擁しているような趣きだった。その建物の装飾のなさは、あらかじめ駅前の町の賑やかさに飾られるためのものであるかのようでさえあって、それは駅や旅情というより、役場や公共施設だった。かといって、デザインすればいいのでもないのだから、やはり、駅と同時には見えはしない街の印象、が駅舎を色付けし、また、駅舎が街を、締めくくるのだろう。
やがて隊長は立ちあがり「あともう少しだからがんばろう」と大声を掛けた。彼らは隊長の方は見ず、それぞれのろのろと思い思いに立ちあがって、にもかかわらずあっという間に彼らは駅から離れて行った。集団を集団として閉じる、雑談が楽しそうでのんびり歩きの中に和やかさと励ましと責任の宿る、麦藁帽子のしんがりのあたりが遠くなっていった。
そして駅前には幾つかの無機的な公共施設と、泉が一つ、取り残された。立山の湧き水。学生らがタオルやらシャツやらつけたりで好き放題に使ったので、どうなったかわからないが、その後は地元の車の立ち寄ること絶えることなく、二個、三個の白いタンクに水を汲んでいく。自分も汲もうと思ったのだが、隙がないほどやって来るので、「なんでそんなおもらいなんだ」と、訝しがる。学生がいたのをみて後回しにしていたのだろうか。しかしまるで井戸代わりで、炊事はぜんぶこの湧水で賄うほどとみえるほどだ。
2.
泊方。
なんか道路がいびつ。
この辺は未整備なのかもしれない。
黒部農協村椿支所。
その3.
4.
少しだけ駅から歩いた。道が狭く車も頻繁でめんどうだったが、水田が広がりきって、燃える黄色な空に突き出す遠くの松林で終わっているのを目にすると、もう海岸まで歩くなんてのはやめた。とにかく顔が焼けていく。目の下の皮膚が硬化したように感じられ、表情が変えようとすると罅か入るように思えた。あの泉で後先考えず水をかぶりたい。かぶってもすぐ乾くし。でもあの学生たちのように町中でありながら山を行くのではなく、山とみなしながら実際は町を行(い)っていてる自分は、やっぱりそうもいかない。ときに町の中を山のように行くのは、山の中を山であるように行くことより過酷になる、特に夏は…。その狭い道の深い側溝は、夏にも拘わらず水量が豊富で流れが速かった。水面には届かないし、するべきでないが、水に触れようと手を長く伸ばすことを想像すると、まぶしい水田が思い浮かんだ。
日本海方。駅付近にしては道は狭めだった。
湧水のおかげで夏でも水量は豊富。
生地駅前の信号。
海岸まであと少し。
遠くの松並木は海をひた隠していた。あの辺を歩いていて、異国へ攫われたという話を思い出した。目も鼻も口もない、のっぺりとした生地(きじ)のような平野みたいな、いつ果てるともつかない悪夢に引きずり込まれたのだろうか。そのような無限の広がりのほか、ただ、生きるためだけの地 と名付けられたここには、無窮の時間の恐怖も宿っていた。
駅舎もまたパン生地のよう装飾がなく、手前にこの酷暑の中を生きるための水の湧出地を擁していた。そうして西入善であの爺さまが発音した"Yegjy"を耳に聞いた。意気地がないと、やっていかれない、ということだとも思われだした。北陸の駅の裏はたいてい工場があった。それから稲穂の一つ一つが思い浮かんだ。もう気は遠くならなかった。
誰も来ない売店を営んでいる女性を気の毒に思った。そこは苦しいほど暑い気密な待合室だった。風を感じながらラッチを通ると、その錆びた鉄を心の中で舐めて、血液の味と塩味を感じた。プラットホームの古いプールにあるような正方敷石は、よしずを掛けたように日陰だったが、実際は鉄骨造りであった。私を単調な、真面目な暮らしへと、風景はしきりに誘っていた。自分を最後に待っているものは、どこを見てもこんなふうに見える感覚の摩耗や喪失かもしれないと思い、すべての旅の終わりを垣間見せられたようだった。
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